1.都は神の栄光に輝いていた
(1)ヨハネの黙示録21章が黙示録の頂点です。私どもが生きている歴史がどこへ向かっているのか。終末はどうなるのか。パトモスの島に流刑された伝道者ヨハネは、主の日の礼拝で、甦られた主イエス・キリストとお会いし、天の幻を通してそのことを見ました。ヨハネが興奮して見た天の幻です。21章の冒頭の御言葉です。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」。2節で「新しい天と新しい地」を言い換えています。「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。終末は、花嫁と花婿の喜びの結婚式に譬えられています。花嫁は新しいエルサレム(神の平和)、花婿は小羊キリストです。3節「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた」。神が直接、伝道者ヨハネに語りかけるのは、ここが初めてです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。
(2)9節「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが」。最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使は、15章1節以下に登場しました。「わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである」。七人の天使が七つの鉢を次々と開けると、地上に最後の七つの災いが起きた。竜(サタン)、獣(ローマ皇帝)と小羊キリストとの最後の戦い。それが15章~20章で語られていました。最後にもう一度、七人の天使が登場し、その中の一人がヨハネに語りかけました。9b節「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」。終わりの日、神の許を離れ、天から下って来る新しいエルサレム、小羊の花嫁を見させられる。10節「この天使が、霊に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見た。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった」。画家たちが世黙示録の絵を描いていますが、この部面の絵は描けないのではないか。神の栄光の輝きだからです。
12節「都には、高い大きな城壁と12の門があり、それらの門には12人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの12部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には12の土台があって、それには小羊の12使徒の12の名が刻みつけてあった」。12という共同体を表す数字が強調されています。都には高い大きな城壁と12の門があり、それらの門には12人の天使がいて、イスラエル12部族の名が記されていた。また都の城壁には12の土台があり、小羊キリストの12使徒の名が刻みつけてあった。すなわち、キリスト教会を表しています。
2.神の栄光が都を照らしており、小羊が都のあかりだから、そこには夜はない
(1)15節「わたしに語りかけた天使は、都とその門と城壁とを測るために、金の物差しを持っていた。この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、1万2千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、城壁を測ると、144ペキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである。都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、12の門は12の真珠であって、その門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった」。天使は都とその門と城壁を測り、ヨハネに見せます。この描写はエゼキエル書40章~48章が土台となっています。バビロン捕囚の中にいた預言者エゼキエルは、主の手に導かれ非常に高い山の上に立ち、神の幻によって新しいエルサレム神殿を見させられました。新しいエルサレム神殿の設計図が具体的な数字で表されていました。都のエルサレム神殿は瓦礫の山に化していました。ヨハネが見させられた新しいエルサレムは1万2千スタディオン。2千2百キロ。ほぼ日本全土に匹敵する。城壁は144ペキス。1ペキスが45センチ。1アンマ。中指から肘の長さ。
この測り方で想い起こすのは、エフェソの信徒への手紙3章18~19節の御言葉です。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか。この測り方は外から眺めて測ったものではなく、内側に入れられて測ったものです。ヨハネが見た新しいエルサレムも、外から眺めて測ったものではなく、内側に入れられて測ったものです。その広さ、長さ、高さ、深さに驚いているのです。
(2)22節「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」。驚くべき御言葉です。新しい都の中に神殿は見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿であった。私どもは終わりの日、全能者である神、主と小羊キリストの中に招き入れられる。全能者である神、主と小羊キリストが神殿だから、もはや崩れ去ることはない。永遠の住まいとなる。
23節「この都には、それを照らす太陽も月も、必要ではない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」。新しい都には太陽も月も必要ではない。神の栄光が都を照らし、小羊キリストが都の明かりとなる。これも重要な御言葉です。新しい都は、小羊キリストが神殿であり、神の栄光の明かりである。
24節「諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る」。新しい都へ諸々の民が招かれる。パウロが洗礼の出来事を語った御言葉を想い起こします。ガラテヤの信徒への手紙3章26節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれる神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。
25節「都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜はないからである」。新しい都の門は閉ざされない。常に開かれている。そこには夜はない。象徴的な言葉です。21章の冒頭で強調されていた御言葉と響き合っています。1節「もはや海もなくなった」。竜(サタン)、獣(ローマ皇帝)が支配していた海もなくなった。4節「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。地上の歴史で私どもを苦しめていた海、死、悲しみ、嘆き、労苦、夜(闇)は過ぎ去って行く。新しい都は小羊キリストの明かりで照らされる。
26節「人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る」。27節「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」。新しい都に招かれるのは、小羊キリストの命の書に名が記されている者だけ。小羊キリストの十字架の贖いの血を注がれた者。しかし、小羊キリストの十字架の贖いの血は、すべての人のために流された。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1・29)。黙示録のこの御言葉の土台に、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」があります。11節「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。・・彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」。「多くの人」は「全てのために」という意味である。主イエスはこの「苦難の僕の歌」を心に刻み、この御言葉を語られた。マルコ福音書10章45節「人の子は仕えられるためではんばく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。
ヨーロッパではプロテスタント教会にも、生涯、キリストの花嫁として自らを献げた奉仕女がいる。奉仕女が晩年を迎え、もはや奉仕することが出来なくなり、人生の最後の一時を生きる時、「祭りの前夜」と呼んだ。主日礼拝を控えた土曜日に似ている。明日は主の日、喜びの礼拝。その前日、前夜を生きる。それが終末を生きる信仰である。そのような終末信仰に生き、愛に生き、望みに生き、献身に生きた奉仕女には、たそがれはない。人生の夕暮れが近づいたということはない。むしろ朝が近づいている。近づく朝を待ち望みながら生きるのです。
3.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 4月24日の祈り ペトロ二1・19
「主なる神よ、われらは感謝します。あなたはこの地上に、われらのために光を与えてくださいました。この地上ではまことにしばしば完全な暗黒となってしまいます。だがその暗黒の中に、イエス・キリストのみ名は預言のことばとして輝くのです。大胆になりなさい。暗黒に対して光は現われ、夜に対して日は来るのだ!と。まことにこの光のゆえにわれらは感謝し、イエスが生きておられ、すべてに立ち向かい、敵の力の勝利してくださることを経験して、よろこびあふれます!それゆえにただイエス・キリストのみ名のゆえにのみ、常にわれらにお時代をおぼえてください。われらは自分のことを何も欲せず、地上の平安をも求めません。すべてが新しくなり、艱難の中にあっても新しく生まれかわり、永遠にみ名をたたえるために、主なる神よ、われらはあなたの平安がほしいのです。アーメン」。