top of page

2024年5月1日

「ヨハネの黙示録を黙想する34~川は都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって~」

ヨハネの黙示録22章1~5節

井ノ川勝

1.わたしは見た、新しい天と新しい地を

(1)ヨハネの黙示録を1章から黙想して来まして、今日から最後の章、22章の御言葉に入ります。21章~22章が黙示録の頂点です。私どもが生きている歴史がどこへ向かっているのか。終末の祝福が語られています。22章の御言葉に触れる前に、もう一度、21章の冒頭の御言葉に心を留めたいと思います。

 ヨハネの黙示録は、ローマ帝国の迫害の時代、エーゲ海のパトモスの島に流刑された伝道者ヨハネが、主の日、僅かな者と礼拝を捧げていた時に、甦られたキリストと出会い、天上の幻を見させていただいた。それを書き留めた御言葉です。天上の幻は終末に起こる禍を映し出していました。しか、20章で小羊キリストが竜(サタン)、獣(ローマ皇帝)に勝利をされた。そのことにより、21章で終末の祝福がもたらされることが約束されていました。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」。神が創造された最初の天と最初の地は過ぎ去って行きます。終わりの日、神は新しい天と新しい地を創造されます。「新しい天と新しい地」が2節で言い換えられています。「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。新しい天と新しい地は、「新しいエルサレム」(神の平和)が花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ天から下って来て、花婿キリストを迎える。花婿キリストと花嫁・新しいエルサレムの結婚式(新しい契約)が行われる。その時、玉座から神の大きな声で宣言がなされた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。

(2)20章9節以下で、伝道者ヨハネが天使に案内されて、神の都「新しいエルサレム」を見学します。22節で、神の都の中には神殿はありませんでした。全能者である神、主と小羊キリストが神殿です。神の都には太陽も月も必要ではない。神の栄光が都を照らし、小羊キリストが明かりだからである。本日、黙想する22章1~5節は、神の都「新しいエルサレム」の案内の続きになります。

 

2.川は都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって

(1)1節「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を見せた」。神の都・新しいエルサレムの象徴は、光と水です。光は神と小羊から注がれる。水も神と小羊キリストの玉座から、水晶のように輝く命の水の川となって流れ出る。2節「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる」。都の大通りの中央を流れる川の両岸には命の木が生えています。この「命の木」は単数で、一本の木です。一本の命の木が両岸を跨いで生えています。創世記3章、エデンの園の中央にあった命の木です。

 神の都・新しいエルサレムの描写は、エゼキエル書47章1~12節の御言葉が土台となっています。バビロン捕囚の地にあった預言者エゼキエルは、天使に導かれて新しい神の都エルサレム、新しいエルサレム神殿を幻の中で見させられます。1節「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から沸き上がって、東の方へ流れていた」。5b節「水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった」。7節「わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた」。9節「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚は非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」。12節「川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果実が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる」。

(2)神の都・新しいエルサレムの大通りの中央に流れる川の両岸に、命の木が生えていて、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる。「12回実を結ぶ」。12は共同体が成り立つ数です。神の民イスラエルは12部族から成り立っていました。主イエスが選ばれた12使徒の土台の上に、新しい神の民イスラエル、教会が成り立ちます。

 2b節「そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない」。命の木の葉は諸国の民の病を癒す。もはやイスラエル民族だけでなく、「諸国の民」です。小羊キリストにあって諸々の民が、神の民となって招かれ、癒されるのです。「もはや呪われるものは何一つない」。「もはや~ない」。神の都・新しいエルサレムの象徴的な言葉です。「もはや海もなくなった」。「もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。「もはや夜もない」。「もはや呪われるものは何一つない」。この御言葉は創世記の天地創造物語を受けています。初めに神は天と地を創造され、それを見て、良しとされました。「良しとされた」は祝福されたという意味です。7回「良しとされた」が繰り返されます。完全な祝福です。

 ところが、神に創造された最初の人間アダムとエバは、神との約束を破り、神のようになれると蛇から唆され、エデンの園の中央の命の木の実を食べてしまいました。神と向き合うことを避けました。アダムとエバを唆した蛇は、「年を経た蛇」として黙示録に登場しました。12章9節、20章2節。竜(サタン)となって、小羊キリストに最後の戦いを挑みました。アダムとエバの子であった兄のカインは弟アベルを、妬みから殺してしまいました。3章~12章には、「呪われる」という言葉が7回繰り返されています。3章14節、17節、4章11節(2回)、5章29節、9章25節。12章3節。神の祝福された天と地が、人間の罪により呪われてしまった。呪われた天と地を祝福するために、神は御子イエス・キリストをこの世に送られました。神の都・新しいエルサレムには、もはや呪われるものは何一つない。ローマの信徒への手紙5章1節。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」。

 

3.神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る

(1)3b節「神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る」。黙示録が強調する言葉は、「神を礼拝せよ」です。19章10節、22章10節。神のみを神として礼拝せよ。地上では獣(ローマ皇帝)の支配を受け、獣を神として礼拝している。神のみを神として礼拝しないと、もはや人間ではなく、獣に化してしまう。神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。アダムとエバが神との約束を破った時に、身を隠し、神の御顔を見ることが出来なくなった。しかし、小羊キリストの執り成しにより、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。4b節「彼らの額には、神の名が記されている」。地上にあって、獣(ローマ皇帝)の支配を受けた者は、獣の刻印が額に押された。「666」という皇帝ネロを表す数字が押された。人格が無視される数字が押されることにとり、人間は獣として扱われた。しかし、小羊キリストの贖いの血により、キリストの者、神の僕とされた者の額には、神の名が記されている。

 5節「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」。21章23節の御言葉と響き合っています。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」。「神である主が僕たちを照らし」。「神である主」という言葉が強調されます。「主」という言葉はローマ皇帝が神である称号として用いられました。しかし、「主」と称されるのは、神である主、小羊である主キリストのみです。神である主、小羊である主キリストが世々限りなく統治される。

(2)4月26日(金)、加藤常昭先生が95歳で逝去され、29日(月)鎌倉雪ノ下教会で葬儀が行われました。加藤常昭先生が鎌倉雪ノ下教会で行った最後の説教が、ヨハネの黙示録でした。22章1~5節の御言葉の説教の冒頭で、ブルームハルトの『ゆうべの祈り』3月14日の祈りを紹介されています。「愛しまつる在天の父よ、あなたはきょうも、またこののちもわれらの避け所です。み力の指をもってわれらのふれ、われらに隠れる所を与え、どんな攻撃、どんな暗黒のものとも戦う強い武具を与えてください。暗黒の中からあなたを仰ぎ見る人間にも、あなたのまなざしが彼らのまなざしに注ぐ光によって、彼ら自身のまなざしも明るくなれるようにしてください。われらのうちを、われらのまわりを明るくし、あなたのお仕事を勝利に導き、最後の、大いなるイエス・キリストの日までに至らせてください。アーメン」。

 神である主の栄光の光、小羊キリストの永遠の光は、神の都・新しいエルサレムで初めて与えられるものではない。暗黒の中で悶えながら戦いながら、地上を歩んでいる神の僕である私どもに既に注がれているのです。それ故、私どもは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見ながら歩みを続けるのです。加藤常昭先生がドイツのベルリン大学でゴルヴィツァー先生から指導を受けた。ベルリン自由教会で、ゴルヴィツァー先生の説教を聴き、聖餐に与った。聖餐に与る一人一人に御言葉を語られた。その一つが詩編17編15節の御言葉だった。「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることができるでしょう」。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルーハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 5月1日の祈り エレミヤ29・11 「主イエスよ、われらはあなたを仰ぎ見ます。あなたは天のみ父のかたわらに、王座に座しておられます。われらの心のうちの平和の主となってください。常にわれらが克己し、平和を保ち、み心が地上のあなたの弟子たちに行なわれ、平和の力がわれらのまわりに、全世界にひろがり、平和の主であるあなたのみ名が地上にあって栄光あるものとなりますように。それゆえにわれらは苦しみの時にあってもあなたを待ちのぞみます。主イエスよ、あなたの栄光のために、信仰において、のぞみにおいて、われらの心はますます確固となるべきなのです。あなたは約束のとおりに、地上に、すべての人間の中に、神の意志を行なうために、突然に来られるからです。アーメン」。

bottom of page