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2024年5月8日

「ヨハネの黙示録を黙想する35~神を礼拝せよ~」

ヨハネの黙示録22章6~15節

牧師 井ノ川勝

1.これらの言葉は、信頼でき、また真実である

(1)ヨハネの黙示録を1章から黙想してきて、今日、22章6節以下の御言葉を黙想します。黙示録の結びの御言葉です。私どもが生きている歴史はどこへ向かっているのか。神が創造された世界の終わりに何が起こるのか。それが21章、22章で集中的に語られています。神が創造された最初の天と最初の地は去って行く。神は新しい天と新しい地を創造される。その新しい天と新しい地の中心に立たれるのは、再び来られる花婿キリストです。終わりの日に来られる花婿キリストを、新しいエルサレム(聖なる神の都)は花嫁の衣装を整えて待つのです。

 黙示録の結びの言葉は、天使が伝道者ヨハネに語りかける言葉で始まっています。6節「そして、天使はわたしにこう言った。『これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである』」。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である」。「これらの言葉」とは、伝道者ヨハネが天使を通して見た幻です。黙示録の言葉全てを受けています。「これらの言葉は、真楽でき、真実である」。この御言葉は19章9節、22章5節でも繰り返し語られていました。神が語られた黙示録の言葉は、信頼でき、真実である。

 「預言者たちの霊感の神、主」。預言者たちに預言の賜物を与える神、主という意味です。神の言葉を「預言の言葉」と語っています。文字通り、神から預かった言葉です。黙示録は預言の言葉です。神から預かった言葉です。「預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである」。

(2)「預言の賜物」「預言の言葉」で想い起こすのは、コリントの信徒への手紙一14章1節です。

「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。23節「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼らは皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」。黙示録がいつも心に留めていた御言葉です。

 7節「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」。これは天使の言葉であるよりは、主イエス御自身の言葉です。「見よ、わたしはすぐに来る」。この御言葉が結びで三度も繰り返されています。12節、20節。結びの中心聖句です。「この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」。この御言葉は黙示録の冒頭で語られた言葉です。1章3節「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちは幸いである。時が迫っているからである」。黙示録は「幸いである」で始まり、「幸いである」で結ばれています。全部で7回も語られます。完全な祝福が、「見よ、わたしはすぐに来る」と語られる小羊キリストによってもたらされます。「幸いなり」。1・3,14・13,16・15,19・9,20・6,22・7、22・14。

 

2.神を礼拝せよ

(1)8節「わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき」。「わたしはヨハネである」。伝道者ヨハネが1人称で語っている言葉です。ヨハネの1人称の言葉は、黙示録の冒頭の1章で語られていました。それが再び、結びでも語られるのです。冒頭の1章で、黙示録の言葉がどのようにして与えられたのかが語られていました。アジア州の7つの教会で伝道・牧会していた伝道者ヨハネは、ローマ皇帝から教会員との間を引き裂かれ、エーゲ海のポトモスの島に流刑されました。主の日、僅かな者と礼拝していた時に、甦られたキリストが現れ、天上の幻を見させられました。ヨハネに与えられた神の言葉は、主の日の礼拝で、聞くべき言葉であり、見るべき幻、言葉でもありました。

 8b節「聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした」。余りにも素晴らしい神の言葉であり、天の幻であったので、ヨハネは思わず、天使を礼拝しようとした。この出来事は19章10節でも語られていました。9節「すると、天使はわたしに言った。『やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ』」。天使礼拝を否定する言葉です。天使も神の被造物であり、神に仕える者です。私どもと変わらない存在です。

(2)「神を礼拝せよ」。私どもが礼拝すべきお方はただひとり、主なる神です。小羊キリストです。「神を礼拝せよ」。この言葉に、天使礼拝、皇帝礼拝、現人神礼拝、被造物礼拝、偶像礼拝を完全に否定する、強い思いが込められています。黙示録は、このひと言を語るために書かれた書物です。黙示録に繰り返し語られる重要な言葉です。私どもを神礼拝へと導く招きの言葉です。4・10,5・14,11・1,11・16,14・7、19・4,19・10,22・3,22・9。

 「神を礼拝せよ」は、「十戒」の第一戒「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国9、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20・2~3)と響き合っています。また「主の祈り」の第一の祈り「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように」(マタイ6・9)と響き合っています。「神を礼拝せよ」。この招きの言葉を聴く時、私どもは一人ではありません。共に神を礼拝する礼拝の群れに招かれ、生きているのです。そこに幸いがあります。

 

3.見よ、わたしはすぐに来る

(1)10節「わたしはこう言った。『この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからです。』不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者には、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ』」。伝道者ヨハネが主の日の礼拝で見た幻、聴いた言葉は、ヨハネ一人が心に秘めておくべき幻、言葉ではありません。主の日の礼拝で見た幻、聴いた言葉ですから、神を礼拝する者皆が、共有すべき幻、言葉です。それ故、ヨハネ黙示録がまとめられ、語り継がれて来たのです。全ては、時が迫っているからです。「見よ、わたしはすぐに来る」と、花婿である小羊キリストが語られるからです。

 12節「『見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである』」。黙示録の冒頭で語られた言葉が、結びで再び語られます。1章8節「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」。花婿である小羊キリストは、歴史の初めに立たれるお方であり、同時に、歴史の終わりに立たれるお方です。そこに私どもの慰めがあります。

(2)14節「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる」。「命の木」は22章2節で語られていました。聖なる神の都、新しいエルサレムの真ん中に生えている象徴的な木です。都の大通りを流れる川を、一本の命の木が両岸を跨いで生えており、年に12回実を結び、毎月実らせる。創世記3章、エデンの園の中央に生えていた命の木です。蛇に唆され、食べたら神のようになれると語られ、食べてしまった木です。呪いの木の象徴となりました。その呪いの木に、小羊キリストがついて下さることにより、永遠の命を結ぶ命の木に替えられました。

 命の木に対する権利を与えられ、神の都の門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。7回目、最後の「幸いなり」が語られます。自分の衣を洗い清める者は幸いである。7章9節以下に、殉教の死を遂げ、天上の礼拝へと招かれた大群衆、大聖歌隊は白い衣を着ていました。殉教を現す衣です。しかし、その白い衣は、7章14節でこう語られていました。「その衣は小羊の血で洗って白くしたのである」。命の木の実に与る権利を与えられ、神の都の門を通って都に入れる。小羊キリストが十字架で流された血で、殉教者の衣を白くして下さった。ヘブライ人への手紙13章12節以下の御言葉と響き合っています。「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来たるべき都を探し求めていたのです。だからイエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 5月8日の祈り 詩編46・2、9

「主よ、全能なる天地の神よ、あなたの子であるわれらをみもとに至らせてください。あなたはわれらを福音によって選んでくださり、イエス・キリストはわれらをご自身に引き受けてくださいました。それゆえに、不安の時、悪の時代にあっても、避け所であるみもとに行くことがゆるされているのです。主なる神よ、われらはみことばに身を向けます。すべてのキリスト教会がみことばへとくりかえし導かれることこそ、われらのよろこびです。みことばに仕える者、あなたを仰ぎ、イエス・キリストの恵みを仰ぎのぞむ者のすべてを強め、われらがどのような地にあってものぞみあり、よろこびあるものとしてください。そしてすべてのこと、地上のことにあってもなお救いをもたらしてくださり、地はあなたへの賛美を語り、み名を崇め、み国は来たり、み心が天に行なわれるごとく地にも行なわれるようにしてください。アーメン」。

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