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2024年5月15日

「ヨハネの黙示録を黙想する36~然り、わたしはすぐに来る~」

ヨハネの黙示録22章16~20節

牧師 井ノ川勝

1.わたしは輝く明けの明星である

(1)ヨハネの黙示録を1章より黙想して来て、本日、結びの最後の御言葉を黙想します。黙示録の結びの言葉であり、同時に、新約聖書の結びの言葉であり、聖書全体の結びの言葉でもあります。「初めに、神は天地を想像された」。神の宣言によって始まった聖書は、主イエスの約束、祝福、教会の祈りで結ばれます。「『然り、わたしはすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」。

 既に、22章6節から結びの言葉が始まりました。16節は結びの結びです。「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした」。「わたし、イエスは」。結びの結びは主イエスの言葉です。それだけに重要です。しかも黙示録において、ずっと「小羊」と呼んで来ました。十字架の傷を負った、甦られた小羊。「イエス」と呼ぶ時、それは歴史を歩まれた主イエス、地上を歩まれた主イエスという意味で呼んでいます。「イエス」という言葉が用いられたのは、冒頭の1章です。伝道者ヨハネが自らを紹介している言葉です。1章9節「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」。わたしはイエスと結ばれている者。イエスの苦難、支配、忍耐にあずかっている者。神の言葉とイエスの証しために、パトモスの島にいる者。

 伝道者ヨハネは、主の日、パトモスの島で僅かな者と礼拝をしていた時に、甦られた主イエスとお会いし、イエスの声を聴きました。主イエスの自己紹介です。1章17b節「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」。主イエスは一度は十字架で死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を握っておられる方。主イエスが伝道者ヨハネに語りかけるのは、それ以来のことです。

(2)22章16b節「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」。「わたしはダビデのひこばえ」「ダビデの根っこ」。土台にあるのは、イザヤ書11章1~2節のクリスマス預言です。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」。預言者イザヤは、ダビデの子孫から救い主が誕生すると預言しました。

 黙示録5章5節で語られていました。「すると、長老の一人がわたしに言った。『泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる』」。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえこそ、主イエスです。

 「わたしは輝く明けの明星である」。伝道者ヨハネがティアティラの教会に宛てた手紙で、既に約束しています。2章28節「勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える」。夜明け前が一番闇が深まります。大地を闇で覆い、もう朝は来ないのではないかと思ってしまいます。しかし、その時、東の空に明けの明星が輝く。必ず、朝が来るのだと告げる明星です。私どもが生きる歴史も闇が益々深まって行きます。歴史の将来、終わりに光が全く見えません。しかし、主イエスは語られます。「わたしは輝く明けの明星である」。歴史の終わりは闇ではない。輝く明けの明星であるイエスによって光が注がれ、望みが与えられる。主イエスは私どもの望みの星です。終末の望みの星です。望みの星イエスを仰ぎながら、教会はなお地上の旅を続けるのです。

 ペトロの手紙二1章19節の御言葉と響き合っています。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」。

2.渇いている者は来るがよい

(1)17節「霊と花嫁とが言う。『来てください』。これを聞く者も言うがよい。『来てください』と」。「花嫁」は21章2節に登場した、神の許を離れ、花嫁の衣装を身に纏い、天から下って来て、花婿キリストを待ち望む聖なる都、新しいエルサレムです。聖なる公同のキリスト教会です。花嫁である新しいエルサレムはひたすら花婿キリストを待ち望みながら、祈りを捧げます。「来てください」「来てください」。この祈りは、花婿キリストの約束を受けています。「見よ、わたしはすぐに来る」(7節)、「見よ、わたしはすぐに来る」(12節)。

 花嫁である新しいエルサレムの「来てください」との祈りに応えて、花婿キリストは招きの言葉を語られます。17b節「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」。21章6節でも語られた招きの言葉です。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」。

 この御言葉は、イザヤ書55章1節の言葉と響き合っています。「渇きを覚えている者は皆、水のところへ来るがよい」。更に、同じヨハネ文書であるヨハネ福音書4章13~14節の主イエスの言葉と響き合っています。炎天下の白昼、井戸の横で、サマリアの女に語られた言葉です。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。次々と夫を替えても満たされないサマリアの女に向かって、決して渇くことのない永遠の命に至る水を、わたしから飲みなさいと招かれました。主イエスとサマリアの女の対話は、礼拝へと向かいます。ユダヤ人イエスとサマリアの女は、元々同じ民族でありながら憎しみ合い、別々の場所で礼拝していました。21節「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。

ヨハネ黙示録も「神を礼拝せよ」(22・3,10)を重んじていました。従って、主イエスの招きの言葉は、礼拝への招きの言葉でもあります。神の都での礼拝への招きです。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」。

(2)18節「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる」。この御言葉は聖書の正典理解に重要な言葉となりました。聖書は神の言葉として、旧約39巻、新約27巻、併せて66巻で完結している。これに加えるものもなければ、ここから差し引くものもない。神、小羊キリストの完全な救いが、十分に語られている。

 「命の木」は22章2節に語られていました。神の宮の中央に、神と小羊キリストの玉座から湧き出た命の水の川が流れている。その両岸を跨ぐように一本の命の木が生え、年に12回、毎月実をみのらせる。永遠の命の木の実です。エフェソの教会へ宛てた手紙で、このような約束が語られていた。2章7節「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」。

3.然り、わたしはすぐに来る

(1)20節「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る』」。主イエスの三度目の約束の言葉です。花婿キリストの約束に応えて、花嫁新しいエルサレムは応えます。「アーメン、主イエスよ、来てください」。17節の2度の「来てください」に継ぐ、三度目の応答です。伝道者パウロは、コリントの信徒への手紙一の結びでこう語られました。16章22節「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」(アナテマ)。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」。「マラナ・タ」(主よ、来てください)は、初代教会の中心にあった祈りの言葉です。アラム語のままで伝えられました。「アーメン」「ハレルヤ」と同様に大切な言葉です。いずれも礼拝と結び付いています。今日の教会が忘れている祈りです。

 そして最後は祝福で結ばれます。礼拝の最後の祝福でもあります。「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」。

(2)日本においてヨハネ黙示録は歴史の危機、岐路の時代に説き明かされて来ました。矢内原忠雄は戦争中、ヨハネ黙示録の講義をしました。日本の進むべき道を黙示録から聞こうとしました。加藤常昭牧師は鎌倉雪ノ下教会の最後に、黙示録を説き明かしました。教会の危機、岐路を黙示録によって乗り越えようとしました。日本キリスト教会上田教会の四竃揚牧師は、自ら癌、死と向き合いながら、伝道者の最後を黙示録を説き明かされました。地方の小さな教会でありながら、日本と世界の進むべき道を黙示録から聴こうとしました。私どもも今、黙示録の言葉を聴きながら、世界の中で、教会のあるべき姿、進むべき道を正しく見極めたいと祈り願います。

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 5月15日の祈り 列王記上18・39

「在天の父よ、あなたが神であることを認識させてください。あなたがわれらをみ民となし、あなたの牧の羊としてくださったのであって、われら自身ではないのです。全生涯に欠くことのできない真理による洗礼を与えてください。われらに賜物を与え、われら自身が何者であり、自分がどのようになるかを認識しうるようにしてください。われらの目からすべての幻想を取り去り、地上の過ぎゆくものの中にあっても、もはや偽られることのないようにしてください。われらに明るいまなざしを得させ、永遠なるものを自分のうちに、自分のまわりに見ることを得させ、われらを子としてください。そうです、子です。幼子のようにめざめ、歓声をあげ、よろこばせてください。神よ、み父に、み子に、み霊に感謝を捧げさせてください!アーメン」。

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