1.最初の者にして、最後の者である方、一度は死んだが、生きた方が、こう言われる
(1)ヨハネの黙示録は、伝道者ヨハネが流刑されたパトモスの島から、ローマ帝国の迫害下にある、かつて伝道、牧会したアジア州にある7つの教会へ宛てた手紙です。2章8~11節は、第2の教会であるスミルナの教会に宛てた手紙です。手紙の冒頭は、共通した言葉で始められています。「スミルナにある教会の天使にこう書き送れ」。注目すべきは、宛先が「スミルナの教会」ではなく、「スミルナの教会の天使」になっている点です。一つ一つの教会に主から天使が遣わされ、教会を守り、導いている。これは主イエスも同じ理解をされています。マタイによる福音書18章10節「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。ローマ帝国の迫害下、教会はいつも天の父の御顔を仰げない時がある。しかし、天使が代わって天の父の御顔を仰いでいる。素敵なイメージです。
しかし、もう一つの理解があります。元の言葉は、「天使」ではなく、「遣わされた者」です。伝道者ヨハネは流刑の身ですから、自分が教会に手紙を届けることは出来ません。それ故、迫害の下にある教会に手紙を届けた者がいた。「遣わされた者」です。その使者が主の日の礼拝で、手紙を説教として朗読したのです。スミルナの教会員が、命の言葉、説教として聴いた御言葉となりました。
(2)伝道者ヨハネが7つの教会に宛てた手紙には、一つの特徴があります。最初に各教会の利点を語ります。その後、「しかし、あなたに言うべきことがある」と言って、教会の欠点を語ります。私どもも自分たちの教会の利点が語られると嬉しいものです。しかし、自分たちの教会の欠点が指摘されると、心痛むものです。ところが、スミルナの教会は利点だけが語られ、欠点が指摘されていません。スミルナの教会に与えられた恵みを数え上げています。
こういう言葉から始められています。「最初の者にして、最後の者である方、一度は死んだが、また生きた方が、次のように言われる」。これはヨハネ黙示録が大切にしている主イエス・キリストへの信仰の言い表しです。既に1章8節で語られました。「わたしはアルファであり、オメガである」。「アルファ」と「オメガ」はギリシャ語の最初の文字と最後の文字です。言い換えれば、「わたしは最初の者であり、最後の者である」。歴史の初めに立ち、最後に立つのは、ローマ皇帝ではなく、主イエス・キリストである。また1章17節「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」。私どもの命と死の鍵を握っているのは、ローマ皇帝ではなく、生ける主イエス・キリストである。この手紙が伝道者ヨハネを突き抜けて、主イエス・キリストからの手紙であることが強調されています。この手紙が説教、神の言葉として聴いてほしいと願っています。説教は、主イエス・キリストから一人一人に宛てられた「愛の手紙」としての特色を持っています。
2.わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当は豊かなのだ
(1)スミルナの教会は利点だけが語られ、欠点は指摘されていません。どのような教会に与えられた恵みを数え上げているのでしょうか。「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」。これは7つの教会の手紙に共通する言い回しです。「わたしは知っている」。伝道者、牧会者がそう言うのです。しかし同時に、主イエスがそう言われるのです。「わたしはあなたの苦難や貧しさを知っている」。そのこと自体が慰めです。注目すべきは「あなたがたの苦難や貧しさ」ではなく、「あなたの苦難や貧しさ」と2人称単数形となっています。教会に連なる一人一人の苦難や貧しさを、わたしは知っている。スミルナの教会の人々は、ローマ帝国の迫害にあって、苦難と貧しさの中を生きていました。しかし、伝道者ヨハネは語ります。「だが、本当はあなたは豊かなのだ」。苦難と貧しさの外に豊かさがあるのではなく、苦難と貧しさの只中に真実の豊かさがあるのです。その豊かさとは何か。
伝道者パウロがコリントの信徒への手紙二8章で、貧しいエルサレム教会のために示されたマケドニア州の諸教会の豊かさに感謝しています。2節「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」。その「惜しまず施す豊かさ」はどこから生まれたのか。9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。豊かであった主イエス・キリストがあなたがたのために貧しくなられた。その十字架の出来事の恵みにより、あなたがたが苦難や貧しさの中にあっても、豊かに生きるようになる。そこに本当の豊かさがある。「だが、本当はあなたは豊かなのだ」。キリストにある豊かさに生きなさいと勧める。
(2)9b節「自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである」。紀元70年、ローマ帝国によりエルサレムは陥落しました。ユダヤ人は世界各地に離散しました。スミルナにも多くのユダヤ人が逃れて来たと言われています。十字架につけられたイエスをキリスト、救い主として信じないユダヤ教に生きるユダヤ人が、十字架につけられたイエスこそキリスト、救い主であると信じるスミルナの教会の教会員の信仰を非難したと考えられます。ローマ帝国の迫害、ユダヤ教に生きるユダヤ人の迫害。スミルナの教会の人々は二重の苦しみを負うことになりました。それがスミルナの教会の人々が直面した「苦難と貧しさ」でした。二重の迫害、苦難により、自分たちの信仰が揺れ動き、信仰の貧しさを味わったのです。
伝道者ヨハネは、このようなユダヤ人に向かって、「サタンの集いに属している者ども」と激しい口調で語っています。そしてヨハネはこう語ります。10節「あなたは、受けようとしている苦難を決して忘れてはいけない」。苦難に直面すると、苦しみしか見えなくなります。しかし、苦しみの中で、見るべきものを見ようと勧めるのです。それは何か。10b節「見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、10日の間苦しめられるであろう」。伝道者ペトロの言葉を思い起こします。やはりローマ帝国の迫害により、アシア州に離散したキリスト者に宛てた手紙です。ペトロの手紙一4章12節「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」。「試練」という言葉は「精錬」から生まれました。鉱石を打ち砕き、篩にかけ、不純物を取り除き、純金を取り出す。悪魔が私どもの信仰を試し、信仰をなくさせるために誘惑する。しかし、実は主が私どもの信仰を篩にかけ、不純物を取り除き、信仰をより純粋にしようと試練を与えておられる。
3.死に至るまで忠実であれ
(1)10b節「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」。「忠実」という言葉は、「信仰」「信頼」「真実」という意味です。どんな苦しみに直面しても、死に至るまで、最後まで、主イエス・キリストに対し忠実であれ。真実であれ。キリストへの信仰、信頼を貫け。伝道者パウロが獄中から若き伝道者テモテに宛てた手紙があります。テモテへの手紙二2章11節「次の言葉は真実です」。ここで引用された御言葉は讃美歌であったと言われています。13節「わたしたちが誠実(真実)でなくても、キリストは常に真実であられる」。私どもの信仰の真実は常に不真実。しかし、キリストは常に真実であられる。私どもの信仰、真実はキリストの真実によって支えられている。「死に至るまで忠実であれ」。キリストの真実に支えられて、死に至るまでキリストへの真実、信仰に生きよ。2章14節「アーメンである方」。「アーメン」という言葉も「真実」という意味です。主イエス・キリストは「アーメンである方」「真実な方」。終わりの日、主は「命の冠」を授けて下さる。コリント一9・25.テモテ二4・8.
11節「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」。7つの手紙に共通する言葉です。主イエスが語られた言葉と響き合います。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4・9)。死に至るまで忠実であるために、欠くことの出来ないことは、主の御言葉を聴き続ける耳を持つことです。「勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない」。ローマ皇帝が勝利者になるのではない。主イエス・キリストこそ勝利者である。私どももキリストにあって勝利を得る。そのしるしが終わりの日に授けられる「命の冠」。死を超えたいのちです。私どもは権力者、悪魔、死の力によって、命が滅びるのではない。キリストにあって永遠のいのちが授けられる。「勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない」。「第二の死」(20・6,14,21・8)。「第一の死」は肉体の死。「第二の死」は最後の審きの死、滅び。滅びに通じる死。だから恐ろしい。しかし、キリストは十字架の死に至るまで、真実を貫かれた。私どもの不真実は、キリストの真実に担われている。あの十字架で、主イエス・キリストが私どもの「第二の死」を負うて下さった。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」。それ故、私どもは「第二の死」を免れている。
(2)日本キリスト教会の四竃更牧師が、死の直前まで、上田教会で行われたヨハネ黙示録の説教集がある。その説教集の題名が、『死に至るまで忠実であれ』。死後、夫人がテープから起こしてまとめられた。キリストの真実に支えられて、四竃更牧師も、死に至るまでキリストへの忠実に生きた。
4.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳)9月27日 詩編138・1~2
「愛しまつる在天の父よ、われらは感謝します。あなたは古い時代にも新しい時代にも、われらにとって恵み深い方でした。そして大いなるいつくしみと力とを明らかにしてくださいました。われらはあなたの啓示によって生きます。主なる神よ、全能者よ、あなたは地上に奇跡を行ない、天を統治され、天がわれらを祝福し、地上の自分の小道を辿るわれらを助けうるようにしてくださるのです。あなたのいつくしみを明らかにしてください。全世界にあなたの義を明らかにしてください。主なる神よ、立ち上がって、あなたを信ずるわれらのうちにおける光となり、全世界における光るとなってください!み名に栄光あらしめてください。あなたはまさしく天地におけるわれらの父です。そして時と永遠にわたってわれらの生が確かさを得るようにしてください。アーメン」。