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2023年10月11日

「ヨハネの黙示録を黙想する6~勝利を得る者には、わたしも明けの明星を与える~」

ヨハネの黙示録2章18~29節

牧師  井ノ川勝

1.わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている

(1)ヨハネの黙示録は、伝道者ヨハネがパトモスの島からアジア州にある7つの教会に宛てた手紙です。教会は第4の教会であるティアティラにある教会に宛てた手紙です。7つの手紙の中で、一番長い手紙です。ティアティラはアリジ州の内陸部にあります。ティアティラと聞いて想い起こすのが、使徒言行録16章11節以下です。伝道者パウロが聖霊に導かれて、エーゲ海を越えて初めてマケドニア州に足を踏み入れました。その最初の町がフィリピでした。ヨーロッパ伝道がこの町から始まりました。14節「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けた」。ヨーロッパ伝道の最初の受洗者がリディアとその家族でした。この家族がフィリピ教会の中心となりました。リディアはティアティラ出身で、紫布を商う人でした。ティアティラは織物業が盛んでした。

 

(2)ティアティラにある教会への手紙は、こういう言葉から始まります。「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる」。1章14~15節で、主の日、パトモスの島で礼拝していた伝道者ヨハネに現れた神の子イエス・キリストのお姿です。その神の子イエス・キリストが語られた言葉です。19節「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている」。「わたしは知っている」。7つの教会の手紙の常套句です。主キリストはティアティラの教会の行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っておられる。キリスト者の行いは愛と信仰である。愛が具体化すれば奉仕となり、信仰が具体化すれば忍耐(希望をもって待つ)となる。ティアティラの教会の人々は、信仰、希望、愛に生きていた。「更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている」。更に知っていることがある。近頃の行いが最初の頃の行いに優っている。信仰が成熟している。こんなに嬉しいことはない。エフェソの教会に対しては、「初めのころの愛から離れてしまった」と嘆いていましたが、ティアティラの教会は信仰が成長していることを喜んでいます。

 

2.わたしは人の思いや判断を見通す者である

(1)20節「しかし、あなたに対して言うべきことがある」。最初に教会に与えられた恵みを数え、その後、教会の問題点を指摘する。これも7つの教会の手紙の常套句です。一体、何が問題点なのか。「あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」。ティアティラの教会に、イゼベルという女預言者が現れ、教会員を惑わせている。イゼベル列王記16章31節以下のエリヤ物語に登場します、イスラエルの王アハブの王妃です。シドン出身で、バアル崇拝を持ち込みました。豊作をもたらす偶像の神です。預言者エリヤはバアルの預言者450人、アジェラの預言者400人とカルメル山で戦い、主こそ神であることを明らかにし、勝利をしました。しかし、イゼベルからエリヤは命を狙われ、逃亡し、自らの命が取り去られることを願いました。ティアティラの教会に、イゼベルを名乗る女預言者が現れ、信仰を惑わし、偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせている。肉欲を満たそうとしている。しかし、ティアティラの教会員はイゼベルのすることを大目に見ている。それは教会の信仰を危うくさせる。一体誰が主であり、王であるのか。その信仰が曖昧になると、信仰は崩れて行く。一方で信仰の成長を喜びながら、他方で信仰の危機があることを心配している。

21節「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。見よ、わたしはこの女を床に伏させよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。また、この女の子供たちも打ち殺そう」。激しい言葉です。「女の子供たち」は、女の信奉者です。主キリストは悔い改めを求めています。まことの神、主に立ち帰ることを求めています。悔い改めて、主に立ち帰らなければ、滅びしかない。7つの教会の手紙に繰り返し語られる主キリストの切実な願いです。

 

(2)23b節「こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる」。「わたしは~である」。これはヨハネ福音書で主イエスが語られる大切な言葉です。「わたしはよい羊飼いである」、「わたしは世の光である」。主イエスこそ神であることを表す宣言の言葉です。「わたしは人の思いや判断を見通す者である」。教会はいつも様々な試練と誘惑の中にあります。そこで主の御心とは何か。教会は常に判断と決断が求められる。しかし、主の御心が分からず、判断と決断に迷ったり、揺れ動いたりします。しかし、主キリストは語られます。「わたしは人の思いや判断を見通す者である」。主キリストは私どもの思いや判断を見通しておられる。そして私どもの判断と決断を見守って下さる。主の御心に適った判断と決断が出来るよう、執り成しておられるのです。

 23b節「わたしは、あなたがたが行ったことに応じて、一人一人に報いよう。ティアティラの人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなたがたに言う」。イゼベルと名乗る女預言者は、私が語る教えこそ「神の奥深い秘密」だと語る。しかし、それは「サタンの奥深い秘密」「サタンの深み」(聖書協会共同訳)である。サタンはサタンの姿を現さず、人々を魅惑します。その教えを受け入れたら、「サタンの深み」にはまり、抜け出せなくなり、滅びに至ってしまう。教会の中には、絶えず「サタンの深み」、悪魔的な力が入り込む誘惑がある。しかし、テアイティラの教会員の中で、この女の教えを受け入れず、サタンの深みにはまらず、キリストの福音にこそ「神の深み」があると信じている人たちがいる。何が「サタンの深み」か、何が「神の深み」かを見分ける知恵が求められる。主キリストは語られる。「わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない」。「サタンの深み」にはまり込む重荷を負わせない。主イエス・キリストがサタンの深み、十字架の深みに立って下さった。サタンの深みにはまることが滅びに至る激しさ、厳しさがあることを身をもって引き受けて下さった。重荷を負うて下さった。それ故、私どもはサタンの深みに立つことはないと語りかけて下さるのです。

 25節「ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ」。今持っているものを固く守る。あなたがたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐に生きる。死に至るまで、コリストへの信仰、希望、愛、奉仕に生きる。

 

3.勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える

(1)26節「勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼は鉄の杖をもって彼らを治める、主の器を打ち砕くように。同じように、わたしも父からその権威を受けたのである」。キリストにあって勝利を得る者に、与えられるものがある。7つの手紙の常套句です。諸国の民の上に立つ権威、鉄の杖を与えよう。この御言葉は詩編2編の「王の即位の詩」の言葉です。9節「お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く」。王の権威です。しかし、ルターは語りました。主からキリスト者に与えられた王の権威は威張る権威ではない。全ての者に仕える僕としての権威である。マタイ福音書16章18節で、主イエスが主の弟子たち、教会に与えられた「天の国の鍵」でもあります。陰府の力、サタンの力も対抗できない鍵の権能です。ヨハネ黙示録1章18節で語られた「死と陰府の鍵」です。サタンの力、陰府の力を打ち砕く権威です。

 

(2)ティアティラの教会には、もう一つのものが与えられます。28b節「勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」。主キリストは「明けの明星」を与えて下さる。ヨハネ黙示録22章16節で、主キリストは語られます。「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」。闇は夜明け前が一層深まる。もう朝が来ないのではないか、永遠に夜の闇が続くのではないかと思ってしまう。しかし、夜の闇の中に、明けの明星が輝いている。明けの明星が暗い大地を一筋の光を注いでいる。必ず朝が来るのだ、夜が明けるのだと、光を輝かせている。ティアティラの教会は外からはローマ帝国の迫害、内からはイゼベルと名乗る女預言者の惑わしと、二重の試練の中にあった。教会は大きく揺れ動いた。しかし、どんなに闇が深まっても、輝く明けの明星イエス・キリストが光を注ぎ、教会という船の行くべき航路を照らして下さるのです。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 10月11日の祈り 詩編37・4~5

「愛しまつる在天の父よ、たとえそれがつらい道であっても、われらはあなたの道に目をとめ、これを尊びます。われらは勇気があり、強い人間になりたいのです。主よ、われらを助けて信じさせてください!死のただなかにある数千、数百万の人々を助けて信仰を持たせてください。信仰は最も大いなる自己否定をすることによって、すべてのものを克服するのです。この世に生きるもろもろの民の生命のために、み光を照らしてください。平安が生まれますように。われらがかつて経験したよりもより高い平安をもたらしてください。われらすべてを、そのひとりびとりをもおぼえてください。われらの人生のさまざまな戦いが平安のために役立つようにしてください。われらにつらい道が与えられる時にも、われらが堅く立ち、どんなに苦しい日々にもけっして重荷をなげかけぬようにしてください。この艱難をとおって、あなたへの道が通じているからです。アーメン」。


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