1.あなたが生きているのは名ばかりで、実は死んでいる
(1)ヨハネの黙示録はローマ帝国迫害の時代、伝道者ヨハネがかつて伝道、牧会したアジア州にある7つの教会に宛てた手紙です。本日は5番目の教会、サルディスにある教会に宛てた手紙です。この手紙を書いているのは、伝道者ヨハネです。同時に、「神の7つの霊と7つの星を持っている方が、次のように言われる」。「神の7つの霊と7つの星」とは、主の日、パトモスの島での礼拝に現れた主イエス・キリストです。1章16節「右の手に7つの星を持ち」。20節「あなたは、わたしの右の手に7つの星と、7つの燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。7つの星は7つの教会の天使たち、7つの燭台は7つの教会である」。「神の7つの星と7つの霊」は、7つの教会と7人の天使です。
(2)サルディスにある教会への手紙は、こういう言葉で始まっています。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」。実に厳しい言葉です。主イエス・キリストがサルディスの教会を御覧になられた時に、主イエス・キリストのまなざしに映られた教会の姿です。教会という名は持っている。キリスト者という名は持っている。礼拝という名は持っている。しかし、あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。名はあるけれども、実質は生きていない、死んでいる。これは他人事ではありません。私どもの教会をも主イエス・キリストはそのように御覧になっているのだろうか、恐れと不安が生じます。主イエスの弟子ペトロが語った重要な言葉があります。使徒言行録3章6節。美しの門の前で、生まれつき足の不自由な男に向かって語られた言葉です。「「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。教会はイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩く群れです。イエス・キリストの名によって語り、イエス・キリストの名によって祈り、イエス・キリストの名によって信じる群れです。イエス・キリストの名は語られている。しかし、それは名ばかりで、生きていない。死んでいる。イエス・キリストの名によって生き生きと生きていない。生き生きとした礼拝、祈り、信仰となっていない。イエス・キリストの名が真実に重んじられていない。中心に立っていない。名ばかりになっている。イエス・キリストの名から真実の命が与えられていない。
イエス・キリストの名によって洗礼を受けると、教会員原簿に名が記され、教会員となります。現住陪餐会員と呼びます。キリストのいのち・聖餐に与っている会員です。しかし、長い間、礼拝生活をしなくなり、教会からの呼びかけに応えなくなりますと、別帳会員へ移します。教会員ではあるけれども、名ばかりの教会員になってしまう。礼拝、聖餐からキリストのいのちを受けなければ、その信仰は死んだも同然となってしまう。
2.目を覚ませ、死にかけている残りの者たちを強めよ
(1)生きているとは名ばかりで、実は死んでいるサルディスの教会に向かって、主イエス・キリストはこう語られます。2節「目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ」。「残りの者たち」という言葉はエリヤ物語で用いられ(列王記上19・14)、預言者たちが用いました。神に選ばれたイスラエルの民が、自分たちの罪に対し神の審きを受けて、僅かな者だけが残った。しかし、僅かな残りの者から神は新しい御業を行われ、再生させる。パウロは「残りの者」とは、恵みによって選ばれ残った「教会」を意味すると捉えました(ローマ11・5)。「死にかけている残りの者たち」とは、教会員の僅かな者という意味だけではなく、教会全体を意味する言葉です。死にかけている残りの者・教会に向かって、「目を覚ませ」「強めよ」と呼びかけています。「目を覚ませ」。この言葉が3節でも繰り返されています。
エフェソの信徒への手紙5章14節に初代教会が歌った讃美歌があります。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ、そうすれば、キリストはあなたを照らされる」。終わりの日、死の眠りに就いた者たちが、キリストの呼びかけに応えて、甦らされ、立ち上がる。しかし、同時に、信仰が死んでしまった者たちに向かって、死の眠りから目覚めよ、立ち上がれと呼びかけられている言葉でもあります。「目を覚ませ」。この言葉は主イエスが弟子たちに語られた言葉でもあります。最後の晩餐の席で、主イエスはペトロに語られました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」‘ルカ22・31)。主イエスはサタンの誘惑の中に投げ込まれるペトロのために、信仰が無くならないように祈って下さる。主イエスの執り成しを受けて、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。この「力づける」という言葉が、「強める」と同じ言葉です。死にかけている信仰の仲間たちを、力づけ、強め、目を覚ますように呼びかけなさい。
ペトロは応えました。「主よ、御一緒なら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」。しかし、主イエスは語られました。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」。その後、主イエスはオリーブ山に行かれ、夜を徹して祈られた。主イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい」(22・40)と命じられました。しかし、弟子たちは眠り込んでしまった。主イエスは再び語られた。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして起きて祈っていなさい」(22・46)。
(2)3章2節「目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない」。誰もが神の御前で、私どもの信仰の行いが完全なものではないことを知ります。それがどこで現れるのか。共に生きている信仰の仲間の信仰が死んでしまっている。目を覚ませと呼びかけても、目を覚まさない。私どもの信仰は自分のためだけにあるのではなく、共に生きる信仰の仲間のため、執り成しのためにある。しかし、そこで自分たちの信仰の行いの不完全さを感じる。主イエスは語られました。「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。自分の不完全さを悔い改める、同時に、兄弟たちを力づけなさい。
3節「だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ」。動詞が5つ立て続けに語られます。「受け」「聞き」「思い起こし」「守り抜き」「悔い改めよ」。伝道者ヨハネが伝えたキリストの福音です。キリストの福音をどのように受け、聞いたかを思い起こし、キリストの福音を守り抜き、悔い改めて立ち帰れ。キリストの福音の呼びかけが、私どもを死の眠りから目覚めさせる。3b節「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない」。主イエス・キリストは終わりの日、盗人のように予告なしに来られる。いつ来られるのか分からない。しかし、いつ来られてもよいように、信仰の灯を絶やさず、目を覚ましていないさい。主イエスが十字架の死の直前に語られた「10人のおとめの譬え」(マタイ25・1~13)です。
3.勝利を得る者は白い衣を着せられる
(1)4節「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである」。厳しい言葉の後に、サルディスにある恵みを数えている。少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。白い衣を着て、主イエスと共に歩きであろう。「白い衣」は注目すべき言葉です。黙示録に何度も出て来ます。パウロは洗礼を受けることを、「キリストを着る」(ガラテヤ3・27)と語りました。ヨハネはそれを「白い衣を着る」と語ります。何故、「白い衣」なのか。殉教者が身に纏う衣でもあるからです。7章14節「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」。小羊キリストの地で洗えば、赤く染まります。しかし、罪が洗われ、白くなるのです。イザヤ書1章18節と響き合います。「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる」。5節「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる」。
(2)5b節「わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。耳ある者は、霊と諸教会に告げることを聞くがよい」。「命の書」も黙示録で繰り返し語られます。洗礼を受けると、教会員原簿に名が記されます。同時に、天にある命の書に名が記されます。キリストにあって勝利を得た者は、白い衣を着せられ、天にある命の書から名が消されることはない。何と大きな恵みでしょうか。パウロはこう語りました。「死にかかっているようで、見よ、生きており」(コリント二6・9)。「あなたは死にかかっているようで、見よ、生きているではないか」。主イエスの呼びかけの言葉です。地上の様々な誘惑、試練に直面し、私どもの信仰は死にかかる。しかし、主イエス・キリストは呼びかける。「わたしはあなたの信仰が無くならないように祈っている。あなたは死にかかっているようで、見よ、生きているではないか」。私どもは主イエス・キリストの執り成しを受けて、信仰が生き返る。それ故、あなたが立ち直ったら、信仰の死にかかった兄弟を力づけてやりなさい。
4.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 10月25日の祈り ヘブライ12・1
「主よ、われらの神よ、われらは祈り願います。われらの霊に、あなたの霊とあなたの愛を認識させ、われわれの生活がより高きものへと高められ、過ぎゆくものがわれらを吞みつくすことのあり得ないようにしてください。あなたがわれらにすでに与えてくださったものによって、新しい闘いや艱難がわれらを囲もうともわれらが経験することをゆるされた、また確かに更になお経験することがゆるされるすべての善きことによってわれらを守ってください。先だちゆくべき多くの人々の中に力強い光を照らし、み国が来るように、人間の多くのわざの中にあってもみ名が崇められるようにしてください。あなたは人間のいのちとして知られるべき方なのです。アーメン」。