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2023年11月1日

「ヨハネの黙示録を黙想する8~勝利を得る者をわたしの神の神殿の柱にしよう~」

ヨハネの黙示録3章7~13節

井ノ川勝

1.聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方

(1)ヨハネの黙示録はローマ帝国の迫害下、伝道者ヨハネがアジア州にある7つの教会に宛てた手紙です。本日は6番目の教会、フィラデルフィアにある教会に宛てた手紙です。フィラデルフィアという名前は聞いたことがあると思います。アメリカにもある町の名です。元々はアジア州にある地名でした。「兄弟愛」という意味です。そのような地名の町に、「兄弟愛」と呼ぶ教会が誕生した。神の摂理を感じます。欧米の教会の説教は、「愛する兄弟姉妹たち」という呼びかけから始まります。主によって集められ、造られた教会の交わりは、フィラデルフィア、兄弟姉妹と呼び合う交わりです。それが具体的に現れるのは葬儀です。教会の葬儀は牧師一人が行うのではありません。教会員皆が御遺族の悲しみに寄り添い、準備をし、参列し、祈りを合わせます。信仰の家族として葬りをします。当時もローマ帝国の迫害下、毎日のように教会員の葬儀がなされていたと思われます。そこでも信仰の家族として、涙を流しながら葬りを行っていました。

 7つの教会に宛てられた手紙は、それぞれの教会の恵みを数え、同時に欠点を数えました。しかし、フィラデルフイァの教会は恵みだけが数えられています。

 

(2)フィラデルフィアにある教会に宛てられた手紙は、こういう言葉から始まりました。「『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じるとだれも開けることがない』。その方が次のように言われる。『わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない』」。「聖なる方」「真実な方」「ダビデの鍵を持つ方」、甦られた主イエス・キリストです。「ダビデの鍵を持つ方」、この言葉の背後にイザヤ書22章20~22節があります。「その日には、わたしは、わが僕、ヒルキアの子エルヤキムを呼び、彼にお前の衣を着せ、お前の飾りの帯を締めさせ、お前に与えられていた支配権を彼の手に渡す。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開ければ、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう」。

この「ダビデの鍵」を持つにふさわしい方こそ、主イエス・キリストです。主の日、パトモスの島で礼拝していた伝道者ヨハネに、甦られた主イエス・キリストが現れました。1章17~18節「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」。甦られた主イエス・キリストが死と陰府の力に打ち勝ち、死と陰府の鍵を握っておられる。死と陰府の力は対抗できない。天の国の鍵を開けることも、閉めることも出来る。主イエス・キリストが天の国の門を開いて下さった。それ故、フィラデアルフィアにも教会が誕生した。伝道に出かけることができる。死に対する恐れを取り除くことができる。死に閉じ込められた門をキリストが打ち破り、開いて下さったから、永遠のいのちの扉が開かれ、死を超えたいのちの道を歩むことができる。

 

2.わたしがあなたを愛していることを知らせよう

(1)8b節「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」。「あなたは力が弱い」「小さい」「無きに等しかった」。それ故に、キリストの言葉なしには生きることはできなかった。キリストの言葉に日々聴き、従い、主イエスの名を知らないとは言わなかった。主イエスが最後の晩餐の席で、ペトロに語った言葉を想い起こします。ルカ福音書22章31節「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

 9節「見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ」。「サタンの集い」属する者がある。サタンは主イエスがペトロに語られたように、私どもを神から引き離す力です。神への信仰がなくても生きて行けるではないかと誘惑します。サタンに集いに属している者は、ユダヤ人であると言う者。当時、教会に生きるキリスト者はローマ帝国の迫害を受けていた。ローマ皇帝を神として拝まなかったからです。同時に、ユダヤ教徒からも迫害を受けていました。キリストを神として礼拝していたからです。しかし、実は、サタンの集いに属している者は、ユダヤ人ではなく、偽っている者たちである。主イエスこそ、自分たちが待ち望んでいた救い主であると見えない。

 

(2)9b節「見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう」。ユダヤ人であると言う者も、キリスト者の集まりに来て、共に主イエス・キリストの足もとにひれ伏すようになる。そこでキリストがあなたを愛していることを知る。ヨハネ福音書13章、最後の晩餐の席で、主イエス自らひざまずき、弟子たちの足を洗われました。そして弟子たちにこう語られました。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたもお互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。主イエス自らひざまずき、弟子たちの愛を洗われた洗足の出来事こそ、十字架の出来事を指し示す行為で、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。極みまで愛し抜かれた。主イエス・キリストの洗足の愛によって築かれる弟子たちの交わり、教会の交わりは、お互いの足を洗い合い、お互い仕え合う、愛の交わりです。そこに兄弟姉妹の愛の交わりがあります。

 10節「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう」。主イエスはティアティラにある教会にこう語られました。2章19節「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている」。愛には忍耐が伴います。それは歯を食いしばる忍耐ではなく、主を待ち望む忍耐です。希望みを伴った忍耐です。主イエスがペトロに語られたように、サタンがあなたがたの信仰を試みるために、篩に掛ける試練の時が全世界に来ます。ローマ帝国の迫害、ユダヤ教徒の迫害という試練です。しかし、あなたはキリストの言葉を信じて忍耐しながら、信仰、希望、愛に生きた。それ故、キリストもあなたを守って下さる。あなたの信仰が無くならないように祈って下さる。

 11節「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」。主イエス・キリストはすぐに来て下さる。主から与えられた栄冠(信仰、希望、愛)を誰にも奪われないように、与えられたものを固く守りなさい。

 

3.勝利を得る者をわたしの神の神殿の柱にしよう

(1)12節「勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない」。キリストにあって勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。伝道者パウロは語りました。コリントの信徒への手紙一6章19節「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。テモテへの手紙一3章15節「神の家とは、真理の柱である土台である生ける神の教会です」。驚くべきことに、私どもはキリストにあって神の神殿の柱とされています。神の家を支える柱は一本でも欠けたら、ぐらつくのです。一つ一つの柱は無くてならぬ柱です。それ故、私どもは神の家の外に出ることは決してないのです。

 

(2)12b節「わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」。21章1~4節を指し示しています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人間の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』。キリストにあって神の神殿の柱とされた私ども一本一本の柱に、新しいエルサレムの名、新しい神の都の名、キリストの新しい名が記される。あなたは生きる時も死ぬ時も、「キリストのもの」という名が記される。「わたしはアルファであり、オメガである」という名が記される。新しいエルサレム、神の国の者という名が記される。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 11月1日の祈り コロサイ3・16

「愛しまつる在天の父よ、われらはあなたとあなたの国とを求めます。そして、自分自身の生活においても、他の人々の生活におけるとひとしく、しっかりと立ち、堅く信ずる力を、自分の心の中に得るために、みことばのまわりに集まりたいと思います。そして小さいこと、大きなこと、すべてのことがゆるされるようになるのです。それはわれらが単に地上のことに苦しみ、かかずらわなければならないというわけではなく、天上のことがわれらを取りまき、あなたの善き、恵みあり、あわれみあり、完全な神としての愛によっていっさいが新しくなるためなのです。アーメン」。

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