ロマ15:1 強い者は、強くない者の弱さを担おう
今日の箇所は、教会において信仰の強い者と弱い者が、愛の配慮をもってお互いに助け合うことをパウロは語っています。「強い者」と言うのは、キリストによって、ユダヤ教の戒律(食物規定など)から自由にされたと理解し、それを行動に移せる人でした。一方で「弱い者」と言うのは、過去の戒律から簡単には解放されず、特定の食べ物を食べると悪い事が起こるような気持ちになり、自由になることができないでいた人のことです。新約の時代に入ると、イエス・キリストによって律法の本質が成就され、外側の食物ではなく、心の中の信仰こそが大切だとされたのです。過去の教えや習慣に縛られている人たちと、過去の教えや習慣に縛られず新しい生き方ができる人たちが、お互いに裁き合うのではなく、愛の配慮をもって歩んでほしいとパウロは語っているのです。
当時のユダヤ人キリスト者は、自分が神の御前で、律法を守り、相応しい行いができているから救われるに値するのだと考えがちでした。そこでパウロは、語り続けて来たのです。私たちはキリストが十字架で命を捧げて下さったから救われ、新しく生かされている。いつもここに立ち帰る。信仰が成熟しても、やはり、神の御前に出て、神の光に全て照らし出されてしまうと、誰も、自分の中に救われる理由はない、相応しさはないと言わざるを得ません。この地上での私たちの振る舞い、生き方を見て、怒りと愛の間で、裁きと赦しの間で、引き裂かれる父なる神様がおられます。その間に主イエスが、ご自分の命を犠牲にして、私たちのために執り成してくださるから、父なる神の裁きが、怒りが、静まるのです。私たちの相応しさ、正しさではありません。主イエスの犠牲の相応しさなのです。
では、主によって救って頂いている者が、どのように生きることが相応しい生き方でしょうか。パウロは、自らを高め、誰が正しいかと、競い合うことではありませんと言います。教会の神様の兄弟姉妹が、一人も滅びないで、永遠の命を得るために、また家族をも救われるように、一人も欠けることなく救われるように、お互いの救いのために、祈り合い、支え合い、助け合う生き方。新しい生き方が始まりました。
1. 「強い者」過去の戒律から解放され、自由を楽しむことができる人。
2. 「弱い者」主イエスに救われたことを信じ、感謝しているけれども、やはり、昔からの生活をなかなか変えられない人。
裁き合うのではなく、愛の配慮を。自由を楽しむ人、解き放たれた生き方ができている「強い者」にパウロは告げます。
「あなたたちは、過去に縛り付けられている物から自由になれました。だから、信仰者として相応しいから救われる、というのではありません。私たちは、罪人であるのに、私たちのために主イエスが命を捧げて、犠牲になって下さったから、救われたのです。キリストが命を捧げてくださったから、過去のしばりつける物から自由になれたのですよ。キリストによってです。順序が逆になってはいけません。キリストの犠牲が先ですよ」とパウロは語ります。
パウロは、「弱い者」にも語ります。「あなたたちは、清い物を食べるから救われるのではありません。汚れている食べ物を、食べないから、救われるのではありません。主イエスが、私たちのために命を捧げて下さったから救われるのです」
パウロは15:1で言います。こういう時に助けるのは「強い方」です。そして、それを誇らないでくださいと言います。新しい生き方にまだ慣れずに、自由になれず苦しんでいる人も見捨てることなくお救いになる、主イエスを誇ります。
ロマ15:3「自分を喜ばせるべきではありません」とは、自分の救いのことだけ考えない生き方
この一言だけを取り出して、「キリストでさえ、自分を喜ばせなかったのだから、私たちも自分を犠牲にして、つらい思いをしてでも、人のために尽くさなければ」と理解してしまう。そうして大切な本来の意味を見失ってしまうことがあるのです。
自分を殺して、自分を空しくすることが信仰の目的になってしまうと、そこには「私が、どれだけ信仰深くなったか」「どれだけ修行しているか」「どれだけ自己を訓練しているか」そういう「自分を打ちたたく信仰」が強調されてしまいます。気がついたら「自分を鍛えて、立派な信仰者になる」ことが目的になっていきます。私自身の救いが目的になり、キリストと教会が見えなくなってしまうのです。ここは、「私たちがキリストのように、互いに仕え合い、建て上げよう」という、深い思いやりのある温かい呼びかけなのです。
「今や、詩編は、全ての声が合わされて、そして、まったく調和した歌になる。若きも老いたる者も、女も男も、奴隷も自由人も、全てが一つのメロディーを歌う。全ての社会の差別は、ここでは滅ぼされ、我々は共に、完全な一致のもとに合唱し、この地上で天を表す。」
貴族、自由人、奴隷が一緒に歌うなんてあり得なかった時代に、しかし、教会ではできたのです。天国の姿を、この地上で表しているのが「教会」です。それぞれが自分を打ちたたいて、 自分の救い、自分の研鑽だけのために、自分を高めようとする所には、一致は生まれなくなってしまいます。 ついていけない人は去ってしまい、ついて来くることができる人だけの集まりになってしまいます。そうではなく、教会というところは、「強い者」も「弱い者」も歩みを共にして、喜びも悲しみも恵みも共有する所です。 新しい人が救われるために歩みを合わせ、それが、私たちの喜びになる所です。
ローマ12章 今はまだ、それぞれが欠けた所があるから、お互いが必要、助け合う者が必要となった。それが教会
皆で一緒に生きている私たちですが、一人一人は、欠けた所があります。繰り返しパウロは語って来ました。自分で完全な者を目指していく。そうではなく、私たち教会は、相手がなくては完全になれない、そういう存在になったのです。キリストの身体として、一人も欠けてはならない、お互いが、かけがえのない存在となりました。
① 自分の限界を知った~キリスト者医師
彼は、かつて病院で頼りにされる存在として、誰よりも激しく働いていました。「努力は報われる」「限界を自分で決めない」そんな言葉を座右の銘にして動き続けてきました。しかしある日、突然その人生が止まりました。
ある朝、意識が遠のき、気づいたときには病院のベッドの上にいました。「心筋梗塞を起こし、しばらくは絶対安静です。」「走れない」「働けない」「力を尽くせない」彼にとって恐怖でした。「何もしないで生きる価値が、自分にあるのだろうか?」そんなある日、妻に誘われて初めて教会の礼拝に足を運んだそうです。礼拝堂に入った瞬間、静かに流れるオルガンの音に、ふと心がほどけていくのを感じたと言います。讃美歌が始まった時、涙がこぼれました。「初めて、誰にも怒られず、比べられない。神様は、倒れた私を迎えて下さった」彼は、洗礼を受けました。しかし、性格はすぐには変わりません。教会でも「熱心に働き、責任感の強い兄弟」として知られるようになりました。
しかし、彼の働きの根底にはいつも「私は、自分の力の果てに神様を見つけたのではありませんでした。力を尽くすことができなくなった時、そこに神様が来て下さったんです。」
熱心に働く時、彼は繰り返し自分に問いました。「私は、本当にキリストの恵みを知っているんだろうか。また、自分の力で、なんとか信仰を保とうとしていないか。再び、自分の力で、神様に相応しい者になろうとしていないか」自分の信仰が絶対正しいとは言えない。欠けた者同士、助け合い、祈り合い、支え合うのが教会。その所に、神様から本当に深みのある幸せが、神様の方からやって来る。私たちは、そういう体験をするんです。
この医師は、キリストに出会い、自分の限界を知り、幸せの価値観が大きく変わりました。
② 目標は「すべてに感謝すること」
「医者になってからの外科医の人生においても、技量も、研究業績も引けを取る所がなかったと自負していましたが、勘違いでした。尊敬されてたか、なんか鼻につく嫌な奴だったか、感じ方は様々だったかもしれませんが、それもこれも、まず、その力すら神様が与えてくださっていて、すべてが神様から与えられたものにすぎなかったのです。日常の様々なことのすべてが自分で獲得した、自分の努力の賜物であると思い違いをしていたことに気付き、すべて与えられたモノだから、すべてに感謝をするようになろうと思い始めました。」
神様の恵みは、「うまくやれる人」の上にだけ注がれるのではありません。神様の恵みは、「もう何もできません」と膝を折って祈る者に、そっと注がれます。助け合い、支え合わないと生きてはいけない者に神様は、私たちを造られました。
③ 私たちは、神様の働き場
私たちの人生は、自分が何かを成し遂げることで「自分を表していく」ことに重要な意味があるのではありません。そうではなく、神様が私たちの人生の中に、「神様ご自身を表される」ことに、本当の価値があるのです。自分の栄光を表していく生き方ではなく、神様の栄光を表していく生き方です。自分を高めるために生きる生き方ではなく、共に救われるために、助け合い、祈り合う生き方です。そこに、神様の栄光が輝きます。私たちの人生は、神様の働きの場。
15:3キリストは「あなたへのそしり」苦しみを負って下さっている。あなたの苦しみが少なくなるように
詩編69編「あなたをそしる者たちのそしりが、わたしに降りかかった」主イエスは、私たちが負うはずだった罪の裁きを、悲しみ、苦しみ、全てご自分のものとして引き受けてくださいました。「これは、私のことだ」と負ってくださいました。
① 苦しみが苦しみでなくなる 渡辺和子さん
兄の家族に母を残して修道院に入りました。母のことがいつも心にありました。こんな祈りを毎日したそうです。
「神様、私は喜んで笑顔で辛い言葉を聴きますから、どうぞ今日一日、母が、辛い言葉を聴かなくてすむようにしてあげてください。食卓に口に合わない物が出て来た時に、気取られぬように喜んでいただきます。ですから神様 どうぞ母の食卓に 一品でいいから母の口に合う物を出してあげてください」
そのおかげで、母が辛い言葉を聴かずにすんだか、食卓に好きな物がのったかわかりません。けれど、それによって生きる力と勇気、母のために何かできる喜びが与えられました。苦しみに意味が見出され、苦しみが苦しみでなくなりました。
キリストが、「私がこの苦しみを担えば、あなたの苦しみが、楽になる。私が、この死を負えば、あなたは死を超えて、永遠の命に生きることができる」そう言って、苦しんでくださったのです。
② 隣人の痛みに、耳を澄ます
ある日曜の礼拝後、ある年輩の女性が「腰がとても痛くて、指も動きにくくて苦しいんです」と話してくれました。そして、持っていたハンカチが手から離れ、ヒラヒラと床に落ちてしまいました。すると、すぐ隣にいた高校生の女の子が「私が拾います」と言って、しゃがんで拾ってくれました。この女性の話しを聴いていたからです。けれど、この女の子も、部活の練習で転んで足をケガをしていたのです。けれど、それを言わずに、さっとしゃがんで拾ってくれました。美しい瞬間でした。
信仰は、大きな奇跡ではなく、こういう小さな思いやりに、教会全体が大きな喜びに包まれます。
③ 隣人の喜びが、私の喜びになるとき
誰かが初めて教会に来て、笑顔で「また来たい」と言ってくれた。学校、家庭、職場で、ひとりぼっちに感じている人が、教会で「ただいま」と言えた。涙を流していた人が、少しずつ祈れるようになった。一人では立てなくても、一緒なら歩ける。主イエスが、十字架で救われ、新しく生かされている者同士、「共に歩む道」を用意して下さいました。