本質:愛には偽りがない 自由、自発的、喜び
現実:愛には偽りがある 自分の計画を達成させるため、企み
問い:偽りのない愛を実現することができるのか
福音:欠けのある私たちだが、キリストの身体に一つとなった私たちの間では、偽りのない愛が始まっている
愛には偽りがない 愛は命令されるものではない
北森嘉蔵先生は、よく「愛」ということを話されました。北森先生は、私たちが告白しております「日本基督教団信仰告白」の草案を書かれました。北森先生は、違う道筋を歩いて来た教会が、それぞれの個性を生かしながら、一つになることを目指し、そのためには「自由な愛」が必要だと言うことを説かれました。愛に応えてくれないなら復讐する、というのは愛ではない。相手を脅し、強制して獲得した愛は、愛されていると言うことにならない。つまり北森先生は、愛は自由で、自発的で、喜びであり、命じられ、強制されてするものではないと語っています。
ロマ12:8「施しをする人は惜しまず施し、慈善を行う人は快く行いなさい」。愛することそれ自体が、快く、嬉しいことなのです。自由を奪われ、強制されて喜びがなくても、将来、善いことがある、ご褒美をもらえる、自分にとっていいことがありそうだから愛する。今日の聖書では、そういう愛を求めているのではなさそうです。愛は、自由で、自発的で、喜びがある。
アウグスティヌス「愛とは不思議なものである。愛する人のためなら、苦しむことすらできる」喜んでいるのです。だからこそ、12:8「快く行いなさい」に続けて、12:9「愛には偽りがあってはなりません」とわざわざ言っているのです。
愛の本質:偽りのない愛、裏表のない愛、それ自体が嬉しく、自発的で、快い。命じられたものではない。
しかし、愛が命じられている。その理由は
愛は、命令されてするものではない。しかし、聖書は「偽りのない愛で愛しなさい」と命じています。矛盾があります。北森先生から学んだ大住雄一先生は、こう解説して下さいました。「この矛盾は、実は、私たち人間が持っている矛盾です」
愛は、命令されるものではないはずなのだけれど、命じなければならなかった。
理由は、自由だった愛、自発的だった愛、喜びであった愛が、どこかで、自分の利益の愛、策略、企てがある愛へとゆがんでいくから。人間の罪の現実があり、聖書は、命じなければならなかったのです。
けれども、この命令が、どういう形の命令かと言うことをよく見ると、私たちに新しい光が差して参ります。
「命令」の形をよく見ることで、私たちに新しい光が差して来る
「愛には偽りがあってはなりません」はギリシャ語ですけれども、旧約聖書のヘブライ語(レビ記19:18)をそのまま移していると言われています。この命令は、ヘブライ語では「愛には偽りがないものだ」という愛の本質が示されています。ヘブライ語の「命令」は「本質」を示しています。あなたは、そもそも偽りのない愛を持っているものなのだよ。神は、あなたをそのように造られた。ギリシャ語にはない特徴。日本語では、親が子に「困っている人がいたら親切にするものなのだよ」と似た言い方があります。
あなたは、偽りのない愛で愛することができる。何故、聖書はそう言えるのか
① 偽りのないキリストの愛に愛されているから
1~11章までは、私たちには罪があることを徹底的に語られて来ました。全く聖い神の御子が、神の栄光もお捨てになって、私たちの汚れた罪を全て負い、身代わりに死んで下さったのです。それによって、私たちは新しく生かされ、深く愛されています。そのような私たちの新しい生き方が12章から語られています。
救われた私たちは、こういう生活をしなさいという命令ではありません。新しくされた私たちは、これからこういう生活に入った。その中に入れられ、福音に入れられ、イエス・キリストの中にいる。
私たちは、神様から偽りのない愛で愛され、偽りのない愛に囲まれ、包まれて今生きている。キリストの偽りのない愛に囲まれ、キリストの偽りのない愛に愛されている私たちです。キリストの愛を忘れたら繰り返し立ち帰り、キリストの偽りのない愛に愛され続けると似た者になっていく。これが福音です。自分の力では無理ですが、キリストが働いて下さる。
キリスト者になったら、偽りの愛で愛し合わなければならないという、出来ないような厳しい律法で、息苦しく生きるのではありません。キリスト者になったら、このように私たちは造り替えられているのですよ、という福音です。
② キリストの贖いによって、新しく造り替えられているから
イエス・キリストが私たちの罪を全て負い、十字架について死んで下さったのです。私たちも古い自分が死んだのです。このかなぐり捨てたい罪に染まった私たちは、イエス・キリストが命を捨てて、私たちを救い、贖って下さいました。キリストと共に古い自分は死に、新しい命に生かされているのです。
目で見える体では、まだ死ぬ体を引きずって愛することも、外面を繕ってしまうところはまだ残っています。
芳賀力先生(東京神学大学、組織神学)「私たちはすでにキリストの贖罪の業により、義と認められ、新しい人間とされています。しかし、実質的にまだ私たちはその新しい人間に十分対応していません。聖霊の力に与って新しい自分へと対応してゆくプロセス、それが聖化の時間的道程です。罪が残存しているという言い方より、新しい人間への対応が未達であると表現する方が適切ではないかと思います」
グリーフケア「もともと人間は聖く汚れのない心を持った、素晴らしい存在として造られていたのです。それなのに、現代社会に生きる私たちは、そうと言えるでしょうか。私たちは今、泥にまみれ罪に汚されているから、純粋な聖い心がもてなくなっています。けれど、この世では泥まみれになっていますが、最終的には純粋で聖らかなものにする、という神様の夢が、一人一人にあるのです。その夢を神様と一緒に追いかけていくのが、私たちの人生です」
もはや私たちは、この世の現実に目を奪われ、それに支配され縛られて生きているのではありません。そうではなく、私たちは、本当に目に見えるようになる完成の日を、希望を持って待ち望みます。
③ 欠けた所があっていい。自分は欠けた者であるから、相手が必要な者となったから。
一人ひとりは、欠けた者です。欠けた者同士が、補い合い、助け合い、支え合う存在になりました。自分は、自分で完全な者を目指していく。そうではありません。相手がなくては、完全になれない。そういう存在になったのです。それぞれが欠けた存在。だからお互いが、かけがえのない存在です。不完全なものであることを喜んでいい。兄弟姉妹を必要とすることを喜んでいい。完成はキリストの中にある。そして、お互いに相手が必要という「偽りのない愛」へと繋がっていきます。
信じられなかったものが、信じていいものへと変わり始めている。
今や、造り替えられ、愛には偽りがないと言われる人となっています。
この世の現実に片足が入ったまま、苦しみますけれども、希望はすでにあります。私たちがキリストの身体に連なり、偽りのない愛へと向かっていることは、全世界の希望になっているのです。全世界にとって、愛は偽りのないものになりつつあるのです。教会の中で実現していくことが、全世界の希望になっていきます。信じられないと思うかもしれませんが、信じていいものへと変わり始めているのです。
「旅人をもてなしなさい」:昔の旅は、色んな災難に遭うことを覚悟しなくてはいけませんでした。宿屋が、盗賊でないという保証はありません。或いは泊めた人が。旅人に襲われることもあります。そういう信頼関係の成り立たない、危険な状況がありました。ですから「旅人をもてなす」とは、危険なことであり、報いが期待できないことでした。信頼関係が成り立たない所を、けれども神様は、「大丈夫、信頼してみなさい」と言うのです。この世の信頼できない所、信じられない所にも、神様の希望は、現れている。世の中は、変わり始めている、信じられなかったものが、信じていいものへと変わり始めている。
教会から全世界へ
神様が実現していて下さる。これが全世界の希望になっていくと言うのです。12章は、教会の中のことを言っていますけれど、後半は、教会の内から外へと向かっていきます。教会は、神様の御業がこの地上で行われている場所です。神様は、教会を通してこの世界に働きかけています。教会「エクレシア」呼び出されたもの。選ばれて呼び出された私たちが、今、ここにいます。私たちは何に選ばれているのでしょうか?この世が、救われるために選ばれているのです。私たちが、ここにいるということは、この世界が見捨てられていない、神様が、この世界を救おうとしておられるということです。ここにこうして救いが置かれている以上、世界は、もう今までと違うのです。信じられなかったものが、信じてよいものになっているのです。
神様が、この世に教会を置いている以上、ここには別の世界が来ている。
確かに、この世には悪があります。私たちが「偽りのない愛」を語ることが、愚かなことに思えてしまう時があるかもしれません。「悪いこともしなくては、生き残ってはいけない。きれい事を言っていては、世は治まらない」
そして、私たちもこの世界に出て行った時に不安になります。私たちは確かに、偽りのない愛を教えられ、どんなに素晴らしいことかも分かっています。けれど、この世のきれい事ではない現実に、悪が強いと感じてしまうのです。けれども、本当に、悪を選ばなくては、生き残っていけないでしょうか。きれい事では、生きていけないのでしょうか。
むしろ私たちは、まさに、神様の愛、神様の正しさが、この世に来ていることに目をそらし、初めから、きれい事は通じないと思っているのではないでしょうか。この世界には悪があり、私たち自身の中にもまだあります。
けれども、悪に染まったこの世界に、教会という救いを、神様は置かれたのです。選ばれた者たち、私たちを、神様はこの世界に置かれました。救いは、始まっているのです。
今まで、この世界全体が、何処へ行くか分からない不安がいつもありました。しかし、そこに、神様が、救い主イエス・キリストを送られたのです。この世に教会が置かれ、この世は、神様の国の完成へ向かって進んでいるのです。
21「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」神様を抜きにすると、絵空事のように聞こえてしまいます。しかし、神の独り子が、かけがえのない命をかけて、この世を、私たちを、悪の現実から、違う現実へと買い戻したとしたらどうでしょうか。この世は、悪の現実から、善の現実へと移され始めているのです。神の国は、完成へ向けて前進しています。キリストの愛の前では、もう悪は力がないものになりました。今や神様がこの世に、この教会を置いている以上、私たちを置いている以上、ここには別の新しい世界が来ているのです。信じていい。神の御子が、命を犠牲にして悪に打ち勝たれたのです。