1.初めに神は天と地を創造された
(1)「初めに神は天と地を創造された」。聖書はこの御言葉から始まります。「神こそが天と地の創造者である」との信仰告白から始まっています。天と地は神に造られた被造物である。従って、天と地も、人間も、造られたものが神として崇められることはない、という信仰の告白です。世界を創造された神のみを神として崇める。「初めに」は、時間の初めであり、世界の起源という意味が込められています。
聖書は科学が追究するように、世界がどのように成り立ったのかを目的とはしていません。世界が存在する意味、人間が存在する意味を目的としています。
神が天と地を創造された初め、「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。地は「混沌」、「形なく、むなしく」(口語訳)あった。闇が深淵の面にあった。「神の霊が水の面を動いていた」。「霊」という言葉は「風」という意味でもあります。従って、「暴風が水面を吹き荒れていた」とも訳せます。地は混沌、闇が深淵の面にあり、暴風が水面を吹き荒れていた。将に、混沌状態にあった。もう一つは日本語訳が踏襲して来たように、「神の霊が水の面を動いていた」。「神の霊が羽ばたいていた」「飛び回っていた」と訳す方もいます。混沌状態にあっても、神の霊が羽ばたいていた。(申命記32・11)。
(2)3節「神は言われた。『光あれ』。すると光があった」。神が世界に向かって語られた第一声です。「光あれ」。神の言葉は混沌の中にあっても、光を創造する力、権威があります。この「光」とは何を意味しているのか。太陽の光、月の光は第四日目に創造されています。4節「神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」。「呼ぶ」という言葉は「支配する」という意味でもあります。神は光と闇、昼と夜を支配されている。神は光を創造されることにより、「時」を創造された。「一日」を創造された。時と秩序を創造された。それが「光」である。しかも「時」は「夕べがあり、朝があった」。夕べから朝へ向かいます。それが聖書の時の捉え方です。初めから終わりへは、朝から夕べではなく、夕べから朝へです。朝へ向かうのです。
ヘブライ人への手紙11章3節はこう語ります。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えないものからでてきたのではないことを悟ります」。「光あれ」。神は第一声により、世界の根源に光を据えられたと捉えることができます。たとえ世界が混沌とし、闇に覆われ、暴風が吹き荒れても、世界の根源にあるのは、「光あれ」です。神の堅い御意志、強い御決意です。ここに私どもが立ち戻る原点があります。
2.神は見て良しとされた
(1)創世記1章の天地創造の物語は、伝承されて、まとめられたのは、紀元前5世紀頃と言われています。イスラエルの民にとって、国が滅ぼされ、遠い異教の地へ連れて行かれたバビロン捕囚の時代です。将に、地は混沌、闇に覆われ、暴風が吹き荒れ、世界が引っ繰り返った時代です。しかし、そのような光が全く見えない現実の中にあって、この御言葉を聴いたのです。「神は言われた。『光あれ』。すると光があった」。世界の根源には、光がある。神の揺るがない御意志、御決意がある。
バビロン捕囚時代に、預言者エレミヤは世界の現実を見て語りました。エレミヤ書4章23~27節。「私は地を見た。そこは混沌であり、天には光がなかった。私は山々を見た。そこは揺れ動き、すべての丘は波打っていた。私は見た。人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。私は見た。実り豊かな地は荒れ野に変わり、町はことごとく、主の前に、主の燃える怒りによって打ち倒されていた。主はこう言われる。全地は荒れ果てる。しかし、私は滅ぼし尽くしはしない」。創世記1章の冒頭の言葉と響き合っています。
(2)第一日目が光と闇、第二日目が大空と海、第三日目が陸地と植物、第四日目が太陽と月と星、第五日目が鳥と魚、第六日目が動物と人間を、神は創造された。第七日目に神は創造を完成され、休まれた。七日という時のリズム、秩序を神は創造されました。天地創造物語にはリズムがあります。同じ構文が繰り返されています。「神は言われた。『~あれ』。その通りになった。神は見て良しとされた。夕べがあり、朝があった。第何日である」。恐らく、天地創造の神への賛美が礼拝の中で行われ、語り継がれて来たと言えます。
「神は見て良しとされた」。この言葉が繰り返されます。31節では「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」。「それははなはだ良かった」(口語訳)。神は御自分が創造されたものを御覧になられ、「極めて良かった」と絶賛されておられます。世界は神の歓喜、喜びから始まりました。それが私どもが捧げる礼拝の根源にある喜びです。「良しとされた」。それは神の祝福、肯定でもあります。世界は神の祝福、「然り」、肯定から始まりました。
加藤常昭先生の師匠であるルードルフ・ボーレン先生は三度来日され、日本の教会を愛されました。ボーレン先生の著書に、『神が美しくなられるためにー神学的美学としての実践神学』(教文館)があります。ボーレン先生は「極めて良かった」を、「極めて美しかった」と訳しています。神は世界を美しく創造された。美しい世界を創造された神も美しい。神学は神が美しくなられるためにある。礼拝もまた神が美しくなられるためにある。カルヴァンが語った「神にのみ栄光を」を、ボーレン先生は「神が美しくなられるために」と語りました。
3.創造主であり、贖い主である神
(1)天地創造物語はバビロン捕囚時代にまとめられたと言われています。預言者第二イザヤもバビロン捕囚時代に、こう語りました。イザヤ書43章1~5節。「しかし、ヤコブよ、あなたを創造された方、イスラエルよ、あなたを形づくられた方、主は今こう言われる。恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。あなたが水の中を渡るときも、私はあなたと共におり、川の中でも、川はあなたを押し流さない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎もあなたに燃え移らない。私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主。私はエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。あなたは私の目に貴く、重んじられる。私はあなたを愛するゆえに、人をあなたの代わりに、諸国の民をあなたの命の代わりに与える。恐れるな、私はあなたと共にいる」。
天地の創造主は同時に、贖い主であると告白されています。天地の創造主であり贖い主である神が、バビロン捕囚の中にある神の民に向かって語りかけるのです。「恐れるな、私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。私はあなたと共にいる」。
(2)天地の創造主であり贖い主は、御子イエス・キリストでもあられます。
最初の教会は創世記1章の天地創造の神をほめたたえる賛美と共に、御子をほめたたえる賛美を礼拝で捧げました。コロサイの信徒への手紙1章15~20節に、その賛美があります。讃美歌の前でこう語ります。13~14節「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」。そして15節以下で御子への賛美がなされます。創世記1章の天地の創造主である神への賛美と響き合います。
「御子は、見えない神のかたちであり、すべてのものが造られる前に、最初の生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。万物は御子によって、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先におられ、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。それは、ご自身がすべてにおいて、第一の者とされるためです。神は、御心のままに、満ち溢れるものを、余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を造り、地にあるものも、天にあるものも、万物を御子によって、ご自分と和解させてくださったのです」。
この御子への賛美は、基本信条である「ニカイア信条」の基となっています。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 4月1日の祈り 詩編100・5
「主よ、われらの神よ、われらの父よ、われらはあなたが与えてくださるすべての光、外的なことの中にあっても経験しうるすべてのよろこびを感謝します。われらはみまえに立ち、あなたはわれらを照らし、われらが地上であゆむべき道を常に示してくださいます。地にも天のことを明らかにし、地上の人間にあなたが与えるすべての善きこと、美しいことのゆえによろこぶことをゆるしてください。そして人間が自分の罪から、暗黒から自由になるとき、ついにはあなたの栄光を認識しますように。この目標をめざす希望の心を強めてください。ますます多くの心を支配し、わざをなし、君臨し、その人の心を通じて、全人間の中に栄光が宣べ伝えられますように。アーメン」。
