1.我々の形に人を造ろう
(1)「初めに神は天と地を創造された」。この御言葉から聖書は始まります。教会の信仰告白です。「初めに天と地を創造されたのは神である.天も地も、私ども人間も、神に造られた被造物である。礼拝されるのは神のみである。私ども造られたものが神として礼拝されることはない」。神は初めに「光あれ」と言われ、光を創造された。光と闇を分け、昼と闇を分けられた。時を創造された。第一日が「光と闇」、第二日が「大空と海」、第三日が「陸地と植物」、第四日が「太陽、月、星」、第五日が「鳥と魚」、第六日が「動物と植物」を神は創造され、第七日に創造を完成され、休まれた。神は創造されたものを見て良しとされた。肯定し、満足し、祝福された。
(2)本日は第六日の「人間創造」に注目したい。「人間とは何か」という根源的な問いが語られている。詩編8編4~7節は人間創造と響き合う御言葉です。
「あなたの指の業である天を、あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ、栄光の誉れの冠を授け、御手の業を治めさせ、あらゆるものをその足元に置かれた」。
創世記1章26節。「神は言われた。『我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう』」。
何故、神は「我々」と複数形で語られるのか。神はおひとりではないか。誰もが疑問を抱きます。幾つかの節があります。神は御使いを従わせておられる。神がご自分を荘重に言い表わす(神の尊厳の複数)。神の熟慮を表す(熟慮の複数)。神は熟慮の末、人間を創造された。
2.神は人を神のかたちに創造された
(1)27節「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された」。
「神のかたち」という言葉が三度繰り返されています。神が人間だけに与えられた特別なものです。「神のかたち」とは何か。神と向き合う関係という意味です。神が語りかけ、人間が応える。人間が語りかけ、神が応える。応答の関係です。「応答する」という言葉から「責任を果たす」という言葉が生まれました。神の御前で、神に応答して生きる。それこそが神の御前で自立して生きる責任ある生き方です。
神が「あなた」と呼び、われわれ人間も「あなた」と応答する。最も親しい人称で、呼び合う関係です。それが最も表されたのが、十戒の契約を結ばれた時です。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」(出エジプト記20・2)。ユダヤ教の神学者マルティン・ブーバーは『我と汝』で、ここに聖書の核心があると語りました。それに影響を受けたのが、戦後、来日され国際基督教大学の特任教授となったエーミール・ブルンナーです。神とわれわれ人間は、「我と汝」と呼び合う人格的な関係にある。神の呼びかけに応答して生きることが、責任ある生き方である。
(2)神の御前で、男も女も「神のかたち」です。全ての人間が「神のかたち」です。詩人・島崎光正は生まれつき二分脊椎症でした。皆から差別されました。小学校の手塚縫蔵校長が島崎少年に語りかえました。「光正君、あなたはあなたらしく生きなさい」。手塚縫蔵は松本基督教会(現在、松本東教会)の長老をされ、後に、島崎光正はこの教会に導かれ、洗礼を受けました。島崎光正の著書に、『神は見て良しとされた』があります。自らの生きる原点がここにあります。神は私を神のかたちに造られ、良しとされた。肯定し、祝福された。
創世記1章の御言葉は、伝承され、まとめられたのが、バビロン捕囚の時代でした。祖国が滅び、家族を、友人を亡くし、異教の地に連れて来られたイスラエルの民は、身も心も破れ果て、生きる意味、存在する意味を失いました。そのような中で、天地創造の神の御言葉を聴いたのです。
「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された」。
身も心も破れ果てても、神は私どもを「神のかたち」に創造されたと語られる。「あなた」と神に呼びかけられている。神の呼びかけに応えて生きようとする力が与えられました。
3.神はその業を完成され、休まれた
(1)28節「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ』」。
「治めよ」という言葉が繰り返されています。神は人間に、神が造られたあらゆる生き物を治める、統治する権威をお与えになりました。神から委ねられた統治権です。神の御前で神の御心を尋ね求め、畏れをもって行使するものです。今日の自然破壊、地球温暖化の問題と深く関わりがあります。20席記の後半は、創造論に神学の注目が集まりました。
29節「神は言われた。『私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた』。そのようになった」。
神はご自分が造られたものを食物として食べることを許されました。今日の食糧問題の原点です。食べることが許されたのは青草です。獣も、人間も草食でした。肉食が許されたのはノアの洪水の後です。9・3.
預言者イザヤが終末の見て語った言葉があります。イザヤ書11章6~9節。
「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み、小さな子どもがそれを導く。雌牛と熊は草を食み、その子らは共に伏す。獅子も牛のようにわらを食べる。乳飲み子はコブラの穴に戯れ、乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。私の聖なる山のどこにおいても、害を加え、滅ぼすものは何もない。水が海を覆うように、主を知ることが地を満たすからである」。
人間と動物の共生が歌われます。人間も動物も草を食む。全ての中心は世界を創造し、統治しておられる主を知ることが地を満たす。終末の神の国の原型を神の天地創造に見ています。
31節「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」。
神は第六日に創造されたものを、「極めて良かった」と最上級の祝福を語られています。私ども人間は「極めて良かった」と最上級の祝福の内に創造されたのです。
(2)2章1節「こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。これが天と地が創造された次第である」。
神は第七の日に、その業を完成され、休まれました。第七の日を祝福し、聖別されました。「第七の日」が繰り返されます。第一の日に、「光あれ」と言われ、光と闇、昼と夜を分け、一日という時を創造されました。神は一週間を七日という時の秩序を創造されました。神は第六の日に、人間を創造され、天地創造を完成されたのではなく、第七の日に、休まれたことにより、創造を完成されました。神の天地創造の目的は、第七の日の完成と休息にありました。創造は完成を目指します。それが神の休息にあります。
これが十戒の第四戒となりました。「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。・・主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福して、これを聖別されたのである」(出エジプト記20・8~11)。第七日に神が安息されたので、私どもも安息する。神の天地創造の御業を想い起こすためです。申命記5章の十戒の第四戒は、出エジプトの御業を想い起こすために、安息することが強調されています。
天地創造の完成は第七日の安息にあります。『ハイデルベルク信仰問答』問103「第四戒で、神は何を望んでおられますか」。答「第二に、生涯のすべての日において、わたしが自分の邪悪な行いを休み、わたしの内で御霊を通して主に働いていただき、こうして永遠の安息を、この生涯において始めるようになる、ということです」。
安息日には永遠の安息を始める日です。主イエス・キリストの甦りという新しい天地創造の出来事、新しい出エジプトの出来事により、キリスト教会は日曜日が安息日となりました。主イエス・キリストの甦りによって拓かれた永遠の安息を、ヨハネ黙示録21章はこう語ります。
「また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去り、もはや海もない。また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである』」。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 4月8日の祈り マタイ17・20
「主よ、われらの神よ、われらは感謝します。あなたはわれらのだれのためにも、あなたが統治しておられることを明らかに示してくださいます。何が起ころうとそれはいずれも、信仰を通じてあなたが与えてくださった神に属する事柄から生じるものにちがいないのです。信仰はこの神に属する事柄に結びつくのです。われらがなおその中に生きつづけなければならない、どんな試練にあっても、過ぎゆくもののなかにあっても、そのようにしてわれらをお守りください。ただひとつ、み国がわれらのうち、われらのまわりに生長し、永遠の真理がたたえられるようになるということのために、くりかえしわれらを自由にしてください。この真理は、あなたがイエス・キリストにおいて与えてくださったものなのです。アーメン」。
