1.二つの人間創造
(1)関西学院大学の松木治三郎先生が夏の学生の研修会で語られた講演が、『人間』(日本キリスト教団出版局)全三巻にまとめられ、出版されています。何版も重ねられ、多くの方に読まれました。「人間とは何か」。これは根源的問いです。その中心にあるのが、創世記1章、2章の神が人間を創造された御言葉です。そこには二つの「人間創造」が語られています。「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちに創造された。男と女に創造された」(1・27)。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」(2・7)。何故、二つの「人間創造」が語られているのでしょうか。別々の資料であるからです。それが分かるのは、神の呼び名です。1章1節~2章4a節は「神」(エロヒーム)と訳されています。2章4b~24節は「神である主」(ヤハウェ・エロヒーム)と訳されています。新共同訳、口語訳は「主なる神」。1章1節~2章4a節は「祭司資料」と呼び、バビロン捕囚時代にまとめられました。2章4b~24節は「ヤハウェ資料」と呼び、ソロモン王時代にまとめられました。
(2)バビロン捕囚時代、全てを失い、将来への希望も見えず、自らの生きる意味も分からなくなる。そのような中で、神は人を「神のかたち」に創造されたと語り慰めたのです。それに対し、ソロモン王時代は栄華を極めた時代で、豊かさの中で高慢に陥る中で、人は土の塵から形づくられた。神の命の息によって生きる者とされたと語り、戒めたのです。
1章1節は「初めに神は天と地を創造された」と、「天と地」という順序になっています。それに対し、2章4b節は「神である主が地と天を造られたとき」と、「地と天」となっています。地に目を向けています。
2.神である主は土の塵で人を形づくり、命の息を吹き込まれた
(1)「神である主が地と天を造られたとき、地にはまだ野の灌木もなく、野の草もまだ生えていなかった。神である主が地上に雨を降らせず、土を耕す人もいなかったからである。しかし、水が地下から湧き上がり、土の面をすべて潤した」。
7節「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」。新共同訳は「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」。人間は土の塵から造られた無に等しい存在。しかし、主なる神が愛を込めて、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。主なる神の命の息を注がれて、人間は生きる存在となった。人間は神の命の息を吹き込まれないと生きることはできない。
8節「神である主は、東の方のエデンに園を設け、形づくった人をそこに置かれた。神である主は、見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木を地から生えさせ、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた」。
主なる神は豊かな木の実が生えているエデンの園に、形づくった人を置かれた。そこには人間が生きるために必要なものが備えられている。「主なる神は人を置かれた」。換言すれば、「そこがあなたの生きる場所である」。ノートルダム清心女子大学の学長であった渡辺和子さんが、30代半ばで学長の務めを授かった時、一人の宣教師が短い英詩を手渡された。「神が植えたところで咲きなさい」。(『置かれた場所で咲きなさい』、幻冬舎)。
10節「エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった。その第一のものの名はピションと言い、金を産出するハビラ全域を巡る川であった。その地の金は良質で、そこではまた、ブドラク香やカーネリアンも産出された。第二の川の名はギホンと言い、クシュの全域を巡る川であった。第三の川はティグリスと言い、アシュルの東の方を流れる川であり、第四の川はユーフラテスであった」。
エデンの園から流れ出た一つの川は四つの川になり、やがて文明を生み出す命の川となった。「ハビラ」はアラビア半島、「クシュ」はエチオピア、「ティグリス、ユーフラテス」はメソポタミア。
(2)15節「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった」。主なる神が人をエデンの園に住まわせた目的は、神が創造された大地を耕すことであった。土を耕し、大地から実りを得る。それが労働の基本となった。
16節「神である主は、人に命じられた。『園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取ってたべると必ず死ぬことになる』」。
主なる神は人間と約束をされた。神は人間を信頼しているから約束をされる。「園のどの木からでも取って食べてもよい」。神は人間に自由を与えられた。「ただ、善悪の知識の木からは、取ってたべてはいけない」。しかし、自由の中に一つの制限を設けられた。制限のない自由は放縦になる。制限のある自由こそ、真実の自由。人間は神が与えた制限のある自由に応答する責任がある。「善悪の知識の木」は、箴言1章7節「主を畏れることは知識の初め」。造り主なる神を畏れることこそが知識の初め。善悪の知識の木から食べると死ぬ。生物学的な死を意味するのではない。被造物である人間は永遠なる存在ではなく、有限なる存在である。造り主なる神と造られたものである人間との関係の破れが、人格的な死をもたらす。
3.人が独りでいるのは良くない、ふさわしい助け手を造ろう
(1)18節「また、神である主は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう』」。人間は独りで生きることはできない。ふさわしい助け手が必要。向き合う存在、呼び合う存在、助け合う存在、人格的な交わりに生きる存在が必要。
19節「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に名を付けた。しかし、自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった」。
人間も、野の獣も、空の鳥も、主なる神が土で形づくられた。神は人間に野の獣、空の鳥を名付ける権威を与えられた。名を与えることが、生きる物となること。野の獣、空の鳥を統治することは、神から託された権限。
21節「そこで、神である主は人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、そのあばら骨の一つを取り、そこを肉で閉ざされた。神である主は、人から取ったあばら骨で女を造り上げ、人のところへ連れて来られた。人は言った。『これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである』」。
主なる神は人のあばら骨から、ふさわしい助け手である女を造られた。「あばら骨」は心臓、命を守る欠かせない骨である。人にとって女はそのような大切な存在である。一心同体となり、助け合う関係となる。
24節「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。人とその妻は二人とも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」。
裸であるということは、自分の弱さ、欠点を相手に見せること。それ故、お互いが支え合わなければ、交わりは成り立たない。
(2)主イエスが甦られた日、弟子たちは家の戸に鍵をかけ、閉じこもっていた。部屋の空気は澱み、弟子たちは息苦しくなり、生気を失い、死んだ状態になっていた。甦られた主イエスは鍵の掛かった部屋に入り、真ん中に立たれ、弟子たちに語られた。「聖霊を受けなさい」。甦られたいのちの息を吹きかけた。弟子たちは、甦られた主イエスからいのちの息を注がれ、新しい人間に創造され、主の弟子として立ち上がった。創世記2章7節の人間創造と響き合う御言葉です。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 4月15日祈り 詩編31・15~17
「愛しまつる在天の父よ、われらの願いを聞き、われらのもろもろののぞみを聞き、われらの信仰に耳を傾けてください!われらはあなたに耳を向けます。われらの将来はみ手のうちにあるのです。われらひとりびとりの心のうちに賜物を与え、多くの悪の世にあって、もはや臆することなく、悲しむことのないようにしてください。地上のもろもろのことから自由になるようにしてください。自由にただひとり自分の霊によってあなたのうちに住み、あなたに結びつき、あなたの助けによって永遠に向かってあゆみ、あなたと共に、あなたのうちにのぞみをいだき、全世界がなお光を見ることをおゆるしください。この光によって、はじめて正しく自分の人生を見いだすことがゆるされるのです。われらを守り、聖なる霊によってわれらを祝福してください。アーメン」。
