1.それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となる
(1)創世記3章は人間の罪が語られます。全ての人間に共通して存在する「原罪」(根源的な罪)です。「アダムとエバの物語」とも言われますが、「アダム」は(人間、人類)という意味です。私ども人間の先頭に立つ存在です。聖書協会共同訳は「人」と訳しています。
3章はこういう言葉から始まります。「神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった」。蛇が登場します。蛇も神に造られた被造物であることが強調されます。被造物を代表する者です。被造物の中で最も賢い存在です。蛇が女に誘惑します。
「蛇は女に言った。『神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか』」。蛇の誘惑の言葉は否定形で始まっています。そこに蛇の狡猾さがあります。蛇は神の言葉をなぞりながら、神とは異なる言葉を語ります。神の言葉は、神が人に対して語られた最初の言葉です。それは約束の言葉でした。約束は信頼関係にあるから成り立つ言葉です。2章16節「神である主は、人に命じられた。『園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる』」。神の約束の言葉は肯定形です。神は人に自由を与えられました。「園のどの木からでも取って食べなさい」。しかし、自由の中に一つの制限を設けられました。それこそが真実の自由です。制限のない自由は放縦となります。「ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」。生物的な死ではなく、人格的な死です。神との約束を破る。それは神と向き合う関係が破れ、人格的な死をもたらします。滅びです。
神が人にした約束は肯定形でした。しかし、蛇は巧みに否定形で女に迫ります。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけいと言ったのか」。女は蛇に言います。「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」。蛇の言葉を受けて、女も神との約束の言葉をなぞります。しかし、神が語っていない言葉まで語ります。「触れてはいけない」。否定形を三度繰り返すことにより、神が否定を繰り返す神であると語る。
(2)4節「蛇は女に言った。『いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ』」。神が食べてはいけないと言われた善悪の知識の木の実。それを食べても決して死ぬことはない。むしろ、それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となる。「善悪を知る木の実」とは何か。「主を畏れることは知識の初め」(箴言1・7)。神に造られた人間の知識は造り主である神を畏れること。しかし、善悪の知識の木の実は、神のように善悪を知る者となること。被造物が神のようになることです。全能の知識です。蛇の言葉は狡猾です。人が神のようになったら、神に仕えることはない。あなたが神になるのだから。人間の最大の誘惑です。
6節「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた。すると二人は目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った」。人と女は本来、裸であっても恥ずかしく思わなかった。お互いの弱さ、欠点と向き合いつつ、助け合う存在であった。しかし、神との約束を破り、神の言葉よりも蛇の言葉の方を重んじた結果、お互いの弱さ、欠点を隠す存在となった。お互い向き合う関係に破れが生じました。
2.あなたはどこにいるのか
(1)8節「その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した」。神と向き合う関係に造られた人間が、神と向き合うことを恐れ、神を避け、身を隠すようになります。9節「神である主は人に声をかけて言われた。『どこにいるのか』」。「あなたはどこにいるのか」。人間が生きる上で根源的な問いです。神が人間にいつも語りかけておられます。私ども人間はどこに立っているのか。造り主なる神に対してどこに立っているのか。どのように向き合っているのか。
10節「彼は答えた。『私はあなたの足音を園で耳にしました。私は裸なので、怖くなり、身を隠したのです』」。神に造られた人間が造り主である神と向き合うことが恐ろしくなる。「罪」とは関係の破れです。あるべき場所に立っていない。焦点がずれていることです。11節「神は言われた。『裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか』」。
12節「人は答えた。『あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が来から取ってくれたので私は食べたのです』」。神からの問いかけに対し、人は妻に責任転嫁しています。妻に責任転嫁しているようで、実は「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻」と、神に責任転嫁しています。神の語りかけに応答して生きることが、人間の本来の姿でした。その応答には責任が伴います。神が与えた自由に生きることは責任が伴います。しかし、人は自分の罪を責任転嫁し、逃れようとします。13節「神である主は女に言われた。『何ということをしたのか』。女は答えた。『蛇がだましたのです。それで私は食べたのです』」。人は女と髪に責任転嫁し、女は蛇に責任転嫁します。自分の罪を認めようとしません。
(2)14節「神である主は、蛇に向かって言われた。『このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、最も呪われる。お前は這いずり回り、生涯にわたって塵を食べることになる。お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く』」。
16節「神は女に向かって言われた。『私はあなたの身ごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産むことになる。あなたは夫を求、夫はあなたを治める』」。
17節「神は人に言われた。『あなたは妻の声に聞き従い、取って食べてはいけないと、命じておいた木から食べた。あなたのゆえに、土は呪われてしまった。あなたは生涯にわたり、苦しんで食べ物を得ることになる。土があなたのために生えさせるのは、茨とあざみである。あなたはその野の草を食べる。土から取られたあなたは土に帰るまで、額に汗して糧を得る。あなたは塵だから、塵に帰る』」。
神の呼びかけに応答する責任を与えられた人間。神が与えられた自由を責任をもって用いる人間。しかし、人間は神との約束を破り、神の言葉よりも蛇の言葉を重んじた。罪に対して罰がもたらされる。女は出産の苦しみ、人は労働の苦しみが与えられた。いずれも命を生み出す大切な業です。
3.アダムと新しいアダム・キリスト
(1)20節「人は妻をエバと名付けた。彼女がすべての生ける者の母となったからである」。「エバ」という名は「命」という意味です。全ての人間の「命」の源です。人にとっては「命の助け手」です。21節「神である主は、人とその妻に皮の衣を作って着せられた」。神は裸である人とその妻に、「皮の衣」を作り着せられました。神の愛の衣です。
22節「神である主は言われた。『人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう』」。神に造られた人間は被造物であり、永遠なる存在ではないことが強調される。23節「神である主は、エデンの園から彼らを追い出された。人はそこから取られた土を耕すためである。神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた」。「追い出す」「追放する」という言葉が用いられます。ミルトンの詩『楽園追放』があります。同時に、「遣わす」という意味があります。神は人と妻をエデンの東へ、新たな地へ遣わされます。人は神から遣わされて生きる存在です。「ケルビム」は羽の生えた動物、天使です。神は遣わした人と妻を守るために、ケルビムと剣の炎を置かれました。
(2)ローマの信徒への手紙5章12節以下、「アダムと新しいアダム・キリスト」が主題です。12節「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。・・このアダムは来るべき方の雛形です」。15節「しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです」。17節「一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと儀の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命あって支配するでしょう。そこで一人の過ちによってすべての罪が定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が儀とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」。21節「こうして、罪が死によって支配したように、恵みも儀によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです」。
4.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 4月22日の祈り ルカ12・35~36
「主よ、われらの神よ、われらは待っています!この地上に大いなる困窮のある時も、われらはひたすらに待つのです。あなたの日が来たり、最後の困窮もすぎ去り、み国が力と栄光をそなえて高くあげられ、イエス・キリストの支配が全世界に拡げられることを。あなたの約束を果たし、み心を地に行なってください。信仰を抱き、その信仰により、主なる神よ、来たりたまえ!と祈る人々が、常にいるようにしてください。来たりたまえ、主なる神よ、人間は生きるすべてを知りません。救い主であり、主であり、死せる者と生ける者をさばくイエス・キリストをわれらにつかわしてください。そして罪と死を終結させてください!われらは感謝します。あなたはわれたにすでにこうした信仰を与えてくださいました。そしてわれらは常にこう祈り願うことをゆるされています。ああ主イエス・キリストよ、来たりたまえ、すぐにも来たりたまえ、主イエスよ!と。われらは祈り願うのです。あなたは常にこの信仰によってわれらを守り、み名のゆえにその信仰を全うしようとしていてくださるのです。アーメン」。
