1.甦られた主イエスとの40日の交わり
(1)今日から使徒言行録を黙想します。使徒言行録は教会誕生の物語であり、教会の伝道物語です。教会は生まれた時から、伝道を重んじました。伝道するために教会が誕生したとも言えます。そこに教会の使命があります。私ども教会の原点がここにあります。
使徒言行録は書き出しがとても面白いのです。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。「第一巻」とはルカによる福音書のことです。ルカによる福音書を書いたルカが、第二巻として使徒言行録も綴ったのです。第一巻は「主イエスの物語」です。そして第二巻が「教会の物語、教会の伝道物語」です。ルカ福音書はこのように結ばれています。「主イエスは弟子たちを祝福しながら天に上げられた。弟子たちはエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえた」。主イエスの救いの御業はここで終わっていない。主イエスの救いの御業を継承し、全世界の人々にキリストを伝える「キリストの証人」・教会の伝道の物語が続く必要があったのです。
もう一つ注目すべきは、この文書が「テオフィロ」に献呈されたことです。実はルカ福音書の冒頭にも登場し、ルカ福音書を献呈しています。当時、このように献呈することがあったようです。一体、テオフィロとは誰なのか。ローマの高官と言われています。マケドニア人であったルカと交わりがあったのでしょう。「神を愛する人」「神に愛される人」という意味の名です。求道者であった。そこでテオフィロを救いへと導くために、ルカ福音書を書いた。主イエスの物語を通して、救いへと導かれた。教会に連なったテオフィロが教会の仲間と共に伝道して行く。そのために第二部「教会の伝道物語」が綴られた。しかし、こう考えることもできます。ルカ福音書も使徒言行録も、テオフィロ個人のためにあるのではない。テオフィロ、神に愛される人、神を愛する人は、ルカ福音書、使徒言行録を読む私ども一人一人でもある。私どものために綴られた物語でもあります。
(2)ルカは「教会の物語、教会の伝道物語」をどこから始めているのか。聖霊降臨の出来事からではありません。甦られた主イエスが40日間、弟子たちと交わりをされたこと。天に上げられた昇天の出来事。そこから教会の物語、教会の伝道物語が始まっていると受け留めています。3~4節。
「イエスは苦難を受けた後、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日間にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである』」。
十字架で死なれた主イエスが甦らされた後、すぐに天に上げられたのではありません。主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちを召集し、40日間交わり、訓練する必要がありました。そこに教会の原形があります。主イエスは弟子たちと寝食を共にし、御言葉を徹底して語られました。十字架の出来事の意味、復活の出来事の意味、十字架にかかられる前に語られた一つ一つの御言葉の意味。すべてが「神の国の福音」、主イエスにおいて、新しい神の御支配が始まったことを告げられました。「40日」は象徴的な数字です。「40日」は荒れ野の40年、主イエスが悪魔から誘惑を受けられた40年というように、試練の期間です。しかしここでは祝福の期間です。主イエスは弟子たちに告げられました。エルサレムに留まり、主イエスの御言葉を想い起こし、父の約束されたものを待ちなさい。「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」。聖霊降臨の出来事です。
2.あなたがたは地の果てまで、わたしの証人となる
(1)6節「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた」。注目すべきは、「弟子たち」と呼ばずに、「使徒たち」と呼んでいることです。「遣わされた者」という意味です。甦られた主イエスとお会いし、主イエスは生きておられると福音を告げるために、遣わされた者たちです。ここに既に教会に生きる人々を言い表す言葉が用いられています。使徒たちは主イエスに尋ねます。「主よ、イスラエルのために国を建て直すのは、この時ですか」。イスラエルはローマ帝国の支配下にあります。ローマ帝国の支配から解放され、イスラエル(主が支配し給う)国家が建て直される時は今か。主イエスは言われました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。イスラエル国家が建て直される時は、父なる神が決められることである。それよりも重要なことがある。
8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。ここでも主イエスは聖霊降臨の出来事を約束されています。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤ、サマリア、地の果てまで、わたしの証人となる。聖霊降臨の出来事は教会誕生の出来事です。教会が誕生することは、地の果てまで「キリストの証人」となって、キリストを証しし、伝道することです。地の果てまで、世界の隅々までもです。世界の全ての人にです。
使徒言行録の鍵語が「キリストの証人」です。キリストを証しする者です。教会に生きる者は、キリストの証し人となることです。私どもの生き方、生活を通して、ここにキリストが生きておられることを証しするのです。「使徒」とは、「キリストの証人」として生きることです。新共同訳は「使徒言行録」と呼んでいますが、口語訳は「使徒行伝」と呼びました。しかし、教会の伝道物語の主体は使徒ではありません。「聖霊行伝」と呼ばれました。聖霊が主語です。伝道の主体は聖霊です。私どもは「聖霊の道具」となって、喜んで主に仕え、働くのです。「聖霊の道具」とされることは、聖霊の手となり、足となることです。こんなに光栄なことはありません。
(2)9節「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。主イエスの昇天の出来事です。主イエスが甦られた日から数えて40日目です。欧米の教会はこの日は祝日で、教会で礼拝が捧げられます。日本では平日ですので、キリスト昇天日を祝うことはありません。そのことによりキリストの昇天の意味を重視していないところがあります。しかし、私どもの救いにとって、教会の伝道にとって、とても大切な出来事です。ルターは言いました。「キリストが天に昇られることにより、私どもにとって身近な存在となった」。主イエスは弟子たちから離れて行かれたのではなく、弟子たちにとって身近な存在となった。昇天されたキリストは全ての人の主となられた。聖霊によって、いつも共にいて下さる存在となられた。
10節「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。キリストの再臨の約束です。しかし同時に、聖霊によってキリストはいつも共におられる約束でもあります。
3.キリストの証人として生きる
(1)使徒言行録を書いたルカは、甦られた主イエスの物語をこう綴りました。ルカ福音書24章13以下のエマオでの出来事です。主イエスが甦られた日の夕方、エマオへ向かうクレオパともう一人の弟子がいました。主イエスが甦られた知らせを聞きましたが、信じることができなかった。それ故、暗い顔をしていました。そこに甦られた主イエスが近づき、二人の弟子と道を歩いて下さいました。聖書の御言葉を説き明かしながら道を歩かれました。やがて目指すエマオに到着しました。主イエスはなおも先へ進まれる様子でしたので、二人の弟子は言いました。「一緒にお泊まりください」。二人の弟子はもっと御言葉を聞きたかったのです。客として招かれた主イエスが卓主となり、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。すると、二人の目が開かれ、主イエスであることが分かりましたが、その姿は見えなくなりました。二人の弟子は語り合います。「道々お話になったとき、聖書を説き明かされたとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。そして時を移さず出発して、暗い夜道を歩いてエルサレムに戻りました。11人の仲間に向かって告げました。「主イエスは甦られ、生きておられる。私たちに現れた」。
(2)ここに「キリストの証人」の姿があります。道を共に歩んで下さる主イエスの御言葉によって心燃やされ、「主イエスは甦って、生きておられる」と言葉と生活を通して伝えるのです。主イエスのお姿は見えません。しかし、「キリストの証人の証言」を通して、ここに主イエスは生きておられる。私どもを生き生きと生かしておられる。ほら、わたしを見てごらん。主イエスに生かされることは、喜びの出来事なのだと告げるのです。「教会の伝道の物語」は「私どもの伝道の物語」なのです。「喜びの物語」なのです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 1月22日の祈り マタイ11・28
「愛しまつる在天の父よ、われらは祈り願います。あなたのみ前に立ち、われらに襲いかかるすべてを忘れ、あなたがわれらと共に語ってくださるために、われらに必要な安息を与えてください。あなた生きて、ほんとうにわれらのかたわらにおられるのだということを経験させてください。艱難や、不安、困窮の中にあってもわれらの心がすべてのことをよろこび、感謝するようにしてください。そのことにより、われらがいつもみもとにあり、あなたがわれらに与えてくださったイエス・キリストがわれらを助けてくださるようにしてください。イエス・キリストは、われらの心にかかるすべてのことにおいてわれらの味方であり、助け手となってくださるのです。それゆえにわれらは自分をあなたにおゆだねいたします。聖なる霊をもってわれらを守ってください。アーメン」。