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2025年4月2日

「教会の伝道物語を黙想する10~あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ~」

使徒言行録4章32節~5章11節

井ノ川勝

1.信じた人々の群れは心も思いも一つにし

(1)聖霊の御業により教会が誕生してから、教会は試練の連続でした。生まれつき足の不自由な男を、ペトロとヨハネがイエス・キリストの名により癒したことにより、ユダヤの議会に召喚され、尋問を受けました。外からの試練です。しかし、生まれたばかりの教会の最大の試練が起こりました。それが今日の御言葉が語る出来事です。内からの試練です。外からの試練は教会を一つにします。しかし、内からの試練は教会を分裂させる危険があります。教会の危機です。今日の御言葉は「アナニアとサフィラの事件」です。発端は献金問題です。

5章の「アナニアとサフィラの事件」の直前の4章32~37節の御言葉が大切です。教会はどのような交わりなのかが、生き生きと語られています。32節「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」。最初の教会に生きる人々をどのように呼んでいたのか。呼び名に信仰が表れるので、大切なことです。これまでも、「主の復活の証人」「兄弟たち」「仲間」と呼びました。ここでは「群れ」と呼んでいます。「主の群れ」です。「主に呼び集められた群れ」です。これも教会を表す大切な呼び名です。使徒言行録は聖霊による教会誕生の物語です。ところが、「教会」という言葉がこれまで語られていないのです。初めて「教会」という言葉が語られるのは、5章11節です。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」。「エクレシア」という言葉です。「主に呼び集められた者たちの交わり」という意味です。教会は建物を表すのではなく、主に呼び集められた者たちの群れ、交わりです。「教会」という言葉が、「アナニアとサフィラの事件」という教会を揺るがす大きな事件において、初めて語られています。

 

(2)4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」。聖霊によって地上にこれまでない集団が誕生しました。それが「主の群れ・教会」です。主の群れは心も思いも一つにしていた。そのことが日々の生活の中で、具体的に形となりました。豊かな者も貧しい者も、一人一人が喜んで自分の持ち物を主に献げ、共有していました。自分が働いて得たものは自分のものではなく、主から与えられた恵みであるとの信仰があったからです。それ故、一人一人が自分が献げられるものを喜んで主に献げ、それを共有していました。そのような主の群れを見た人々は、非常に好意を持っていました。よい証しとなりました。「主の群れ」は「主の恵みを分かち合う群れ」です。2章44~45節。形は変わっても、今でも教会はこの信仰に生かされています。

 33節「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた」。「使徒たち」。甦られた主イエスと出会い、主から福音を託され、遣わされた者たちです。「復活の主の使者」です。使徒たちは、聖霊による大いなる力をもって主イエスの復活を証ししました。主イエスは甦って、ここに生きておられる。それは福音を伝える伝道の業だけでなく、主の恵みを分かち合う日々の生活を通しても証しされました。そこに神の恵みが一同に豊かに注がれました。

 34節「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、必要に応じて、おのおのに分配されたからである」。信者の中には、土地や家を売り、それを主に献げる者もいた。そして主の恵みを分かち合った。大切なことは、教会から強制されたことでなく、自発的に喜んで行ったということです。献金は自発的な自由な喜びの献げものであるからです。「使徒たちの足元に置いた」。使徒が主の群れを代表しています。言い換えれば、主に献げた。

ここで注目すべきはこの言葉です。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」。この御言葉と響き合う御言葉が、申命記15章4節です。「あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、主は必ずあなたを祝福されるから、あなたの中の貧しい者は一人もいなくなるであろう」。主が相続地であなたがたを祝福し、貧しい者は一人もいなくなる。それが今、主の群れ・教会で起こる。主の恵みを分かち合う群れに生きる者で、貧しい者は一人もいなくなる。皆、分かち合う主の恵みに喜んで生かされるからです。

 36節「レビ族の人で、使徒たちからバルナバ-『慰めの子』という意味-と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた」。バルナバは後に、パウロと共に第一回伝道旅行に参加しました。自発的な自由な喜びの献げものをした一人として、バルナバが挙げられています。彼は「慰めの子」と呼ばれました。

 

2.あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ

(1)しかし、ここで大きな事件が起こりました。それが5章の「アナニアとサフィラの事件」でした。1節「ところが、アナニアと言う人は、妻のサフィラと相談して財産を売り、妻も承知のうえで、代金の一部を取っておき、その残りを持って来て使徒たちの足元に置いた」。アナニアとサフィラ夫妻は最初の教会の信徒です。誠実で熱心な信仰生活をしていた模範的な夫妻です。アナニアとサフィラも他の信徒たちのように、財産を売り、その一部を喜んで教会に献げました。しかし、主への献げものに問題が起きました。

 3節「すると、ペトロは言った。『アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金の一部を取っておいたのか』」。アナニアとサフィラの罪は「聖霊を欺く罪」でありました。主イエスも厳しく戒められた罪です。マタイ12・32「人の子に言い逆らう罪は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも来たるべき世でも赦されることはない」。アナニアとサフィラの罪は、財産を売った代金を全て主に献げず、その一部を自分たちの許に取っておいたことでしょうか。ペトロの言葉は続きます。

 4節「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」。財産を売らない自由もある。売っても全て自分のものとする自由もあります。献金は自発的な自由なことです。誰にも束縛されたり、強制されたりするものではありません。それでは、アナニアとサフィラの何が問題であったのでしょうか。主に献げたものが、財産を売った全てのものであると偽ったのです。それが聖霊を欺くこと、神を欺くことであったのです。恐らく、アナニアとサフィラが主に献げたものだけでも、多額のものだったでしょう。主の群れ・教会の中でも、最高額であったかもしれません。しかし、どんなに多額なものであったとしても、聖霊を欺き、神を欺く罪は赦されません。献金は人々のまなざしから解き放たれ、神の面前で行われる自由で喜びの業であるからです。

 5節「この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った」。アナニアへの主の審きは厳し過ぎると誰もが思います。悔い改める期間を猶予してもよいのではないかと思います。なぜ、死ななければならなかったのかと思います。

 

(2)7節「それから3時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。ペトロは彼女に話しかけた。『あなたがたは、あの土地をこの値段で売ったのか。言いなさい』。彼女は、『はい、その値段です』と答えた。ペトロは言った。『二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう戸口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう』。すると、彼女はたちまちペトロの足元に倒れ、息が絶えた。若者たちが入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、担ぎ出し、夫のそばに葬った」。11節「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」。

 人間的に見れば、厳し過ぎると思ってしまいます。しかし、教会が忘れてはならない神の厳しさがあります。教会のいのちがここにあります。

 「非常に恐れた」という言葉が、5,11節で繰り返されています。使徒言行録が重んじる言葉です。「畏れた」と訳した方がふさわしい言葉です。神のまなざし、聖霊の御臨在に、畏れる。「十戒」の第一戒「汝、わたしの御顔の前で、何ものも神とすべからず」。カルヴァンが重んじた「主の面前で」(コーラム・デオ)です。最初の教会にとって忘れることの出来ない出来事でした。教会の歩みにおいて何よりも大切なことは、主の面前で、神を欺かない、聖霊を欺かない畏れに生きることです。それを疎かにした時に、教会は死を招きます。滅びを招きます。どんなに信仰的に見えても、信仰的な業に思えても、神を欺き、聖霊を欺く罪は入り込んで来るのです。

 もう一度、最初の御言葉に目を留めましょう。4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」。

3.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 4月2日の祈り エフェソ3・14~15

「主よ、われらの神よ、われらは今あなたのみまえに集まり、感謝を捧げます。あなたはすべてのみことばにおいて、あなたご自身を与えてくださいました。そのことによってわれらがあなたにしたがう者となり、子となることができ、いかなる時、いかなる運命、いかなる生の中にあっても、信頼と信仰によって耐え忍ぶことができるようにしてくださるのです。われらの日々の生活の中であなたの手を強めてください。困難がまし加わり、悲しみの時が来ようとも、み民をみ手のうちに支えてください。われらは堅く立ちたいのです。信仰を持ちたいのです。この地上がどんなに悪く思える時にもそうなりたいのです。あなたはわれらを強めてくださることができる方です。人間の力では、われらにはどうにもなりません。あなたの力が、聖霊の力がわれらを立たしめ、いかなる時にも元気よく、よろこぶものとしてくださるのです。われらはあなたの民なのです。子なのです。悲しみの時にも、み手のうちにあってよろこびたいのです。アーメン」。

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