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2025年5月7日

「教会の伝道物語を黙想する14~ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て~」

使徒言行録7章51節~8章1a節

井ノ川勝

1.ステファノの説教

(1)使徒言行録6章8節~8章 1a節は、ステファノの殉教物語が語られています。生まれたばかりの最初の教会に起きた殉教でした。ステファノは何故、殉教しなければならなかったのでしょうか。ステファノの説教に対して、ユダヤ人は激しく怒り、殺意が生じたからです。7章54節にこうあります。「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」。説教は人々の魂を慰める使命を負っています。人々の罪を指摘し、悔い改めさせて、主に立ち帰らせる使命があります。しかし、説教は時に人々の反感を買い、殺意を抱かせるものでもありました。日本伝道の初期において、教会の伝道集会を潰すためにやって来た仏教徒、神道の輩の怒号の中で、宣教師、伝道者の説教がなされました。それ故、伝道者は山野を駆け巡り、体を鍛えたと言われます。

 ステファノの説教の何が、会衆であるユダヤ人の殺意を引き起こしたのでしょうか。ステファノの説教はユダヤ教徒に伝道するために、共通の基盤である旧約聖書を説き明かしたものです。実に堂々たる素晴らしい説教です。ユダヤ人にとって旧約聖書に登場する重要な人物は、アブラハム、モーセ、ダビデ、ソロモンです。ステファノの説教も神に選ばれたユダヤ人の歴史を辿ります。信仰の父アブラハムも、出エジプトの指導者、解放者であるモーセも、神殿建設をしたダビデ王、ソロモン王も、ひたすら神に導か、神の御言葉に従った歩みをした。神の民であるユダヤ人の歴史は、神の導きの歴史であった。ステファノは説教で、ひたすらそのことを語りました。

 

(2)しかし同時に、神の民であるユダヤ人の歴史は、神の御言葉に反抗した罪の歴史であったことも語りました。奴隷の家であったエジプトを脱出した後、荒れ野の40年の旅を続けました。シナイ山でモーセが神から十戒の契約、律法を授かった時、麓では神の民は大きな罪を犯しました。7章39節「けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトを懐かしく思い、アロンに言いました。『私たちに先立って行く神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセがどうなったのか分からないからです』。その頃、彼らは子牛の象を造り、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものを楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の万象を拝むままにしておかれました」。この出来事と重ね合わせて、ステファノが引用したアモス書5章25~27節が重要です。預言者アモスが指摘した神の民の罪と神の審きです。42節「イスラエルの家よ、あなたがたは荒れ野にいた40年の間、いけにえや供え物を、私に献げたことがあったか。あなたがたはモレクの神輿を神ライファンの星を担ぎ回ったが、これらはあなたがたが拝むために造った偶像である。それゆえ、私はあなたがたを、バビロンのかなたへ移住させる」。

 ダビデ・ソロモン王時代、神のために神殿を建てました。「ユダヤ人のアイデンティティ」は、「律法」と「神殿」でした。しかし、ステファノは「律法」と「神殿」において、神の民は大きな罪を犯したと指摘します。48節「けれども、いと高き方は人の手で造ったものにはお住みになりません」。そしてイザヤ書66章1~2節を引用します。49節「主は言われる。『天は私の王座、地は私の足台。あなたがたは、私のために、どんな家を建てると言うのか。私の憩う場所はどこにあるのか。これらすべて、私の手が造ったものではないか』」。人間が造った神殿に、大いなる神を納めることなどできない。ステファノはいずれも預言者の言葉で、神の民の罪を指摘します。イザヤ書66章3節の言葉も重要です。「私が目を注ぐのは、苦しむ人、霊の打ち砕かれた人、私の言葉におののく人」。神が求めるいけにえは、自らの罪に苦しむ人。神の霊に打ち砕かれ、悔い改め、神に立ち帰る人。神の御言葉によって自らの罪におののく人。

 

2.ステファノの殉教

(1)ステファノは、神の民の歴史を振り返り、先祖の罪を指摘しているのではありません。神の民の先祖の罪は、今将に、私どもの罪であることを指摘するのです。それがステファノの説教の結びで明らかにされます。51節「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです」。ユダヤ人は神の選びのしるしとして、体に割礼を受けていることを誇りとしました。8節「割礼による契約」。しかし、ステファノは「あなたがたは頑なで、心と耳に割礼を受けていない」と語ります。面白い言葉です。「心と耳に割礼を受けていない」とは、どういうことなのか。耳に栓をして、神の御言葉に聴こうとしない。心を石のように頑なにして、神の御言葉を受け入れようとしない。それは聖霊に逆らっている罪を犯している。厳しい言葉です。主イエスも語られました。「人の子に言い逆らう罪は赦される。しかし、背入れに言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない」(マタイ12・32)。

 52節「一体、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼は正しい方が来られることを前もって告げた人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです。あなたがたは、天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」。預言者が預言した「正しい方が来られる」。メシアである主イエスです。しかし、あなたがたは預言者が預言したメシアである主イエスを十字架で殺してしまった。それは神から授かった律法に背く罪であったのです。

 

(2)54節「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」。55節「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」。ステファノは迫害を受けている只中で、まなざしを天におられる主イエスに真っ直ぐに注いでいました。主イエスもまた、父なる神の右におられ、真っ直ぐに迫害の中にあるステファノにまなざしを注がれていました。「使徒信条」では、「主イエスは父なる神の右に座したまえり」と告白します。しかし、父なる神の右におられる主イエスは立ち上がり、身を乗り出して、ステファノを執り成しておられます。

 57節「人々は大声で叫びながら耳を覆い、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げつけた」。「大声で叫びながらも耳を覆い」。面白い動作です。耳を覆ったら、外からの声は聞こえません。自分の声だけが耳に響きます。外からの声、ステファノの説教、神からの声を遮断し、自分の大声のみを正当化し、ステファノを迫害しました。58b節「証人たちは、自分の上着を脱いで、サウロと言う若者の足元に置いた」。ここで初めて登場する人物がいます。サウロです。サウロがステファノの迫害を主導していたのかもしれません。「自分の上着を脱いで、足元に置く」動作は、サウロへの忠誠心を表します。

 59節「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、私の霊をお受けください』と言った。そして、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。こう言って、ステファノは眠りに就いた。サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」。

 

3.主イエスとステファノ

(1)使徒言行録を書いたのは、ルカです。ルカは第一部を福音書、第二部を教会の伝道物語として執筆しました。ステファノの殉教は、主イエスの十字架の死と重ね合わせています。主イエスもステファノも裁判に引き出されました。迫害を受けました。そして主イエスが十字架で語られた言葉を、ステファノも語っています。主イエスの十字架の言葉は、ルカ23章34節。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」。46節「父よ、私の霊を御手に委ねます」。ステファノの言葉は、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。「主イエスよ、私の霊をお受けください」。二つ目の言葉は後に就寝の祈り、息を引き取る時の祈りとなりました。

 

(2)使徒言行録は、教会に生きる者を「主の弟子たち」と言い表しました。弟子は師匠に倣って生きます。ステファノは師匠イエスに執り成されて、師匠に倣って生きました。それは言い換えれば、「人に従うより、神に従うべきです」(5・29)に生きたと言えます。私どもはステファノのように殉教できないと思うでしょう。しかし、異教の地である日本で、キリスト者として生きることが、殉教でもあるのです。日々、「人に従うより、神に従うべきです」が問われているのです。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 5月7日の祈り ヨハネ一4・13

「愛しまつる在天の父よ、われらは心をつくして感謝します。あなたがわれらをみ手に支えていてくださること、反抗や争いや困窮、われら自身の中にあるあいまいさをも貫いて、すべてのわれらの道にあって、あなたがわれらを導いてくださっていることを、われらは知ることをゆるされています。われらを手ばなすことなく、常に守り支え、ついには善きものへと導いてくださるあなたの愛に反抗するものはすべて何ものでしょう!われらになお重くのしかかるものからの解放を与えてください。われらの霊と魂とをますます自由なるものとし、われらが自分のいっさいの力、自分のうちにあるすべてのものによって、あなたがわれらにとってどのような方であるかをなおたたえ、感謝することができるようにだけしてください。アーメン」。

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