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2025年5月14日

「教会の伝道物語を黙想する15~散って行った人々は、御言葉を告げ知らせながら巡り歩いた~」

使徒言行録8章1b~25節

井ノ川勝

1.福音はエルサレムからサマリア、ユダヤ全土へ

(1)最初の教会が直面した最大の試練は、ステファノの殉教でした。教会が生み出した最初の殉教者でした。ステファノの殉教の死を突破口として、ユダヤ教会の激しい迫害が起こりました。それが今日の御言葉の始まりです。そしてここから使徒言行録の第二部が始まります。エルサレム伝道からサマリア、ユダヤ全土への伝道へと展開します。8章1b節「その日、エルサレムの教会に対して激しい迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。信仰のあつい人々はステファノを葬り、彼の死を大いに悼んだ」。3節「しかし、サウロは教会を荒らし、家々に入って、男女を問わずに引き出して牢に送っていた」。ステファノの殉教の場面で初めて登場したのは、サウロです。サウロがステファノの殉教の死の主導者であり、教会への迫害の中心的な存在でした。教会の伝道物語はステファノのからサウロへ光が当てられて行きます。

 

(2)ところで、サマリア、ユダヤ全土に散って行った主の弟子たちはそうなったのでしょうか。4節「さて、散って行った人々は、御言葉を告げ知らせながら巡り歩いた」。今日の表題として挙げた御言葉です。驚くべきことです。激しい迫害を受けて、主の弟子たちは萎縮して、散り散りになって、御言葉を語らなくなったのではありません。むしろ、散って行った人々は、御言葉を告げ知らせながら巡り歩き、伝道しました。迫害が伝道の拡張へと進展しました。聖霊の御業は行き詰まりの中で新しい道を拓き、試練の中に恵みを備えて下さるのです。伝道は試練の中でこそ進展して行ったのです。甦られた主イエスは天に昇って行かれる時、弟子たちにこう告げられました。1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」。迫害という試練の中で、実は主の御言葉が成就しました。どんな試練の中にも、主の導きがあり、御言葉が先導するのです。

 

2.キリストの福音は魔術からの解放をもたらす

(1)5節「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた」。フィリポはギリシャ語を話すユダヤ人です。ステファノと共に、食卓の世話のために執事に任命されました。しかし同時に、ステファノと同様、御言葉を語る賜物も与えられていました。フィリポが逃げ去ったサマリアは、ユダヤ人と対立していたサマリア人が住んでいた地域です。敵対関係にあるサマリアにも、隔ての壁が打ち破られ、キリストが宣べ伝えられるのです。甦られた主イエスの約束であるからです。8章はフィリポの伝道物語が語られています。6節「群衆は、フィリポの行った数々のしるしを見て、こぞってその話に耳を傾けた。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちから、霊が大声で叫びながら出て行き、体の麻痺した人や足の不自由な人が大勢癒された。町の人々は大変喜んだ」。キリストの福音が汚れた霊からの解放を伴いました。

 

(2)9節「ところで、この町に以前からシモンと言う人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、自分を偉い者ように言い触らしていた」。ここにシモンが登場します。魔術を使ってサマリアの人々の心を捕らえていた呪術師でした。10節「それで、小さな者から大きな者に至るまで、皆が『この人こそ偉大なものと言われる神の力だ』と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に驚かされていたからである」。

 キリストの福音は魔術との対決、魔術からの解放をもたらします。12節「しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」。13節「シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポに付いて行き、しるしとすばらしい奇跡が行われるのを見て驚いていた」。

 

3.個人の伝道の業は教会の伝道の業と結び付く

(1)14節「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ遣わした」。キリストの福音が新しい地に伝えられて行く。それはフィリポ個人の伝道の業ではなく、教会の伝道の業として捉えられることが重要です。使徒言行録は教会の伝道物語です。そのことがここで問題となっています。15節「二人は下って行って、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。二人が人々の上に手を置くと、聖霊が降った」。ここで語られていることはどういうことでしょうか。フィリポが授けた洗礼は主イエスの名による洗礼で、聖霊は降っていなかった。それ故、エルサレム教会から遣わされたペトロとヨハネが人々の上に手を置いて祈ると、聖霊が降った」。

 伝道することは洗礼を授けることです。洗礼を授け、主イエスの弟子にすることです。甦られた主イエスが弟子たちに命じられた大宣教命令です(マタイ28・19)。しかし、洗礼は伝道者個人が行うことではありません。教会の承認の下で行うことです。それがここで語られていることです。教会は最初の時から、伝道は個人の業ではなく、教会の業であることを受け止めていました。それが聖霊の業であると受け止めていました。

 

(2)18節「シモンは、使徒たちが手を置くと霊が与えられたのを見、金を差し出して、言った。『手を置けば、誰にでも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けてください』」。シモンは元々魔術師、呪術師でした。使徒たちは手を置いて祈り、聖霊が与えられるのを見て、お金を出せば、そのような霊の力が与えられると思いました。魔術的な力と聖霊の働きを混同しました。後に「シモニー」という言葉が生まれました。「シモンする」という意味です。「お金で霊的な力を買う」という意味です。しかし、魔術と聖霊の業は全く異なります。魔術は人間の手で霊の力を操ります。しかし、聖霊の働きは人間の手の中に収めることなどできません。人間の手を超えて、聖霊は働かれます。従って、私どもは聖霊に畏れをもって仕えるのです。

 20節「すると、ペトロは言った。『この金は、お前と共に滅びるがよい。神の賜物が金で手に入ると思っているからだ』」。厳しいペトロの叱責です。「神の賜物は金で手に入らない」。しかし、シモンに起こったことは、伝道者にも起こる誘惑です。伝道者も自分が霊的な力を有していると思い、権威的に振る舞うことが起こります。それは聖霊に仕えることではなく、魔術的になっているのです。まさに、「シモニー」の誘惑に中にあるのです。

ペトロの叱責は続きます。「お前はこれに関わることも、あずかることもできない。心が神の前に正しくないからだ」。「あなたは聖霊を冒涜した。それ故、聖霊に関わることも、与ることもできない」。22節「この悪事を悔い改め、主に祈れ。あるいは、心に抱いた思いを赦していただけるかもしれない。お前が苦い胆汁と不義の縄目の中にいるのが、私には見える」。24節「シモンは答えた。『おっしゃったことが私の身に起こらないように、主に祈ってください』」。

25節「このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った」。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 5月14日の祈り ローマ5・2

「主よ、われらの神よ、聖なる全能者よ、あなたは栄光を地上にひろげ、われら人間がみもとによろこびを見いだし、地上においてもあなたが与えてくださるすべての善きことによって、よろこびつつ生きるようにしていてくださいます。祝福のみ手をひろげてください。すべての人間、よろこびある者、悲しみある者、勇気ある者、弱い者の上にひろげてください。あなたの愛によって、キリスト・イエスにおいて与えてくださり、聖霊によってわれらのうちに確固たるものとしてくださった大いなる恵みによって、彼らの背後に立ってください。われら人間が低いところにとどまることなく、心においてはわれらすべてが過ぎゆくものをこえるものとならせてください。あなたはわれらの心に永遠なるものを与え、それによって生きることを得させてくださいました。いかなる日にもわれらを助け、われら自身のため、多くの他の人びとのため、そして最後には地上のすべての民のために、目的に達することができるようにしてください!アーメン」。

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