1.エルサレムからガザに下る道を行け
(1)使徒言行録は教会の伝道物語です。今日の私どもの教会もそうですが、生まれたばかりの教会も、様々な伝道計画を立て、それに従って伝道したと思います。エルサレムに誕生した最初の教会は、エレサレムを中心とする同胞のユダヤ人への伝道に集中する伝道計画を立てたと思います。ところが、伝道は人間の計画を遙かに超えて、思い掛けない道を、聖霊が拓いて下さる。それ故、伝道を導くのは人間の知恵ではなく、聖霊です。聖霊行伝と呼ばれます。
生まれたばかりの教会にとって、大きな試練が起こりました。豊かな賜物が与えられたステファノの殉教です。その首謀者はサウロでした。この事件を切っ掛けに、ユダヤ教会はキリスト教会を一気に潰す迫害が起こりました。教会に連なる人々はエレサレムを離れ、ユダヤ、サマリアの地方に散らされました。しかし、逃げながらも、行く先々で伝道しました。8章はその一人フィリポに光を当てます。ステファノと同様、食卓の世話をする執事として選ばれた者です。しかし、ステファノと同様、御言葉を語る賜物も与えられていました。ユダヤ人と仲が悪かったサマリア伝道の道が拓かれます。これも人間の計画を超えた聖霊が切り拓いた伝道の業です。サマリア人が洗礼を受けます。
(2)更に、聖霊はエチオピア人にまで伝道の道を拓かれます。主の天使の言葉から、今日の伝道物語は始まっています。26節「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザに下る道を行け』と言った。そこは寂しい道である」。主が命じた伝道地は地中海に面したガザです。今日もパレスチナ人が住み、イスラエルの攻撃の標的にされています。当時、ガザは「寂しい道」と呼ばれていた。人が住まい場所であった。私どもが立てる伝道は、人が多くいる場所へと向かって行きます。ところが、主の命令は寂しい場所へと導きます。これも主の御計画です。
27節「フィリピは出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった」。聖霊は伝道する標的を定めます。エチオピアの女王カンダケの高官、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官です。去勢してエチオピアの女王カンダケに仕える高官、しかも女王の全財産を管理する信頼を得ていたエチオピア人です。この人を巡って二つの理解があります。一つはエチオピアに離散したユダヤ人ではなかったか。もう一つは文字通りエチオピア人です。私は文字通り後者で理解します。エルサレムに礼拝に来て、帰る途中でした。
2.手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう
(1)28b節「彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」。エチオピアの宦官は、エレサレムに礼拝に来て、帰り道も馬車に乗って、イザヤ書を朗読していた。声に出して呼んでいた。聖書の御言葉に心を捕らえられていました。29節「すると、霊がフィリポに、『追いかけて、あの馬車に寄り添って行け』と言った。フィリポが走り寄ると」。聖霊の命令は走る馬車に走り寄り、馬車と並走して、走りながら御言葉を語りなさいということです。フィリポは息せき切りながら、走りながら御言葉を語りました。私はこの場面が好きです。伝道は一人の人と並走することです。
30節「フィリピが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、『読んでいることがお分かりになりますか』と言った。宦官は『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗って一緒に座るように、フィリポに頼んだ」。フィリポが馬車と並走しながら、息せき切りながら、エチオピアの宦官と対話したこの言葉も興味深いものです。「読んでいることがお分かりになりますか」。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」。聖書は手引きしてくれる人が必要です。この場面は、エマオへ向かう二人の弟子に、甦られた主イエスが近づき、歩きながら聖書を説き明かされた場面と重なり合います。同じルカが描きました。
31節「宦官は、『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗って一緒に座るように、フィリピに頼んだ」。馬車に並走しながら、走りながら語りかけたフィリポが、馬車に乗って一緒に座り、肩を並べて聖書の御言葉を手引きします。聖書は一人で読むものではなく、一緒に座り、肩を並べて、説き明かしを聴くものです。
(2)32節「彼が朗読していた聖書の箇所はこれである。『彼は、屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。誰が、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ』」。エチオピアの宦官が朗読していた聖書の箇所は、イザヤ書53章7~8節の「苦難の僕の歌」でした。旧約聖書の心臓部です。この御言葉をどう読むかが、救いに関わります。
34節「宦官はフィリポに言った。『どうぞ教えてください。預言者は、誰についてこう言っているのですか。自分についてですか。誰かほかの人についてですか』」。イザヤ書53章が語る「苦難の僕」は誰か。預言者第二イザヤなのか、他の方なのか。この御言葉の急所がここにあります。
35節「そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせた」。エマオへ向かう二人の弟子と肩を並べ、歩きながら聖書の御言葉を説き明かされた、甦られた主イエスと重なり合います。ルカ24章27節「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた」。イザヤ書53章が語る「苦難の僕」こそ、主イエス・キリストを証ししている。旧約聖書全体が主イエス・キリストを証しするキリスト証言である。これこそが教会の聖書の読み方です。
3.洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか
(1)36節「道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』」。フィリピとエチオピアの宦官の問答は、後に教会と求道者との信仰問答となりました。イザヤ書53章の「苦難の僕」が主イエス・キリストを証ししている。私たちの病、痛み、背き過ちを全てを、身代わりとなって十字架で担われ、私たちに代わって、神から懲らしめられた。その受けた傷によって私たちは癒された。
37節の後に、☨のマークがあります。使徒言行録の巻末266頁、8章37節を御覧下さい。聖書の写本の中に、この御言葉が挿入されている写本があります。後に教会が加えた御言葉かもしれません。洗礼志願者と教会との信仰問答を表す大切な御言葉です。「フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた」。フィリポの手引きを受けて、イザヤ書53章の「苦難の僕」が、十字架の主イエス・キリストを証ししていることを知り、エチオピアの宦官は「イエス・キリストは神の子であると信じます」と信仰告白をしました。教会の信仰告白に、「アーメン」と承認しました。
(2)38節「そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びに溢れて旅を続けた」。エチオピアの宦官は洗礼を授けられました。主の霊がフィリポを連れ去り、その姿が見えなくなりました。フィリポは主の霊により、別の場所へ遣わされて行きました。エチオピアの宦官は、ガザからエチオピアへ、馬車に乗り、喜びに溢れて旅を続けました。甦られた主イエス・キリストと共なる旅となりました。エチオピアの宦官は後に、伝道者となったと言われています。エチオピアにも教会が生まれました。エチオピア教会の出発点が、この物語でありました。
40節「フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った」。フィリポが主の霊に導かれて伝道した、ガザ、アゾト(アシュドド)、カイサリアは、地中海に面する町です。聖霊に導かれて、この地方にも福音が伝えられて行きました。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 6月4日の祈り 哀歌3・23~24
「愛しまつる在天の父よ、われらは感謝します。あなたは地上にあって、あなたの子であるわれらを導き、われらは自分が経験するすべてのことにおいてくりかえしよろこぶことがゆるされています。悪しき日々にも、悲しい経験の時にも、あなたが善きものを与えてくださったからです。あなたの慈愛とあなたの誠実とはすべてを貫いてわれらに迫り、そしてついには、ああ、ついには、われらの心のうちにも迫ります。そしてわれらは、自分たちがどんあんいさいわいな者とされているかを経験することができます。聖霊がわれらを導き、いずこにあってもわれらはひとりではなく、もろもろの力を受けることをゆるされていることを知るさいわいが与えられているのです。この力は、われらの人生の闘いや労働の中にあってもわれらを助け、善も悪も、生も死も、苦悩も健康も、すべてが実を結ぶようにしてくれます。いかなるものもすべて聖霊の働きにより、あなたのお役に立たなければならないのです。アーメン」。
