top of page

2025年6月11日

「教会の伝道物語を黙想する17~サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか~」

使徒言行録9章1~19a節

井ノ川勝

1.サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んで

(1)キリスト教会2千年の歴史の中で、教会の歩みを変えた回心の出来事が幾つもありました。アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、ウェスレー等の回心がありました。中でも最大の回心は、サウロの回心の出来事です。サウロの回心がなければ、キリスト信仰は今日のように世界の民族に広がっていなかったと言えます。サウロが登場するのは、ステファノの殉教です。8章1節「サウロは、ステファノの殉教に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して激しい迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。・・しかし、サウロは教会を荒らし、家々に入って、男女を問わず引き出して牢に送っていた」。熱烈なユダヤ教徒として、キリスト教会最大の敵として登場しました。

 9章はこういう言葉から始まっていました。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸教会宛ての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」。サウロは大祭司の公認を得て、シリアのダマスコまで逃げて行った主の弟子たちを捕らえ、殺害するため、ダマスコの諸教会宛ての手紙を求めました。

(2)ここで注目すべき二つの言葉があります。最初の教会が教会に生きる者をどのように呼んだのかです。その呼び名に教会の信仰が表れるからです。一つは「主の弟子たち」です。もう一つは「この道に従う者」です。元の言葉は「この道の者」です。使徒言行録で7回も用いられています。18・25,26、19・9,23,22・4,24・14、22。「キリスト者」という呼び名は、アンティオキア教会で初めて用いられました。11・26.この三つの呼び名の中で、今日まで受け継がれていない呼び名が、「この道に従う者」「主の道の者」です。キリスト信仰は「キリスト教」ではなく、「キリスト道」です。教えを学ぶのではなく、道を生きることです。私どもの生活を変革する信仰です。その生活を見たら、生き方を見たら、「主の道に生きる者」であることが分かる。外から付けられた呼び名です。私は教会の信仰にとって、大切な点がここにあると思っています。

 

2.サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか

(1)3節「ところが、旅の途中、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と語りかける声を聞いた」。サウルの回心の出来事を表す言葉です。天からの光がサウロの周りを照らした。甦られた主イエス・キリストがサウロに現れ、語りかけられた。「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」。サウロが迫害しているのは、「この道に従う者」です。しかし、「この道に従う者」を迫害することは、取りも直さず、主イエス・キリストを迫害することです。

 5節「『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『私はあなたが迫害しているイエスである』」。サウルと甦られた主イエスとのやり取りが重要です。サウロは甦られた主イエスに向かって、「主よ」と呼びかけています。主イエスは応えられます。「私はあなたが迫害しているイエスである」。

 甦られた主イエスは更に語りかけられます。6節「立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる」。これまで自分の足で立ち、確信を持って生きていたサウロが、甦られた主イエスの御前で倒れ伏しました。7節「同行していた人たちは、声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」。甦られた主イエスの光で、目が見えなくなったサウロは、三日間、飲食をせず、何をしたのでしょうか。ひたすら甦られた主イエスの言葉を黙想したのではないでしょう。「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」。「私はあなたが迫害しているイエスである」。

(2)10節「ところで、ダマスコにアナニアと言う弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った」。サウロの回心の場面で、重要な役割をするのが、アナニアです。アナニアの執り成しがなければ、教会の迫害者サウロはキリスト教会に受け入れられなかったと言えます。

 11節「すると、主は言われた。『立って、「まっすぐ」と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。彼は今祈っている。アナニアと言う人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ』」。甦られた主イエスとアナニアとの対話も重要です。

 13節「しかし、アナニアは答えた。『主よ、私は、その男がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて縛り上げる顕現を、祭司長から受けています』」。甦られた主イエスがアナニアに語りかけた言葉は、驚くべき内容でした。教会の迫害者サウロを訪ね、頭に手を置き、祈りなさい。アアニアは到底、主イエスの要求に応じられません。サウロという男がエルサレムで行った悪事を赦すことなど出来なかったからです。ここでも、教会に生きる人々の呼び名があります。「あなたの聖なる者たち」「御名を呼び求める人」。

 

3.行け、あの者は、私の名を運ぶために、私が選んだ器である

(1)15節「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である』」。甦られた主イエスが何故、教会の迫害者サウロを選ばれたのか。サウロの使命が語られます。異邦人に、私の名を運ぶために、私が選んだ器である。使徒言行録の主題が語られます。「私の名を運ぶ器」。3章6節「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。教会が運ぶものは、「イエスの教え」ではなく、「イエスの名」です。イエス・キリストの名により説教し、伝道し、祈り、賛美し、洗礼を授け、聖餐を行います。4章12節「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。サウロは異邦人伝道のために、主に選ばれた器です。甦られた主イエスの伝道の幻はこの御言葉でした。1章8節「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」。地の果てまで、異邦人にイエスの名を伝えるため、主はサウロを異邦人伝道の器として選ばれました。

 16節「私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう」。異邦人にイエスの名を運ぶ器として選ばれたサウロは、イエスの名のために苦しみを負うようになる。イエスの名を信じる人々を苦しめたサウロは、イエスの名を伝えることで苦しむようになる。

 17節「そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです』」。アナニアはサウルを訪ね、「兄弟サウル」と呼びかけます。人間的な思いでは、とても「兄弟サウル」などとは呼びかけられない。自分たちの仲間が殺されているからです。しかし、主にあって、主の赦しの中で、「兄弟サウル」と呼びかけるのです。

身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した」。サウルの回心を表す言葉。「目からうろこ」という格言はここから生まれました。甦りの主イエスの前で打ち倒されたサウルは、イエスの名によって身を起こし、洗礼を受けました。食事をして元気を取り戻しました。この食事はまたイエスの名による聖餐の食事でもあります。

(2)教会の迫害者サウロを異邦人に、イエスの名を伝える器として召された主の御業は、驚きです。「サウルの回心」は、使徒言行録では三回語られています。22・6~16,26・12~18.パウロは自らの手紙の中で、回心の出来事を語っていないと言われます。しかし、これらの言葉は、パウロの回心を語っています。ローマの信徒への手紙5章9節「それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」。

 コリントの信徒への手紙一15章8節「そして最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました。私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって、今の私があるのです」。異邦人にイエスの名を伝える器として召されたサウロは、甦られた主イエスによって、名が変えられました。「サウロ」から「パウロ」へ。「サウロ」という名は大きな名です。ベニヤミン族出身のサウロは、同じベニヤミン族出身の初代の王「サウロ」から名付けられました。それに対し、「パウロ」は「いと小さき者」という意味です。いと小さき者であるパウロを、主は異邦人にイエスの名を伝える器として用いられたのです。コリントの信徒への手紙一15章10b節「そして、私に与えられた神の恵みは無駄にならず、私は他の使徒たちの誰よりも多く働きました。しかし、働いたのは、私ではなく、私と共にある神の恵みなのです」。フィリピ3章7~9節。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 6月11日の祈り 詩編36・6、8

「主よ、われらの神よ、われらの心と思いをあなたに向けます。われらと共にいて、聖霊をわれらにお送りください。われらにあってみことばを祝福してください。われらは感謝します。われらは救い主イエス・キリストによってこのみことばを得ているのです。全能の神よ、全世界にみ手をひろげてください。聖霊によって新しい時代を来たらせてください。それは真理と、義と、愛の時代です。主なる神よ、それはあなたが与えてくださる平安の時代です。われらはあなたの子です。あなたの子として、イエス・キリストのみ名によって祈ります。あなたはわれらの祈りを聞いてくださいます。あなたの預言者と、特にイエス・キリストによって語られたすべてのことが成就する日をのぞみ、われらはよろこびます。われらと共にいて、あなたの霊によってわれらを集めてください。アーメン」。

石川県金沢市柿木畠5番2号

TEL 076-221-5396 FAX 076-263-3951

© 日本基督教団 金沢教会

bottom of page