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2025年6月25日

「教会の伝道物語を黙想する19~タビタ、起きなさい~」

使徒言行録9章32~43節

井ノ川勝

1.アイネア、イエス・キリストが癒してくださる、起きなさい

(1)聖霊によって誕生した最初の教会の中心的な伝道者は、ペトロとパウロです。ペトロはユダヤ人伝道、パウロは異邦人伝道を、主から与えられた使命としました。使徒言行録9章は教会の分岐点とも言える出来事が語られています。前半は、教会の迫害者であったサウロが甦られた主イエスと出会うことにより、回心させられ、キリストの名を伝える伝道者として召され、教会の群れに加えられたという驚くべき出来事が語られていました。 

 そして後半が、ペトロの伝道が語られています。キリストの名による福音が、エルサレムから他の地域にまで広がって行きます。二人の人物が登場しています。8年間、体が麻痺して床に着いていたアイネアを癒した出来事です。「アイネア、イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい」。もう一人は死んだタビタを生き返られた出来事です。「タビダ、起きなさい」。伝道が癒しと結び付いています。主イエスが弟子たちに与えられた神の権能は、「イエス・キリストの名」によって、御言葉を語ることです。キリストの名によって御言葉を語ることと、キリストの名による癒しとが結び付いていることです。ここに登場する二人の人物が直面しているのは、「病と死」です。これは教会の伝道にとって、いつも直面している重大な問題です。私どもから生きる望みを奪い、絶望のどん底に突き落とす病と死です。病と死に向かって、教会はいかに立ち向かうのか、大きな課題です。しかし、そこで主イエス・キリストが教会に託された神の権能は、「イエス・キリストの名」によって御言葉を語り、祈ることです。「イエス・キリストの名」によって御言葉を語り、祈ることに、癒しが与えられている。そのことを今日の教会はしっかりと受け止めなければなりません。ルカ9・1~2。ルカは「癒し」を強調します。

(2)ペトロの伝道を、こういう言葉から始めています。32節「ペトロはすべての教会を巡回し、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った」。ペトロが向かった先は、リダの聖なる者たちのところです。リダはエルサレムの北西、地中海に近いところにあります。リダにも教会の交わりに生きる者たちがいました。それを「聖なる者たち」と呼んでいます。イエス・キリストの名によって神に属する者、聖なる者とされた交わりです。

 33節「そしてそこで、体が麻痺して八年前から床に着いていたアイネアと言う人に会った」。34節「ペトロが、『アイネア、イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい』」。ペトロが美しの門の前で、生まれつき足の不自由な男に向かって語った言葉と響き合っています。3章6節「私には銀や金はないが、持っているものをあげとう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。甦られたキリストが教会に託された神の権能は、「イエス・キリストの名」によって御言葉を語り、祈り、賛美し、洗礼を授け、聖餐を行うことです。その中に、イエス・キリストの名による癒しも託されています。「アイネア、イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい」。34b節「アイネアはすぐに起き上がった」。

 35節「リダとシャロンに住む人は皆、アイネアを見て、主に立ち帰った」。シャロンはリダからカルメル山に広がる地中海沿岸の平野です。雅歌2・1「私はシャロンのばら、谷間の百合」。リダとシャロンに住む人は皆、ペトロによってもたらされたイエス・キリストの名によって癒されたアイネアを見て、主に立ち帰りました。「主に立ち帰る」。旧新約聖書が重んじ、ルカが重んじる言葉です。「悔い改める」「回心する」という意味でもあります。ルカ福音書15章で、失われた一匹の羊、失われた一枚の銀貨、失われた息子が、主に立ち帰った。伝道は主に立ち帰らせることです。主の懐こそ、魂の故郷です。憩いの故郷です。異質なところへ導くのではなく、帰るべき場所に帰らせることです。

 

2.タビタ、起きなさい

(1)36節「ヤッファにタビター訳すとドルカスーと言う女の弟子がいた」。ヤッファはリダの西、地中海に面する町です。この町にタビタという女の弟子がいました。「タビタ」はヘブライ語名。「ドルカス」はギリシャ語名です。「ドルカス」は「かもしか」という意味です。タビタに付けられたあだ名です。かもしかのようにきびきびとした、躍動的な、しなやかな生き方をした女の弟子でした。「数々の善い行いや施しをしていた人であった」。苦しんでいる人、悲しんでいる人、困窮状態にある人への愛の業に生きた女性でした。日本の教会は女性たちの愛と奉仕に支えられて来ました。金沢教会にも、かもしかのようにきびきびと、喜んで、しなやかに生きる女性たちの愛と奉仕に支えられて来ました。「ああ、ここにも、ドルカスがいる」。そのような教会員と出会うことは、幸いなことです。

 37節「ところが、その頃病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した」。ところが、悲しい出来事が起こりました。教会内外の人々から愛されたドルカスと呼ばれたタビタが病気になり、死んでしまいました。教会の大切な業の一つが葬りです。教会の人々はタビタの遺体を清めて、階上の部屋に安置しました。

 38節「リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、『どうか、私たちのところへ来てください』と頼んだ」。39節「ペトロはそこをたって、一緒に出かけた。ペトロが到着すると、人々は階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスと一緒に作った数々の下着や上着を見せた」。ドルカスの遺体を囲んでいたのは、やもめたちでした。夫に先立たれ、女手一つでわが子を養い育てなければなりませんでした。しかし、やもめは差別され、働く場所もありません。弱い立場に置かれ、厳しい生活を強いられていました。ドルカスはそのようなやもめたちと、一緒に下着や上着を作る裁縫をし、そこから収益を得る道を拓いていました。やもめたちへの愛と奉仕に生きていました。そのようなやもめたちが、教会の交わりに導かれていました。テモテ一5・3~16.

(2)40節「ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい』と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった」。「タビタ、起きなさい」。「タビタ、イエス・キリストの名によって起きなさい」。ルカ福音書8章54節に、主イエスが会堂長ヤイロの死んだ娘を生き返らせた出来事があります。「子よ、起きなさい」。同じ出来事をマルコ福音書はこう語ります。5章41節「タリタ・クム」「少女よ、さあ、起きなさい」。「タビタ、起きなさい」。「タリタ・クム」「少女よ、さあ、起きなさい」。主イエスの癒しの御業とペトロの癒しの御業が重なり合って、響き合っています。

 41節「ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビダを見せた」。42節「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」。43節「ペトロはしばらくの間、ヤッファで皮なめし職人のシモンと言う人の家に滞在した」。

 

3.慰めの教会に生きる

(1)加藤常昭先生が訳された本に、ハイデルベク大学のクリスティアン・メラーの『慰めの共同体・教会』(教文館)があります。教会は一人一人の魂への配慮に生きる慰めの共同体であることを強調しています。二度来日されました。岐阜まで足を延ばし、セミナーを開いてくれました。説教も魂への配慮をしつつ語る御言葉であり、牧会も魂への配慮をする愛の業である。そこで採り上げたのが、ヤコブの手紙5章13節以下の御言葉でした。今日の教会はこの御言葉を軽んじてはいないかと語られました。

「あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえに、癒されるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。正しい人の執り成しは、大いに力があり、効果があります。エリヤは、私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ると、三年六ヶ月にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ると、天は雨を降らせ、大地は実りをもたらしました。

 私のきょうだいたち、あなたがたの中で真理から迷い出た者を、真理へと連れ戻す人があれば、その人は、罪人を迷いの道から連れ戻し、彼の魂を死から救い、また、多くの罪を覆うことになると、あなたがたは知っていなさい」。

 祈りが癒しと結び付いています。病気の人は教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは弱っている人を救い、起き上がらせる。祈りによる癒しは病気の癒しだけでなく、死に至る病である罪の癒しをも含みます。罪人を魂の死から救い出し、起き上がらせます。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 6月25日の祈り ローマ15・13

「主よ、われらの神よ、われらは祈り願います。われらが常にあなたに根をおろし、今日の時代がわれらに負わせるものをよろこんでになうことができるように、われらの心を強めてください。そしてなおどんなに多くの禍が起ころうと、われらは知っています。あなたの平安はすでにそなえられています。あなたの平安をわれらは待ち、堅く信じてさえいればいいのです。み心の欲するままに、あなたが地上のみ民に善きことをそなえてくださったとおりになるでしょう。そして結局は、信仰によってこの世に勝つみ民により、他の民も何らか得るところがあり、あなたを仰ぎ見るにちがいありません。あなたは平安のうちにおける真理と義と救いの神なのです。それゆえに主なる神よ、日ごとにわれらと共にいてください!われらを助けてください。われらを祝福してください。善をなし、必要な助けを与えようとこころみるすべての人に祝福を与えてください。み名は、われらによって、常にほめたたえられるのです!アーメン」。

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