1.人間の伝道計画を超える神の伝道計画
(1)使徒言行録は教会の伝道物語です。教会は会議を開き、伝道計画を立て、それに従って伝道をします。しかし、伝道は私ども人間が立てた計画通りには進みません。伝道計画を遙かに超えた神の伝道計画に従って進みます。私どもの伝道計画はことごとく挫折します。しかし、挫折と失敗の中で、神の伝道計画が思い掛けない仕方で新たな道を拓くのです。聖霊降臨によって誕生したエルサレム教会は、ユダヤ人伝道から異邦人伝道、様々な民族への伝道へと道が拓かれます。それはエルサレム教会の伝道計画を超えた神の伝道計画によって拓かれた新たな伝道の道でした。
(2)10章は、異邦人コルネリウスの回心の物語です。しかし同時に、ユダヤ人伝道に凝り固まったペトロの異邦人伝道への回心の物語です。その中心にあるのは、神の御心、神の御業でした。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34~35節)。人を分け隔てなさらない神の御心、神の御業が、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事において起こりました。甦られた主イエス・キリストは現れ、食卓の交わりへと招かれました。主イエス・キリストこそ、すべての人の主となられました。ペトロは主の幻を通して回心させられました。天から吊り降ろされた布の中に、清くない動物、食べてはいけない動物が入っていた。それを食べなさいと、神は言われた。神はその幻を通して、どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、お示しになられました。
ペトロはコルネリウスの家に行き、御言葉を語りました。聖霊が異邦人にも降り、共に神を賛美しました。「この人たちが水で洗礼を受けるのを、誰が妨げることができますか。私たちと同様に聖霊を受けたのです」。ペトロはイエス・キリストの名によって、コルネリウスとその家族、部下に、洗礼を授けました。ペトロは数日間、コルネリウスの家に滞在し、食事を共にしました。ユダヤ人と異邦人が主に招かれて、共に食卓の交わりをする。それは聖餐の食卓の交わりでもありました。聖餐の食卓において、ユダヤ人と異邦人との隔ての壁が、主によって打ち砕かれたのです。
2.神のなさることを邪魔をすることはできない
(1)さて、今日は11章1~18節の御言葉を黙想します。ペトロはエルサレム教会に、コルネリウスとその家族、部下への伝道、異邦人伝道の報告をした場面です。伝道は教会の業です。教会から遣わされて伝道します。それ故、教会に伝道報告をします。
1節「さて、使徒たちとユダヤにいるきょうだいたちは、異邦人の神の言葉を受け入れたことを耳にした。そこで、ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った」。異邦人コルネリウス伝道を、エルサレム教会は喜ぶどころか、非難しました。洗礼を受け、キリスト者になったにもかかわらず、割礼を受けた者と割礼を受けていない者とが、一緒に食事をしたことを問題視しました。食卓において人との分け隔てが起こる。律法の限界がそこにあります。
エルサレム教会の中心に立つのは、「使徒たち」、甦られた主イエスとお会いした12弟子です。主イエスと共に食卓に与った者たちです。マルコ福音書2章13節以下は、レビの召命の出来事です。収税所に座っていたレビは、主イエスの「私に従いなさい」との呼びかけに応え、立ち上がって、主イエスに従いました。レビの家に主イエスを食卓に招いた。その食卓には多くの徴税人や罪人もいました。罪人の中には律法を守れないユダヤ人、あるいは異邦人もいたかもしれません。ファリサイ派の律法学者たちはそれを非難し、弟子たちに言いました。「どうして、彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。主イエスは答えられた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
罪人と共に食事をされた主イエスの食卓に同席をしていた使徒たち、12人の弟子たちが、ペトロが異邦人と食卓を共にしたことに非難しているのです。
(2)4節「そこで、ペトロは口火を切って、事の次第を順序正しく説明した」。5節以下のペトロの説教は、ヤッファで見た主の幻を話しました。10章から数えて三度目です。私どもでしたら、「あの主の幻」で済ませてしまいますが、とても丁寧に三度も繰り返します。それだけペトロにとって回心へと導いた、忘れられない主の幻でした。
5節「私がヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天から私のところまで降りて来たのです。その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野の獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロ、身を起こして、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、私は言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません』。すると、『神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度あって、全部の物がまた天に引き上げられました」。
ペトロの説教は尚も続きます。主の不思議な幻の意味が、カイサリアにいる異邦人コルネリウスへの伝道であることを、主から示されたのです。レビ記11章の「食物規定」は、神は全ての人を分け隔てなさらない、という神の新たな伝道計画であったことを知りました。
11節「ちょうどその時、カイサリアから私のところに差し向けられた三人の人が、私たちのいた家に着きました。すると、霊が私に、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる6人の兄弟も一緒に来て、私たちはその人の家に入ったのです。すると彼は、自分の家に天使が立っているのを見、また、その天使がこう告げたと言うのです。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の物すべてを救う言葉を話してくれる』。私が話しだすと、聖霊が最初私たちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。その時、私は、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を授ける』と言われた主の言葉を思い出しました。こうして主イエス・キリストを信じた私たちに与えてくださったとのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私のような者が、そうして神のなさることを邪魔することができたでしょうか」。
ペトロの最後の言葉が説教の結びです。「私のような者が、どうして神のなさることを邪魔することができたでしょうか」。ペトロが既に語った「神は人を分け隔てなさらない」、「この人たちが水で洗礼を受けるのを、誰が妨げることができますか」を言い換えたものです。私たちの伝道に対する正論が、潔癖さが、神の伝道にとって邪魔となる、妨げることがある。身につまされることです。神は人間の計画を遙かに超えて、伝道を行われます。それ故、神のなさることを邪魔をする、妨げることは出来ないのです。主が招いて下さる食卓に共に与ることです。
(3)18節「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を崇めた」。「神を崇める」は「神を賛美する」ということです。伝道は思い掛けない道を拓いて下さる神の伝道の御業を喜び、神を賛美することです。使徒言行録が描く教会は、伝道する教会、祈る教会、賛美する教会が一つになっています。全ての教会の業の中心に、神が立たれるからです。
3.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 7月23日の祈り 使徒言行録4・12
「愛しまつる在天の父よ、われらは感謝します。あなたはイエス・キリストの名を、み子の名として、啓示してくださいました。み子はわれらをあなたの子らとしてみもとへ導いてくださるのです。われらの時代に、苦しみ死のうとするすべての人々の上にみ手を明らかに示してください。み手を働かせてくださり、すぐに新しい時が、現実の神の時、救い主の時が来るようにしてください。それはすでに久しい間約束されていたことが、成就される時なのです。こよいもわれらを守り、われらを祝福し、苦悩の中においてもわれらの上にみ手を強く働かせてください。悲しみにおいてもみ名が崇められますように。この世のすべての悪しき存在のただなかにみ国が来ますように。み心が天に行なわれるごとく、地にも行なわれますように!アーメン」。
