1.キリストの福音はアンティオキアへ
(1)教会の誕生という出来事は、人間の計画ではなく、将に神の御計画であると言えます。最初の教会であるエルサレム教会が誕生したのも、聖霊の御業でした。そしてここに新たにもう一つの教会が誕生しまう。シリアのアンティオキア教会です。アンティオキア教会を拠点として、アジア州で異邦人伝道が行われ、やがてエーゲ海を越えて、ヨーロッパ大陸に福音が運ばれます。様々な民族にキリストの福音が運ばれます。
(2)アンティオキア教会の誕生の経緯は、積極的な理由ではなく、消極的な理由でした。迫害と苦難の中から生まれました。19節「さて、ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外の誰にも御言葉を語っていなかった」。ステファノの迫害によって、エルサレム教会の人々はフェニキア、キプロス、アンティオキアまで散らされて行きました。新たな地で伝道しました。しかし、ユダヤ人以外の誰にも御言葉を語ることはしませんでした。当時、地中海世界の公用語はギリシャ語でした。アンティオキアは地中海に面している港町で、様々な民族が集う町でした。それは言い換えれば、様々な宗教が混載していた町でもありました。
20節「ところが、その中にキプロス島やキレネから来た人々がいて、アンティオキアへ行き、ギリシャ語を話す人々にも語りかけ、主イエスの福音を告げ知らせた」。キプロス島は地中海にある島です。キレネはアフリカ大陸の地中海に面している町です。貿易のためアンティオキアに来ていた人々です。ギリシャ語を話す異邦人です。エルサレム教会から迫害に逃れて、散らされた教会員の中で、ヘブライ語話すユダヤ人と、ギリシャ語を話すユダヤ人がいました。外国の地でも、ユダヤ人だけにキリストの福音を語っていました。しかし、大勢の異邦人がいたので、ギリシャ語でキリストの福音を語り、伝道しました。
21節「主の御手が共にあったので、信じて主に立ち帰る者の数は多かった」。主の御手が働く。それが伝道です。異邦人にも主の御手が働きました。主の御手が前の前の異邦人にも働いている。それを信じてキリストの福音を伝えました。異邦人も信じて主に立ち帰る者の数は多かった。主を信じることは、異質な存在になることではなく、主に立ち帰る者とされることです。本来のあるべき所に立ち帰ることです。キリストの福音によって、私が私らしくなることです。
2.アンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった
(1)22節「この噂がエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバを遣わし、アンティオキアまで行かせた」。アンティオキアで多くの異邦人が主イエスを信じるようになった。この噂はエルサレム教会にいち早く伝えられました。エルサレム教会は調査のため、バルナバを派遣しました。エルサレム教会と異なったことをしては困るという危機感があったと思います。
バルナバはサウロの回心の出来事の時に登場しました。9章26節「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼が旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって堂々と宣教した次第を説明した」。教会の迫害者であったサウロが、甦られた主イエスと出会い回心した。そのサウロがエルサレム教会に向けられるように、バルナバは執り成しをしました。とても大切な役目をしました。バルナバとは「慰めの子」という意味です。穏やかな性格で、懐の深い信仰に生きていたのでしょう。そのバルナバが生まれたばかりのアンティオキア教会を視察する役目を与えられました。それも主のご計画でした。
23節「バルナバはそこに到着すると、神の恵みを見て喜び、そして、揺るぎない心で主にとどまっているようにと、皆を励ました」。バルナバがアンティオキアに到着すると、異邦人が生き生きと主を礼拝し、喜んで信仰に生きている姿を見ました。そこに神の恵みを見て喜びました。そして揺るぎない心で主に留まっているよう、励ましました。「励ます」は「慰める」という意味です。主の慰めに生きる。バルナバの信仰の原点です。信じて主に立ち帰った者は、揺るぎない心で主に留まって生きる。御言葉によって主に立ち帰った者は、御言葉によって揺るぎない心を与えられ、主に留まって生きる。
(2)24節「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた」。アンティオキアでバルナバは異邦人にキリストの福音を伝えました。多くの人が主へと導かれ、立ち帰りました。更に、バルナバが行った重要な御業があります。
25節「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った」。バルナバはアンティオキア教会での異邦人伝道にとって、サウロが欠かせないと思ったのでしょう。サウロの伝道者としての賜物を高く評価していました。しかし、サウロは行方不明でした。シリアのダマスコで、甦られた主イエスと出会ったサウロは回心しました。そしてエルサレム教会に行き、教会に受け入れてもらおうとしました。その仲裁者となったのが、バルナバでした。しかし、エルサレム教会の中には、サウロに対する反発がありました。教会の迫害者おして、サウロによって捕らえられ、殺された家族や信仰の仲間もいました。サウロに対する憎しみは消えませんでした。信仰においては受け入れても、人間的な感情では受け入れられない葛藤がありました。サウロは一時、エルサレム教会で伝道していましたが、その後、消息不明となります。
サウロの出身地はアジア州のタルソスです。アンティオキアの近くでした。バルナバはタルソクに行き、サウロを捜しました。25節「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソクへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った」。バルナバがサウロを発見した時に、どんなに喜びに溢れたことでしょう。将に、神の導きを感謝したことでしょう。バルナバはサウロを説得し、アンティオキア伝道のため連れ帰りました。
26b節「二人は、丸一年の間をこの教会に一緒にいて、大勢の人を教えた。このアンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった」。重要な出来事が起こりました。バルナバとサウロの伝道により、アンティオキア教会は大勢の異邦人が主に立ち帰りました。教会は急速に成長しました。このアンティオキアで初めて、弟子たちが「キリスト者」と呼ばれるようになりました。教会に生きる者たちは、「弟子たち」と呼んでいました。このアンティオキアで初めて、「キリスト者」と呼ばれるようになった。自分たちが名乗ったではなく、揶揄されたあだ名です。あの人たちは、十字架でみすぼらしい死に方をしたキリストの輩。日本の呼び名で言えば、「耶蘇」です。北陸伝道でも、このような歌で揶揄されました。「耶蘇教徒の弱虫は、磔拝んで涙を流す」。しかし、揶揄された名を、自分たちの信仰を表す名として受け入れました。われらは「キリストの者」。
「キリスト者」は、新約聖書には3箇所しか用いられていません。この箇所と、使徒言行録26・28,ペトロ一4・16.
3.アンティオキア教会がエルサレム教会を援助する
(1)27節「その頃、預言者たちがエルサレムからアンティオキアに下って来た。その一人であるアガポと言う者が立って、世界中に大飢饉が起こると霊によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった」。更に一つの出来事が記されています。エルサレムからアンティオキアに下って来た預言者の一人に、アガポがいました。世界中に大飢饉が起こると予言しました。うさんくさいと信じなった。ところが、ロウーマ皇帝クラウディウス帝の時に大飢饉が起きた。特に、ユダヤ地方では飢饉が激しかった。
29節「そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住むきょうだいたちに援助の品を送ることに決めた」。アンティオキア教会の弟子たち、教会員が、被害を受けたエルサレム教会のために、祈り、援助の品を送った。ここに教会同士が支え合う交わりがあります。教会は各個教会だけでは立たず、教会同士が支え合って交わりに生きます。パウロが貧しいエルサレム教会のために献金を呼びかけたのも、この信仰によります。コリント二8・1~15.
30節「そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた」。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 7月30日の祈り テモテ二1・7
「主よ、われらの神よ、われらはあなたの子であり、あなたに祈り願います。あなたはわれらの心にっかることすべてを聞きとどけてくださろうとします。なぜならば、われらが助けを得ようとするのはあなたからであり、人間からでもなく、自分が考えたり、語ったりすることからでもないのです。われらの時代にあなたのみ力が明らかになりますように。われらは新しい時代を慕いこがれます。新しい時代に平安は訪れ、その平安のうちに人間も変わることになるのです。われらはあなたの日を慕いこがれます。その日み力は、貧しくうちひしがれた人類の上に明らかに示されるのです。それゆえにわれらと共にいてくださり、われらの心に賜物をくださり、そこにわれらがとどまり、イエス・キリストの恵みによって強くなるようにしてください。アーメン」。
