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2025年2月12日

「教会の伝道物語を黙想する3~一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話しだした~」

使徒言行録2章1~24節

井ノ川勝

1.聖霊降臨・教会誕生の出来事とは

(1)使徒言行録2章は、聖霊が降り、教会が誕生した出来事が語られています。私どもの教会の原点がここにあります。問題は、教会誕生の出来事とはどのような出来事であったのか。教会誕生の出来事はこういう御言葉から始まっています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになってあつまっていると」。「五旬祭」は「ペンテコステ」という言葉が用いられています。「50日目」という意味です。どこから数えて50日目なのか。主イエスが甦られた日から50日目です。この日に、聖霊が降り、教会が誕生した出来事が起こりました。「五旬祭」はユダヤ人にとって大切な三大祭の一つでした。出エジプト記34章22節。「七週祭」、小麦の「刈り入れの祭」であった。十戒が与えられた記念日でもあった。主イエスの弟子を初め、120名の者が、最後の晩餐が行われた二階の部屋に集まり、主イエスの言葉を信じ、聖霊が注がれるのを待ち望みながら祈りを捧げていた。

 2節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。「聖霊」は神の風、神の息、神の命の霊である。3節「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。聖霊降臨の出来事は、言葉で表せない異様な出来事ではない。聖霊は弟子たち一人一人に、神から新しい言葉を語る「舌」が与えられた出来事であった。4節「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。聖霊降臨・教会誕生の出来事は、聖霊が注がれた弟子たちが、世界中の国々の言葉で、福音を語り出した出来事です。教会が語るべき伝道の言葉が与えられた出来事です。

                                                                   

(2)5節「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが」。ユダヤ人は、紀元70年にローマ帝国によってエルサレムは陥落し、諸外国に散らされた。「離散したユダヤ人」(ディアスポラ)となった。しかし、諸外国に散らばっても信仰のアイデンティティを失わなかった。その中心が十戒、律法であり、ユダヤ人の信仰と深く関わる三大祭(過越祭、七週祭、仮庵祭)(申命記16・1~17)であった。諸外国に散らばったユダヤ人が七週祭を祝うために、エレサレムに集っていた。

6節「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」。聖霊降臨・教会誕生の出来事は、福音が「故郷の言葉」で語り出された出来事であった。これは伝道にとって重要なことです。福音が自分たちの理解できない外国語、異質な言葉ではなく、母国語、故郷の言葉となって響いて来るのです。

7節「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」。ここでも福音を「故郷の言葉」で聴いて、驚くユダヤ人たちの姿を強調します。9節「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに属するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。当時の地中海を中心とした世界の地図です。ここでも重要な言葉は、この言葉です。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。弟子たちは聖霊を注がれて、世界中の言葉で、めいめいが異なった内容を語っていたのではありません。ただ一つの「神の偉大な業」を、世界中の故郷の言葉で語り出したのです。ただ一つの「神の偉大な業」とは、この後、ペトロが説教をしますが、主イエスの十字架と復活の出来事です。

12節「人々は皆、驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」。

 

2.最初の教会の説教

(1)14節以下も重要です。「すると、ペトロは11人と共に立って、声を上げ、話し始めた」。この御言葉は私の伝道者としての出発点にある御言葉です。東京神学大学4年生の時、『東京神学大学学報』に、「若き後輩諸君へ」という欄があり、先輩伝道者からのメッセージが記されていました。そこに、冨山光一牧師の「耕岩播種・魳の遠火焼き」という文章が掲載されていました。そこで初めて伊勢神宮の前に山田教会があることを知りました。その文章に感銘を受けました。

「伊勢神宮そのものと戦うためには、此の町の中に、何年かかっても教会につらなる本物のキリスト者をつくる以外にない、と確信します。そして教会は、そのためにこそ、強くならねばならぬのです。何年かかろうと問題ではありません。所謂国家神道は、それ以外には、打ち破れないと信じています。

 此の牧師の方針に沿う牧会に、之を支持する長老会の存在が、絶対に必要です。長老会は、教会を治める役をもつものですが、そのためには『強い長老会を作る』と云う事こそ大事です。云わば、牧会の中心は此の事です。使徒行伝2・14以下に、ペンテコステ当日の教会の第一声があります。そこでは、ペテロ一人が立ち上がっているのではなく、『11人と共に』立ち上がっているのです。之が、教会の中核の姿です。説教を大事にする長老会、説教を中心におく役員会、をつくるために、心を配る事、之が教会だと、私は考えるのです」。

 聖霊が注がれた時、ペトロ一人が立ち上がって説教したのではありません。11人の他の弟子と共に立ち上がり説教しました。12弟子を中心とする新しいイスラエル・神の民が御言葉を語り出した。これが教会誕生の出来事です。教会が誕生した日の記念すべき説教です。それ以来、教会はこの時、ペトロ、教会が語った福音だけを語り続けて来たのです。

 

(2)ペトロの説教はこういう言葉で始まります。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」。説教は聖書を説き明かします。ペトロはヨエル書3章1~5節の御言葉を説き明かしました。聖霊降臨の出来事は、預言者ヨエルが預言していた出来事であったと語ります。

 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときは、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる」。

 預言者ヨエルの預言は、「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に」と語られ、神の審きの預言です。シカシ、ペトロは「主の偉大な輝かしい日が来る前に」と、神の救いの出来事として受け留めました。注目すべき言葉は、この言葉です。「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。「預言する」は、説教することです。ペトロの説教、教会の説教を指し示しています。聖霊が注がれ、説教がなされた時、若者は幻を見、老人は夢を見る。私どもの内側から生まれる幻、夢は儚く消えて行きます。しかし、主が与える幻、夢は消えることなく、確かなビジョンを与えます。聖霊と説教は、私どもに伝道の幻を与えます。

 22節「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかい、神はこのイエスの死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。

 ペトロの説教の中心となる福音がここにあります。主イエスの十字架と復活の福音です。それはペトロの説教の結びで明確に語られます。36節「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。教会は十字架につけて殺され、甦らされたイエスを、主と告白する福音を、説教を通して語り伝えているのです。聖霊を注がれて。

 

3.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳)2月12日の祈り ルカ10・20

「愛しまつる在天の父よ、あなたが実に多くの力をわれらにおいて示し、われらを脅かし、われらの生命をそこなおうとする実に多くの敵を克服してくださいますことを、感謝します。あなたがわれらにしてくださる数知れぬ奇跡を感謝します。しかしわれらが特別なよろこびをもって感謝することがあります。それは、あなたがわれらの名をしるし、われらの名のあるところにわれら自身もまたいることを感じとらせてくださっていることです。われらの主イエス・キリストのおられるところに、われらもいたいのです。そしてわれらのことばも行動も、主イエスから生ずるべきことなのです。これらのことにおいてわれらを守り、われらのすべての道においてあなたがしてくださっていることのゆえに、よろこべるようにしてください。アーメン」。

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