1.ペンテコステの日のペトロの説教
(1)使徒言行録2章は、祈りを捧げていた主の弟子たちの群れに聖霊が注がれ、教会が誕生した出来事が語られています。私どもの教会の原点となる出来事です。教会が誕生したということは、どういうことなのでしょうか。弟子たちが世界中の故郷の言葉で福音を語り出したことです。故郷の言葉で福音を聴くことが出来る。教会は聖霊を注がれることにより、世界の民族に伝道する使命を託されました。
ペンテコステの日、聖霊降臨の日、ペトロは11人の弟子たちと共に立ち上がり、御言葉を語り出しました。教会が誕生した日の最初の説教となりました。ペトロ一人が立ち上がったのではなく、11人の弟子たちと共に立ち上がった。主イエスを中心とする12人の弟子たち。それが新しい神の民を意味しています。新しい神の民・教会が御言葉を語り出したのです。説教する教会として立ち上がったのです。2章14節から、ペトロの説教が始まりました。説教は聖書を説き明かすことです。ペトロはまず、ヨエル書3章1~5節を引用し、聖霊降臨の出来事は預言者ヨエルが預言していたことが成就した。神の約束が実現したことを告げました。「わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。聖霊を注がれると、若者も老人も、神が与える幻、夢、ビジョンを見るようになる。目の前の厳しい現実を打ち破り、神の幻を見ながら生きるようになる。その伝道の幻とは、世界中の人々が自分たちの故郷の言葉で福音を聴き、十字架で死なれ、甦られた主イエスを救い主として信じ、従い、神の民に加えられるようになることです。
(2)ペトロの説教は更に続きます。22節以下です。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。説教の中心にある福音は、主イエスの十字架の出来事と甦りの出来事です。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は甦らせ、あなたがたの主とされた。これこそが、ペトロの説教以来、2千年の教会が語って来た福音です。
2.主イエスを証言する詩編
(1)ペトロの説教は更に続きます。主イエスの十字架の出来事と甦りの出来事を、聖書で証言する必要がありました。神の御計画であり、神の御業であったことを証明する必要がありました。まだ新約聖書は成り立っていません。旧約聖書で証明する必要がありました。ペトロが重んじた旧約聖書は詩編でした。三つの詩編を取り上げています。詩編16編、132編、110編です。いずれもダビデの歌です。ユダヤ人は詩編を讃美歌のように歌って来ました。歌いながら自分たちの日常生活の指針となりました。特に、詩編16編は最初の教会が重んじた、メシア預言となりました。
25節「ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体は希望の内に生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びに満たしてくださる』」。旧約を代表するダビデ王は主イエスを仰ぎ見ていた。それが詩編16編で歌われていると解釈しています。詩編16編8~11節です。ダビデが歌う「主」とは主イエスを意味していると解釈しています。わたしはいつも目の前に主イエスを見ていた。主イエスがわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。ダビデも様々な力に脅かされ、動揺する日々でした。しかし、主イエスがわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。「右」は最も力ある者がいるところです。主イエスがいつもわたしの右におられるので、わたしの心は楽しみ、舌は主イエスを喜びたたえる。体は希望の内に生きるだろう。やがて死ぬ体です。朽ち果てる体です。しかし、わたしの体は希望の内に生きる。なぜなら、主イエスよ、あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。旧約の時代、死んだ者は皆、陰府に降ると信じられていました。陰府とは神がおられないところです。神の御手が及ばないところです。しかし、主イエスはわたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。何故そのように断言出来るのでしょうか。主イエスが十字架で死なれ、陰府にまで降られ、甦られたことにより、「命に至る道」をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びに満たして下さったからです。私どもは死んで、陰府に降る道、滅びに至る道ではない。主イエスが死に打ち勝ち、甦られ、「命に至る道」が開拓されたのです。詩編16編が、主イエスの甦りを語る御言葉として理解されたのです。
(2)ペトロの説教は深みがありますね。更に続きます。29節「兄弟たち」。会衆に向かって、「主にある兄弟たち」と呼びかけます。「先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました」。ダビデ王も死んで葬られ、墓に埋葬されました。ダビデは預言者であったので、ダビデから生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神ははっきりと誓って下さいました。この御言葉の背後にあるのは、詩編132編11節です。「主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。『あなたのもうけた子らの中から、王座を継ぐ者を定める』」。ユダ族であるダビデ王の子孫から救い主が誕生し、王座に着く。この御言葉も救い主イエスを証しする御言葉として理解されました。
3.あなたがたは皆、キリストの復活の証人
(1)31節「そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨ておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました」。先程引用した詩編16編の御言葉が、主イエス・キリストの復活を証言していたと語ります。32節「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」。聖霊降臨というペンテコステの出来事は、ある日、突然起きた出来事ではない。神の一連の救いの御業として起きた出来事であった。主イエスが十字架で死に、陰府に降られ、甦られ、父なる神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注がれた。
34節「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を、あなたの足台とするときまで」』」。詩編110編1節の御言葉です。「主(父なる神)は、わたしの主(主イエス)にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を、あなたの足台とするときまで」。父なる神の右の座に着くことは、父なる神の権威を委ねられることです。神に敵対する全ての力、敵を、支配し、足台とすることです。
36節「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。ペトロの説教の結びです。福音が凝縮されています。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は甦られ、主とし、メシア(救い主)となさった。
(2)最後に、32節の御言葉に集中したい。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」。「わたしたちは皆、キリストの復活の証人」。この御言葉は、使徒言行録が強調する大切な言葉です。1章8節で、甦られた主イエスが昇天される時に、弟子たちに語られました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。1章21~22節で、ペトロが説教で語りました。「主の復活の証人になるべきです」。甦られた主イエスとお会いし、洗礼を受け、教会の群れに加えられることは、「キリストの復活の証人」とされることです。「キリストの復活の証人」である私どもは、その存在、言葉、生活を通して、キリストが私どもと共に生きておられることを証言する、証しするのです。キリストの復活の証人の使命は、キリストを証言することです。
フランスのコルマールの修道院に、グリューネバルトが描いたキリストの磔刑図があります。十字架のキリストはペストにかかっています。この修道院は町を襲ったペストの患者の療養所となりました。十字架のキリストの下には、洗礼者ヨハネが立ち、右指で十字架の主イエスを指し示しています。その右指が異常に長いのです。ヨハネは十字架の主イエスを指し示す指になっています。そのヨハネの口元に文字が記されています。「あの方は栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3・30)。しかし、ヨハネの存在が消えたわけではありません。ヨハネは全身、十字架の主イエスを指し示す指になっているのです。ヨハネの存在がキリストの復活の証人となっているのです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 2月19日の祈り ヨハネ一4・16
「主よ、われらの神よ、われらは貧しい人間としてみまえに出ます。われらは多くの重荷を負い、時に何をしたらよいのかわからなくなってしまうのです。しかしわれらのあなたに対する確信は大きいのです。あなたがわれらの生の奥ふかくはいりこもうとする愛だからです。そして不都合は正され、未熟さは改められます。それゆえにわれらはよろこび、われらのすべての道にあってあなたの恵みを、あなたの助けを待ちこがれます。われらを祝し、あなたを賛美するために、栄光のために、すべてのもののうちに正しいものを見いださせてください。アーメン」。