1.知られざる神に
(1)使徒言行録17章16節以下は、伝道者パウロのアテネ伝道が記されています。パウロの伝道者人生において、大きな転換点となりました。アテネ伝道に挫折したからです。アネテはギリシア哲学の発祥の地です。哲学者や知識人に、パウロは伝道しましたが、「主イエスの復活の出来事」「死人の甦り」を語ると、嘲笑いながら、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と行って立ち去って行きました。「霊魂不滅」を信じるギリシア人にとって、「体の甦り」は大きな躓きとなりました。パウロの言葉は哲学者、知識人に届かなかったのです。アテネでのパウロの伝道は、アレオパゴスという裁判所のあった丘、広場でなされました。「アレオパゴスの説教」と呼ばれています。聖書の福音に初めて触れる異邦人に、いかに福音を語るのか。「アレオパゴスの説教」は興味深い内容です。17章22節以下です。パウロはアレオパゴスの真ん中に立って説教しました。
(2)「アテネの皆さん、あなたがたがあらゆる点で信仰のあつい方であることを、私は認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう」。
初めて聖書の福音を聴く人々に伝道する時、伝道の突破口となるものがどうしても必要です。パウロはアテネの町に来た時、アテネの町を歩き回りました。町の至る所に、ギリシア神話に登場する神々が偶像として祀られていました。ある偶像の祭壇に、「知られざる神に」という言葉が刻まれていました。パウロはその言葉に、伝道の手掛かりを発見しました。目に見える偶像の神々を拝んでいるが、「知られざる神」がおられる。その神とはいかなる神であるのか。パウロはその言葉を伝道の切り口として語り始めました。「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう」。
24節「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、人の手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです」。
創世記1章が語る、神は「天地の造り主」であることを真っ先に語ります。全ての人に、命と息を注がれる神です。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」(創世記2・7)。
2.天地創造の主こそ、その神
(1)アテネの町の中心には、丘の上にアクロポリスの神殿が建っています。その神殿にも神々が祀られています。ギリシア人の信仰の中心です。しかしパウロは、そこにも伝道の切り口を見いだしました。「(あなたがたが知らずに拝んでいる)この神は天地の主ですから、人の手で造った神殿などにはお住みになりません」。
実は、この言葉は、殉教者ステファノの説教でも語られていました。7章には「ステファノの説教」が記されていました。堂々たる長い説教です。パウロはステファノを殺す首謀者として、ステファノの説教を聞いていました。じりじりしながら、怒りを抑えながら聞いていたことでしょう。しかし今や、その「ステファノの説教」に重ね合わせるようにして、パウロが説教するのです。7章47節「神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったものにはお住みになりません。預言者が言っているとおりです。『天は私の王座、地は私の足台。あなたがたは、私のために、どんな家を建てると言うのか。私の憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、私の手が造ったものではないか』」。
実は、この「ステファノの説教」の言葉も、ソロモン王のエルサレム神殿の献堂の祈りで語られたものです。列王記上8章27節。「神は果たして地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。わが神、主よ。あなたの僕の祈りとその願いを顧みてください。今日、あなたの僕が恩前に献げる嘆きと祈りを聞き入れてください。夜も昼も、この神殿に目を向けていてください。ここは、あなたが、『そこに私の名を置く』と仰せになった所です。あなたの僕がこの所に向かって献げる祈りを聞き入れてください」。
創世記の「天地の創造主の信仰」は、「ソロモン王の祈り」「ステファノの説教」「パウロの説教」に受け継がれています。私たちは神殿に神を納めることなどできない。神は天地を超えた天地の創造主であるからです。そのような神こそが、アテネの人々が知らずに拝んでいる見えざる神なのです。
(2)26節「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全域に住まわせ、季節を定め、その居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです」。
素晴らしい説教です。神は一人の人(アダム)からすべての民族を造り出された。何故、神は人を造られたのか。人に造り主である神を求めさせるためです。人が神を探し求めさえすれば、神を見い出すことができる。神は私たち一人一人から遠く離れておられません。神は御自分を現され、語りかける神だからです。神に造られた私たちは、「神の中に生き、動き、存在している」からです。この言葉はギリシア哲学者が用いていた言葉とも言われます。それをパウロは天地創造の主の信仰の光の中で、語り直すのです。
28b節「皆さんのうちのある詩人たちは、『我らもその子孫である』と言っているとおりです。私たちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで刻んだ金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」。パウロは更に、ギリシアの詩人の言葉を引用します。「われらも神の子孫である」。私たちは神の子孫、神に造られた子であるから、人間の技や考えで刻んだ金、銀、石などの像と同じものと考えてはならない。神に造られた神の子である私たちが、神を像として作り上げることなどできない。
3.神は今はどこにいる人でも皆悔い改めるように命じておられる
(1)1972年、森有正、古屋安雄、加藤常昭三氏の鼎談『現代のアレオパゴス』(教団出版局)が刊行されました。「パウロのアレオパゴスの説教」は、「現代のアレオパゴス」、日本伝道に繋がることであると論じています。森有正が「まえがき」で、「パウロのアレオパゴスの説教」の要点として、二つ上げていました。「知られざる神に」「皆悔い改めるように」。30節以下はもう一つの説教の要点です。
「さて、神はこのような無知な時代を大目に見てくださいましたが」。パウロは語ります。今は「無知な時代」であると。天地の造り主なる神を見失っている時代であると。自分たちの手で偶像を作り出すことは、自分たちの手の中に偶像があり、自分たちが神であることを誇ることです。
「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」。天地の創造主である神が私たちに求めていることは、ただ一つ。「悔い改めなさい」。「悔い改める」ことは、「神に立ち帰る」ことです。旧約の預言者、主イエスの福音の中心です。それをパウロも受け継いでいます。
31節「先にお選びになった一人の方によって、この世界を正しく裁く日をお決めになったからです」。神は一人の人、主イエスによって、神が創造されたこの世界を正しく裁く日をお決めになられた。
「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」。パウロの説教の結びは、「主イエスの甦りの出来事」「死者からの復活の出来事」です。神は御子イエスの甦りを通して、御自分の御心を明らかにされた。甦られた主イエスこそ、終わりの日の裁き主であることを明らかにされた。
(2)32節「死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った」。「主イエスの甦りの出来事」「死者からの体をもった甦りの出来事」は、「霊魂不滅」を信じるギリシア人にとって躓きとなりました。皆、立ち去って行きました。パウロのアテネ伝道、哲学者、知識人への伝道は失敗に終わりました。
34節「しかし、彼に付いて行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスと言う女やその他の人々もいた」。しかし、パウロのアテネ伝道は完全に失敗に終わったわけではありません。小さな伝道の実りが与えられました。数名の信じる者が与えられました。小さな伝道の実りこそ、神が与えられた尊い恵みなのです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 12月10日の祈り マラキ3・20
「主よ、われらの神よ、あなたに信頼を置いてきたすべての人々をおぼえます。奇跡としるしをあなたがしてくださったすべての時を忘れません。そのようにして永遠に、地上に、われら人間の中に、み名のためにふるさとをつくってくださいました。われらはのこれる者たちに属するものなのです。あなたの霊によってわれらが誠実な心を持ちつづけることができるようにしてください。われらの日々に困難が起こり、すべてのものがくずれ落ちようとも、この世が破滅しそうになろうとも、神よ、あなたはわれらにとって、確固として変わらぬ方でありつづけてくださいます!そのことは永遠に変わりません。そのことによってわれらは常に誠実でいたいのです。そしてあなたの大いなる日が来たり、多くのひとりびとりの人間の中に救い主の力も明らかになるまでに至ります。多くの人々はそうして信ずることができるようになり、信仰によって、すべての悲惨の中にあっても助けと慰めを見いだしうるようになるのです。アーメン」。
