1.私はローマも見なくてはならない
(1)パウロの第三回伝道旅行の中心は、アジア州の西に位置する中心地エフェソ伝道でした。巡回伝道者であるパウロは、この地に三年間腰を据えて伝道しました。パウロにとって最も長い伝道期間でした。それだけエフェソ伝道は困難を極めました。行き先々で暴動が起こりましたが、エフェソの暴動は最大でした。パウロは命の危険を感じる程でした。
今日の箇所も19章1節からのエフェソ伝道の続きです。21節はこういう言葉から始まっています。「このようなことがあった後」。エフェソの町にも呪文を唱え、魔術を行い、取り憑かれた悪霊を追い出す祈禱師がいました。福音は魔術、呪術からの解放をもたらします。魔術、呪術に頼っていた大勢の人がそれに関する本を持って来て、焼き捨てました。キリストの福音を信じ、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増して行きました。「このようなことがあった後」とは、このことを指します。
(2)「パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『私はそこに行った後、ローマも見なくてはならない』と言った」。パウロの伝道計画です。エフェソ伝道の後、第二回伝道旅行で訪ねたギリシャ半島に渡り、マケドニア州、アカイア州の教会の人々を励まし、伝道し、エルサレムに帰る計画を立てていました。しかし、パウロの伝道旅行はそれで終わるのではありません。広大な幻を見ています。「私はそこに言った後、ローマも見なくてはならない」。文語訳ではこう訳されていました。「我必ずローマをも見るべし」。この言葉が伝道の幻を語る時に引用される象徴的な言葉となりました。パウロは当時の世界の中心地、地の果てであるローマを目指し、伝道の幻を見ていました。パウロは「決心し」とありますが、元の言葉では「御霊に感じて」という意味です。聖霊に促されて「我必ずローマをも見るべし」という伝道の幻が与えられました。「私はローマを見なくてはならない」という言葉は、主イエスが語られたこの言葉と響き合います。「この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレに行かなければならない」。「神の必然」を表す言葉です。
使徒言行録は、主イエスの伝道の幻から始まりました。1章8節「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」。主イエスの伝道の幻から生まれたパウロの伝道の幻です。「私はローマも見なくてはならない」。伝道の幻は主イエスの伝道の幻を私どもの伝道の幻とすることから生まれます。
2.エフェソの暴動
(1)22節「そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた」。パウロはエフェソに尚、留まりました。そこで事件が起こりました。
23節「その頃、この道のことでただならぬ騒動が起こった」。「この道」とは教会に生きる人々を指す呼び名です。「主の道に生きる者」という意味で、8回も用いられています。信仰者は座って聖書を学ぶ者ではなく、主イエスと共に主の道に生きる者です。
24節「デメトリオと言う銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた」。エフェソの町の中心に、アレテミス神殿があり、アルテミスが祀られていました。豊穣の神で、たくさんの乳房を持つ女神です。デメトリオと言う銀細工師がアルテミスの模型を銀で造り、町の人々が買い求め、職人たちにかなりの利益を得させていました。それで自分たちの商売をしていました。
25節「彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。『諸君、ご承知のように、この仕事のお陰で我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは「手で造ったものなで神ではない」と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、改宗させている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるだけでなく、偉大な目が見アレテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界が崇めるこの女神のご威光さえも失われてしまうだろう』」。
キリストの福音は魔術、呪術からの解放だけではなく、偶像からの解放をもたらします。真実の自由を与えます。しかし、それは裏返して言えば、魔術、呪術、偶像で商売をしている者にとっては、仕事と利益を奪うという切実な問題を生じさせます。自分たちが生活できなくなります。銀細工師デメトリオは切実な思いを同業者や職人に訴えました。伊勢は伊勢神宮の観光で成り立っている町です。山田教会の伊勢伝道が進展すれば、伊勢神宮の観光客を奪い、伊勢神宮から教会に抗議が生まれるでしょう。まだそうなっていないのは、福音が日本の土壌にまだ根ざしていないことを現しています。
パウロが語った「手で造った者など神ではない」。これは旧約聖書が土台となる御言葉です。詩編115編4~8節。「彼らの偶像は銀と金、人の手が造ったもの。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅ぐことができない。手があっても触れず、足があっても歩けない。喉からは声も出せない。それを造り、頼る者は皆、偶像と同じようになる」。偶像礼拝への本質を言い当てた批判です。
(2)28節「人々はこれを聞いてひどく腹を立て、『偉大なるかな、エフェソ人のアルテミス』と叫んだ。そして、町中が混乱に陥った」。銀細工師デメトリオの演説がエフェソの町の人々を煽りました。町の人々は、「偉大なるかな、エフェソ人のアレテミス」を叫びながら、暴動に発展しました。
29b節「彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人のガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって劇場になだれ込んだ。パウロは群衆の中へ入って行こうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。また、パウロの友人であったアジア州の議員数人も、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ」。エフェソの町にも野外の円形劇場がありました。パウロの身を案じたのは、弟子たちだけでなく、友人であるアジア州の議員数人でした。この友人のアジア州の議員数人は、キリスト信者ではなかったでしょう。
32節「さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった」。「集会」という言葉は「エクレシア」です。「教会」を表す言葉ですが、元々は「呼び集められたものたちの交わり」という意味です。
33節「その時、ユダヤ人が前に押し出したアレクサンドロという者に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。しかし、彼がユダヤ人であると分かると、群衆は一斉に、『偉大なるかな、エフェソ人のアルテミス』と二時間ほども叫び続けた」。ユダヤ人のアレクサンドロが群衆の前に押し出され、群衆を制御しようとしましたが、ユダヤ人であると分かると、群衆は却って大声で二時間も叫び続けました。「偉大なるかな、エフェソ人のアレテミス」。
(3)35節「そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。『エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスと天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者がいるだろうか。これを否定することはできないのだから、冷静になるべきで、決心で無分別なことをしてはならない。諸君がここに連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。デメトリオとその仲間の職人が、誰かを訴え出たいのなら、裁判の日があるし、総督もおられるのだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。今日の事件について、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会について、何一つ弁解する理由はないからだ』。こう言って、書記官は集会を解散させた」。
暴動を鎮めたのは町の書記官でした。やはりキリスト信者ではありませんでした。伝道は洗礼へと導き、教会の群れに連ならせることです。しかし同時に、教会に対し好意的な仲間を造ることです。キリスト教幼稚園、キリスト教学校はそのような大切な役割を果たしています。
書記官の言葉から、パウロたちの伝道の姿勢が語られます。「この者たちは神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない」。キリストの福音を地道に語ったのです。冨山光一牧師が元日に、伊勢神宮を批判するキリスト教の伝道団体がいた。自分たちの主張が終えると帰って行った。こでは甚だ迷惑なこと。伊勢伝道は「耕岩播種・魳の遠火焼き」しかない。
書記官は群衆に語ります。キリストを伝える伝道者たちを訴えたければ、暴動ではなく、正当な手続きを踏みなさい。
後に、パウロがエフェソの教会に宛てた手紙で語りました。パウロの膝を屈めての祈りです。「あなたがたが愛に根差し、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを知り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように」(3・17~19)。伝道はキリストの愛に根ざすものです。
3.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 1月14日の祈り コリント一13・4
「主よ、われらの神よ、われらは今あなたのみ前に集まり、あなたの王座の前にあります。そして心から祈り願います。われらに聖なる霊を与え、唯一の神にしてすべての生の創造者であるあなたによって、われら人間の生が支配統治されるようにしてください。みことばをわれらの心にいれ、われらが生きるすべてのことにおいてわれらを祝福してください。そのすべてのことの中にあって、われらは祈りつつみまえに立っているのです。われらは弱く、貧しく、われらの霊は何をすることもできません。疲れ果てているのです。しかしあなたはわれらを強め、いっさいを正しくしてくださいます。そして全世界の中にみ国が明らかなものとなるようにしてくださるのです。特に、あなたが地上にのぞまれるのは悲しみではなく、あなたご自身の善であり、生命であり、永遠であることを、われらの時代に経験させてくださるのです。アーメン」。
