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2026年2月4日

「教会の伝道物語を黙想する47~どうか、あなたがた自身と羊の群れ全体とに気を配ってください~」

使徒言行録20章25~38節

井ノ川勝

1.パウロの遺言説教

(1)使徒言行録20章は、使徒言行録の心臓部とも言える個所です。ここには伝道者パウロがエフェソの長老に語った「遺言説教」が記されています。パウロの説教の中でも、中心となる説教です。その後の教会に大きな影響を与えた説教です。パウロは第三回伝道旅行の最後に、アジア州のミレトスの港町に寄航しました。どうしても会いたい人々がいたからです。エフェソの長老たちです。エフェソの長老たちをミレトスに呼び寄せ、そこで御言葉を語りました。もう二度と会うことはない。涙を流しながら「遺言説教」をしました。それが使徒言行録20章18~35節の御言葉です。

 この「遺言説教」は三つに分けることが出来ます。「そして今」(22,25、32節)という言葉が三度繰り返されています。それで区切ることが出来ます。第一部が18~22節、第二部が25~31,第三部が32~35節です。今日は第二部の25~31節です。「遺言説教」の中心部です。「教会憲章」とも呼ばれています。教会とは何か。伝道者、長老の使命とは何かを問う時に、必ず立ち帰る御言葉です。牧師任職式、長老任職式で読まれる御言葉です。

 

(2)第二部はこういう御言葉から始まっています。

25節「そして今、あなたがたが皆もう二度と私の顔を見ることがないと、私には分かっています。私はあなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです」。

この説教が「遺言説教」である所以が、この御言葉にあります。パウロは第三回伝道旅行で、エフェソで三年間、腰を据えて伝道しました。巡回伝道者であるパウロにとって異例のことです。エフェソはアジア州の中心地であり、また、伝道が困難であったからでしょう。パウロはエフェソの町の人々に、「神の国の福音」を告げました。主イエスの宣教と響き合います。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1・15)。

 26節「だから、特に今日ははっきり言います。誰の血についても、私には責任がありません。私は、神のご計画をすべて、余すところなくあなたがたに伝えたからです」。

最後の説教になるので、今日ははっきり言う。率直に語る。「誰の血についても、私には責任がありません」。どういう意味でしょうか。18章6節でも同じ言葉を語っています。パウロはコリントで、ユダヤ人に御言葉を語りました。しかし、ユダヤ人は反抗し、口汚く罵りました。その時、パウロは衣の塵を振り払って語りました。「あなたがたの血は、あなたがたの頭に降りかかれ、私には責任がない。今後、私は異邦人のところへ行く」。パウロは全身全霊を傾け、命懸けでユダヤ人に御言葉を語りました。しかし、それでもユダヤ人は悔い改めて、御言葉を受け入れない。却って、口汚く罵った。反抗するユダヤ人を神の審きの御手に委ねた。神の審きを受けて、流す血について、私には責任がない。私は神のご計画、福音を余すところなく、あなたがたに伝えた。

 

2.教会憲章

(1)28節が「遺言説教」の中心の御言葉です。「教会憲章」と言われています。

「どうか、あなたがたご自身と羊の群れ全体とに気を配ってください」。

 牧師任職式、長老任職式に読まれる御言葉です。牧師、長老の務めは、「羊の群れ全体に気を配る」ことです。換言すれば「羊の群れを牧会する」ことです。教会を羊の群れに譬えています。これは主イエスが語られたこの御言葉によります。ヨハネ福音書10章3節「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く」。11節「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。14節「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」。16節「私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない、その羊も私の声を聞き分ける」。

 「聖霊は、神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命されたのです」。

 私たちは口語訳に親しんでいます。

 「聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのです」。

聖書協会共同訳は「神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会」。口語訳は「神が御子の血であがない取られた神の教会」。新共同訳は「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」。元の言葉は聖書協会共同訳です。しかし、「神がご自身の血によってご自分のものとなさった」ということは、具体的には「神が御子の血であがない取られた」という十字架の出来事を指し示しています。

教会は牧師のものでも、長老のものでもありません。神がご自身の血によってご自分のものとなさったものです。神が御子の血で贖い取られたものです。すなわち、教会は「神の教会」です。神のものです。神の教会の世話をする、牧するために、聖霊は長老たちをこの群れの監督者に任命されたのです。「世話をする」「牧会する」は、一人一人の魂への配慮をすることです。

聖霊による任命とは、神によって選ばれたということです。「監督」は、「全体を見渡す」という意味です。教会の全体を見渡し、神の教会として立っているのかどうか検証し、羊の群れを牧することが、長老の使命です。

長老任職式でこのように勧告されます。「あなたは今、主イエス・キリストの召しを受けて長老の職に聖別されました。あなたは、神がみ子の血によって贖いとられた神の教会を牧し、この群れを守る職に任じられたのです。それゆえ、あなたは力を尽くしてこの群れを牧会し、守らなければなりません」(全国連合長老会編『式文』)。長老制度の教会では、牧師は「宣教長老」、長老は「治会長老」と呼ばれます。「教会を牧会する長老」です。

 

(2)29節「私が去った後、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」。

 教会にはいつも「外からの試練」、「内からの試練」が襲い懸かる。「外からの試練」は、残忍な狼どもが羊の群れに入り込んで、群れを荒らす。「内からの試練」は、長老の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れる。驚くべきことですが、教会に起こることです。教会が牧師の支配、長老の支配の下に置かれる。しかし、教会は「神の教会」、神の支配、キリストの支配(キリストクラシー)の下に置かれるところです。パウロは「遺言説教」の冒頭で語りました。「私は謙遜の限りを尽くし、涙を流しながら、試練に遭いながらも、主にお仕えしてきた」。それは長老にも言えることです。「謙遜の限りを尽くす」は、「主の御前で打ち砕かれる」ことです。大切なことは、私を選び、長老に立てて下さった主に、喜んでお仕えすることです。

 31節「だから、私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」。

 パウロは三年間、夜も昼も、主の群れ一人一人に、長老たちに、涙を流して存在を懸けて御言葉を語り、牧して来た。長老もパウロに倣い、御言葉を想い起こし、いつも目を覚ましていなさい。御言葉によって、いつも目を覚ましていなさい。目覚めて、主の群れを牧会しなさい。主イエスが弟子たちに繰り返し語られた御言葉です。

パウロが教えたことを想い起こす。それは「教理の擁護」です。教会の信仰、信仰告白を守り、受け継ぐことです。長老の大切な務めです。

 教会は牧師不在の時があります。しかし、長老不在の時はありません。長老教会は長老によって立つのです。今日の教会形成の礎となる御言葉です。

 

3.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 2月4日の祈り ヨハネ14・6

「主よ、われらの神よ、イエス・キリストの名によって福音を聞くことのできたわれらに、助けを与えてください。われらをあなたのみ腕の中へ導いてくださる救い主のもとへ、われらの心が完全に至ることができるように助けてください。われらの願いを聞きとどけ、み顔をこの世に輝かせてください。あなたはみ名のために、すぐにも新しい時代を、新しい救いを地上にもたらそうとしてくださいます。そうして、われらの全生命はみ名をたたえて真理に至り、天国にはいることがゆるされるのだという、あなたについてのわれらの知識が真実となるようにしてくださるのです。それゆえに主よ、われらの神よ、われらに耳を傾けてください。日ごとの生の中で、われらはあなたに身をゆだねます。われらは誠実になりたいのです。そしてあなたはわれらを助けようとしていてくださいます。そしてわれらがあなたの子であるようにしてくださり、一歩ぎとに、一足ごとに、自分があなたのものであることを思わせてくださるのです。アーメン」。

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