1.人々はこれを聞いて大いに心打たれ
(1)使徒言行録2章は祈りをしていた弟子たちの群れに聖霊が降り、教会が誕生した出来事が語られています。私ども教会の出発がここにあります。聖霊が注がれた時、弟子たちは世界中の故郷の言葉で福音を語りましました。教会は誕生の時から世界へ向かって伝道を始めました。また、主イエスの12人の弟子が立ち上がり、ペトロが代表して説教を始めました。聖霊が注がれた時、教会は言葉を語り出します。教会が誕生した日になされた最初の説教となりました。説教は聖書を説き明かします。当時は旧約聖書を説き明かしました。聖霊降臨の出来事は、ヨエル書3章で神が約束された出来事の成就であった。説教の中心はこの御言葉でした。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、メシアとなさったのです」。主イエスの十字架と甦りの出来事は、詩編16編、132編、1104編で神が約束された出来事が成就した。聖霊降臨の日になされたペトロの説教以来、教会は2千年間、主イエスの十字架と甦りの出来事が私どものために起きた出来事であったと語り伝えて来ました。
(2)説教は説教者が一方的に語るものではありません。会衆の応答がなされます。そこにも聖霊が働いているからです。ペトロの説教に対する応答が2章37節以下に語られています。「人々はこれを聞いて大いに心打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」。会衆は聖霊によってペトロが語る説教に心打たれました。頑なな心が聖霊によって開かれ、御言葉に打たれました。この出来事を詩編119編130節はこう語りました。「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」。
コリントの信徒への手紙一14章24~25節は、礼拝での出来事をこう語ります。「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」。礼拝において御言葉が語られ、聖霊が注がれると、会衆の心が打たれるのです。神の御臨在に触れるのです。
2.悔い改めなさい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け
(1)会衆は使徒たちに尋ねます。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。説教者ペトロは会衆に向かって、「兄弟たち」(29節)と呼びかけました。会衆も使徒たちに向かって、「兄弟たち」と応答しています。「主にある兄弟たち」と呼び合う交わりが、聖霊により御言葉を通して生まれたのです。「わたしたちはどうしたらよいのですか」。説教を聴いた会衆の応答です。ペトロは答えます。38節「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。この問答は最初の教会の信仰問答です。同じ信仰問答が16章30~31節にあります。パウロとシラスが初めてヨーロッパ大陸に渡り、フィリピで伝道し、捕らえられた場面です。獄の看守とパウロとシラスの問答です。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。
「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。ペトロは答えます。38節「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。主イエス・キリストを信じること。それは自分の心の中で密かに信じることではありません。主イエス・キリストの恵みに具体的に応答することです。主イエス・キリストの名によって洗礼を受けることです。洗礼を通して教会の交わりに加えられることです。洗礼式は洗礼入会式です。「イエス・キリストの名による洗礼」。これが教会入会のための共通の洗礼です。洗礼は罪の赦しの出来事です。神が遣わされた救い主を、あなたがたは十字架につけて殺しました。わたしどもの救い主と受け入れませんでした。そのような罪が赦される。そして賜物として聖霊を受ける。洗礼によって古い人間が新しい人間として創造される。主イエス・キリストの者とされる。聖霊の賜物を受けて、賜物を喜んで主に献げる者とされるのです。「悔い改める」ことは、洗礼と聖霊によって方向転換させられることです。
(2)ペトロの言葉は続きます。39節「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。素晴らしい言葉です。洗礼の約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、わたしたちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも与えられている。洗礼は大人だけでなく、子供にも約束されている救いの出来事である。また、ペトロの目の前にいるユダヤ人だけでなく、遠くにいる全ての人、すなわち、異邦人にも約束されている。わたしたちの神である主である主イエスが招いて下さる者なら誰にでも約束されている。甦られた主イエスの「大宣教命令」を想い起こします。マタイ福音書28章18節「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
3.主は救われる人々を日々仲間に加えて一つにされ
(1)40節「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた」。説教は「力強く証し」をすることです。主イエスの教えを道徳的に語ることではなく、生けるキリストを証言することです。「邪悪なこの時代から救われよ」。口語訳では「曲がった時代から救われよ」でした。いつの時代も、神に対し、救い主イエスに対し、真っ直ぐに心を向けず、曲がっています。心根が曲がっています。説教は目の前にいる会衆だけでなく、この時代、この世界に向かって語る公の言葉でもあります。「曲がった時代から救われよ」。換言すれば、「神に立ち帰れ」「救い主イエスに立ち帰りなさい」。
41節「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」。ペトロの説教に対する会衆の応答です。聖霊降臨の日、御言葉を聴き、聖霊を注がれ、洗礼を受け、三千人ほどが仲間に加わった。三千人もの洗礼はどのようになされたのでしょうか。想像しただけで楽しくなります。「仲間に加わった」。最初の教会が大切にした言葉です。洗礼を受けることは、「主の仲間」に加えられることです。42節「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。教会の交わりを支えるものが語られます。「使徒の教え」。「使徒的信仰」、主イエス・キリストの十字架と復活の福音です。「相互の交わり」、主にある交わりです。その中心は礼拝です。「パンを裂くこと」。聖餐に与ることです。「祈ることに熱心」。祈りの交わりです。使徒的信仰、礼拝、聖餐、祈り。この四つが教会の交わりを形造りました。
(2)43節「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」。使徒たちの不思議な業としるしとは、病人の癒しです。主の御業です。主の御業に触れた時に、「畏れが」生じた。「まことに神はここにおられる」という神の御臨在に触れたからです。44節「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれぞれ分け合った」。主から与えられた恵みを分かち合う交わりが生まれたということです。コリントの信徒への手紙一11章27節以下に、最初の教会の交わりが語られます。夕方、信徒の家に集まり、それぞれ食材を持ち寄り、食事を共にした。愛餐の交わりです。その後に、聖餐に与りました。
46節「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」。最初の教会の様子が生き生きと語られます。毎日ひたすらこころを一つにして神殿に参り、主を礼拝した。家ごとに集まり。三千人の信徒が一緒に集まるような大きな家はありません。地区毎に分かれて、家に集まったと思われます。そこで「パンを裂いた」。聖餐を表す言葉です。一つのパンを裂き、分かち合う交わりです。一つのキリストの体に与る交わりです。聖餐の食卓の交わりは喜びと真心をもった交わりであった。そして神を賛美した。信徒が集まると必ず讃美歌を歌った。詩編を賛美したのでしょう。聖霊によって誕生した主の群れを、民衆全体から好意が寄せられた。これは大切なことです。生けるキリストを証しする教会の交わりが、民衆全体によい証しとなっていた。教会の交わりが内向きではなく、いつも外に向かって証しをする群れであった。
「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えて一つにされたのである」。この御言葉も心揺さぶられます。主は救われる人を日々仲間に加えられた。伝道の実りが見えないと、教会の交わりはどんどん萎んでしまうのではないかという恐れと不安に駆られます。しかし、伝道は主の業です。主は救われる人々を日々仲間に加えられる。教会の2千年の歩みは、将に主の伝道の御業を体験する歩みであったのです。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 2月26日の祈り 詩編145/18~19
「愛しまつる在天の父よ、全能の神よ、あなたの子たちがあなたを仰ぎ、祈り願っております。み子に堅くすがらせてください。あなたがわれらに耳を傾け、われらの中におられ、み名のためにわれらにとって最善のことを配慮してくださることを知りうるしるしを、くりかえし与えてください。今この時にあっても、善にして慈悲深いあなたのことを経験させてください。われらをして常によろこび、われらがすでに経験し、またこれから経験するすべてのことについて、感謝することができるようにしてください。アーメン」。