1.わたしたちを見なさい
(1)教会が誕生して間もなく、その後の教会の歩みを方向付ける出来事が起こりました。エルサレム神殿の美しの門の前に座っていた、生まれつき足の不自由な男を、ペトロとヨハネが癒しました。その時、ペトロが語った言葉こそが、その後の教会が語る決定的な御言葉となりました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。男は立ち上がり、神を賛美し、礼拝する人間とされました。「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。この御言葉こそ、教会が語る伝道の言葉となりました。
(2)ところが、この小さな出来事が大きな波紋を呼ぶこととなりました。それが今日の御言葉です。11節「さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、『ソロモンの回廊』と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。これを見たペトロは、民衆に言った」。この時、語られたペトロの説教は素晴らしい説教です。教会が語るべき福音が凝縮されています。イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」。4節で、ペトロは足の不自由な男をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と語りかけました。教会に連なる者は、「キリストの復活の証人」とされます。「証し人」は自分を隠さず、「わたしたちを見なさい」と語りかける存在とされます。ところがここでは、ペトロは民衆に向かって、「なぜ、わたしたちを見つめるのですか」と語っています。ペトロは矛盾したことを語っているのでしょうか。民衆が誤った仕方でペトロを見つめていることを戒めているのです。「わたしたちを見なさい」。それは「わたしたちを立たせ、歩かせているイエス・キリストを見なさい」ということです。それこそが「キリストの復活の証人」です。
2.あなたがたは命への導き手である方を殺してしまった
(1)13節「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました」。説教の聞き手はイスラエルの民です。旧約聖書の御言葉に生きている神の民です。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」。この呼び名は旧約聖書が大切にしている呼び名です。モーセの召命の場面でも、神はこの呼び名をモーセに語られました。出エジプト記3章15節「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名」。ペトロの説教で注目してほしいのは、「僕イエス」という呼び名です。私どもは「主イエス」と呼んでも、「僕イエス」とは呼びません。何故、ペトロはこのように呼ぶのでしょうか。明らかにイザヤ書52章12節以下の「苦難の僕の歌」を受けています。「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」。しかし、栄光を受けるべき主の僕は、人々から軽蔑され、見捨てられ、屠り場に引かれて行きました。イスラエルの民が待ち望んでいた主の僕こそ、僕イエスであると、ペトロは語ります。「僕」は仕える。僕イエスは主に仕え、私どもに仕えられた。仕えることにより、救いをもたらしました。
13b節「ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです」。神が遣わされた僕イエスを、あなたがたは引き渡し、拒んだ。「拒んだ」という言葉が繰り返されます。僕イエスを拒み、人殺しのバラバ・イエスを赦すよう要求した。神が遣わされた主の僕、あなたがたが待ち望んでいた主の僕を拒んだ。
(2)15節「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」。注目すべきは「命の導き手」です。「命の開拓者」「命の先達」「命の創始者」という意味です。僕イエスは真の命を開拓するために来られた。どこまでも身を低くして仕えられた。しかし、あなたがたは命への導き手であるイエスを殺してしまった。しかし、神は僕イエスを死者の中から復活させて下さった。わたしたちは、このことの証人です。再び、「私どもはキリストの復活の証人である」と強調します。私どもの言葉、存在、生活を通して、生けるキリストを証ししている。
16節「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」。注目すべきは「イエスの名」です。「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」を受けています。「名」は存在、命、人格を表します。イエスの名、イエスのいのちが、足の不自由な男を立ち上がらせ、歩かせたのです。教会は「イエスの名を信じる信仰」に生きます。説教も、祈りも、賛美も、洗礼も、聖餐も、牧師、長老、執事任職も、全てイエスの名によって行われます。教会はイエスの名によって立ち上がり、歩く主の群れです。
3.主のもとから慰めの時が訪れ
(1)17節「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています」。「あなたことをしてしまった」とは、僕イエスを十字架につけて殺してしまったことです。それは「無知」のためだった。主イエスが十字架で祈られた執り成しの祈りを想い起こします。「父よ、彼らを赦してください。自分では何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)。
18節「しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです」。神が遣わされた僕イエスを十字架につけて殺したのは、イスラエルの民でした。人間の罪が頂点に達しました。しかし同時に、それは神の御計画でもありました。全ての預言者の口を通して預言されていたメシアの苦しみを、神が成就なさったのです。
19節「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」。聖霊が注がれ、教会が誕生した日、ペトロは聖霊に満たされ説教をしました。御言葉を聴いた者たちは、心打たれ、「救われるためにはどうしたらよいのですか」と尋ねました。ペトロは答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(2・38)。その御言葉と対応するのが、この言葉です。洗礼式に語られた御言葉とも言われています。洗礼を受けることは、自分の罪が僕イエスの十字架の血によって消し去られ、悔い改めて、主に立ち帰ることです。
20節「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスをお遣わしくださったのです」。「慰めの時が訪れ」。素敵な言葉です。「救いの時」「安息の時」「憩いの時」です。主イエスの言葉を想い起こします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげよう」(マタイ11・28)。メシアであるイエスの到来こそ、慰めの時、安息の時。
(2)21節「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしたちのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることは、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる』」。ペトロが引用した御言葉は申命記18章15節の御言葉です。
24節「預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です」。あなたがたは「預言者の子孫」、「契約の子」。素敵な言葉です。「預言者の子孫」。神の御言葉に生きる者たち。「契約の子」。神がアブラハムと結ばれた「契約の子」「約束に生きる子」。その契約とは、「『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』、と神はアブラハムに言われました」。創世記12章3節のアブラハムの召命の御言葉です。神はアブラハムを通して、地上の全ての民を祝福されると約束された。
26節「それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした」。再び、イエスを「御自分の僕」と呼びます。神はアブラハムと結ばれた契約を成就するために、御自分の僕イエスをあなたがたに遣わされた。神の祝福に与らせるためです。先程見た申命記18章13~14節に、神の民が約束の地に入った時、先住民は卜者、占い師の言葉に生きていたが、あなたがたはひたすら主の言葉に生きなさい、と語られていました。占いの言葉は私どもを惑わします。しかし、主の御言葉は私どもに祝福を告げる言葉です。どんな苦しみ、悲しみの中にあっても、神の祝福が注がれている。その祝福をもたらすために僕イエスが神から遣わされたのです。ペトロの説教は旧約から新約に至る神の御意志、神の御業を明らかにする慰めの言葉です。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 3月12日の祈り イザヤ43・1~2
「愛しまつる在天の父よ、われらは感謝します。あなたは実に多くの光をわれらの心に与えてくださり、困窮と死から、闇の中から、あなたが救ってくださることを信じ、そのことをさまざまに経験することをゆるしてくださいます。闇のただなかにあっても心を守ってくださり、あなたがご自身をこの世に対しても明らかに示してくださる時に至るまで、誠実であることができるようにしてくださいます。声をひとつにして、そうです、在天の父よ、われらは感謝します。あなたはわれらすべてを解放してくださいました、と叫びうる時が来るようにしてくださるのです。アーメン」。