2025.3.19. 聖書研究・祈祷会
「教会の伝道物語を黙想する8~わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか与えられていない~」使徒言行録4章1~22節
1.ナザレの人イエス・キリストの名が男を立たせた
(1)教会が誕生して間もなく、教会の歩みを方向付ける出来事がおこりました。同時に、大きな波紋を呼ぶ出来事でした。生まれつき足の不自由な男が、ペトロとヨハネの言葉によって立ち上がり、神を賛美する人間とされました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。教会が語るべき言葉が与えられました。ところが、この出来事が大きな波紋を呼びました。
4章はこういう言葉から始まりました。「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数は五千人ほどになった」。一方でペトロとヨハネの言葉が、五千人の人々を信仰へと導きました。しかし他方で、ユダヤの信仰の指導者には躓きとなりました。一体、ペトロとヨハネのどの言葉に躓いたのでしょうか。ペトロがエルサレム神殿の境内で行った説教の中心は、この言葉です。
3章13節「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしましましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」。ペトロは同胞のユダヤ人に向かって語ります。私たちの先祖の神が、私たちに命への導き手である僕イエスを与えて下さったにもかかわらず、あなたがたはイエスを拒み、ピラトに引き渡し、十字架につけて殺した。しかし、神はこの方を死者の中から復活させて下さった。私たちはキリストの復活の証人である。十字架で殺されたイエスが、神によって復活された、キリストの復活の出来事に躓いたのです。
(2)5節「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった」。ユダヤの最高議会・サンヘドリンは、議員、長老、律法学者、大祭司によって構成されました。ペトロとヨハネは議会、法廷に立たされました。そこは数日前、主イエスが裁かれた法廷です。ペトロはその傍らで、三度、主イエスなど知らないと否認した場所です。そこにペトロは立たされたのです。感慨深い場所です。
7節「そして使徒たちを真ん中に立たせて」。ペトロとヨハネを「使徒たち」と呼んでいます。復活された主イエスによって遣わされた者たちです。キリストの復活の証人です。「『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」。裁判の中心がここにあります。「お前たちは何の権威によって、誰の名によって足の不自由な男を立たせたのか」。「イエスの名の権威」が中心です。3章6節、16節。
8節「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」。「使徒行伝」は「聖霊行伝」と呼ばれます。聖霊が主人公です。聖霊がペトロを強め、大胆に言葉を語らせます。三度、主イエスを否認し、逃げ去ったペトロが、聖霊によって大胆に御言葉を語る証人とされています。
「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」。法廷においても、ペトロは大胆に証言しました。「ナザレの人イエス・キリストの名が男を立たせた」。
2.わたしたちが救われるべき名は、この名のほか与えられていない
(1)ペトロの証言は、旧約聖書に根拠があります。11節「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」。最初の教会が重んじた御言葉です。主イエスも、ペトロも繰り返し引用しています。マタイ21・42,マルコ12・10,ルカ20・17,ペトロ一2・7。詩編118編22節の御言葉です。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」。ユダヤ人が神を礼拝する家を建てようとした。神は建築にとって大切な礎石イエスを贈られた。ところが、ユダヤ人はこんな石、役に立たないと言って、十字架目がけて捨ててしまった。しかし、神は捨てられた石イエスを、隅の親石として下さった。詩編118編の御言葉は、主イエスの十字架と復活の出来事を証言する御言葉として重んじられました。
12節「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。ペトロの証言・説教の中心です。10年前、北陸伝道大会が金沢教会で開催されました。その主日礼拝で、加藤常昭先生が説き明かされた御言葉です。「この名のほか救いはない」。金沢教会での最後の説教となりました。加藤先生が重んじた御言葉です。この御言葉こそが教会が語るべき福音。ここに立たないと、教会は伝道出来ない。求道者会でこの御言葉を語ると、求道者から反発を受けます「。浄土真宗では救われないのですか。キリスト教は傲慢なことを語っていませんか」。しかし、ここで語られていることは、「キリスト教の絶対性」ではなく、「主イエスの名の唯一性」です。主イエスの名によるほか、罪からの救いは得られない。「ほかのだれによっても、救いは得られない。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」。
カール・バルトという20世紀の最大の神学者が『教会教義学』という未完に終わった膨大な著書を書きました。晩年、この書物を通して書きたかったことは、このことだけだと証言されました。それは「イエス・キリストの名」です。ただ、イエス・キリストの名を賛美するためであった。
(2)13節「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な風通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった」。ペトロとヨハネはガリラヤの漁師出身です。無学な者たちです。しかし、大胆に証言する態度を見て、議員たちは皆、驚きました。「大胆に」という言葉は、使徒言行録が強調する言葉です。4章31節「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語り出した」。聖霊の働きと深く関わりがあります。聖霊によって与えられる恐れなく大胆さです。最高法院という法廷の場所で、無学な者たちが聖霊によって大胆にイエスの名を証言しました。
15節「そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。『あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう』。そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」。議員たちはペトロとヨハネの大胆な証言の前で、今後、イエスの名によって語らないよう訓戒することしか出来ませんでした。
19節「しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことは、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです』」。「神に従うが、あなたがた権力者に従うか。どちらが神の前に正しいことか」。これも使徒言行録の重要な主題です。5章29節「人間に従うよりも、神に従わなくてはありません」。歴史の中でいつも問われたことです。
21節「議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。このしるしによっていやしていただいた人は、40歳を過ぎていた」。議員たちは民衆を恐れて、ペトロとヨハネを更に脅してから釈放しました。議員たちは神のまなざしより、人のまなざしをいつも恐れています。民衆はペトロとヨハネのいやしの業、「ナザレ人イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」という大胆な御言葉により、足の不自由な男が立ち上がり、神を賛美する人間となったこと。そこに神の生ける御業、聖霊の生ける御業を見て、神を賛美していました。民衆の神への賛美、イエスの名の賛美が議員たちを恐れさせたのです。イエスの名を賛美する教会の誕生です。
3.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 3月19日の祈り ローマ9・26
「主よ、われらの神よ、われらは感謝します。あなたはわれらがあなたの子であると言ってくださいました。艱難と試練があっても、あなたに仕えることがゆるされている民だ、と言ってくださいました。イエス・キリストの恵みがわれらのうちにあり、人生がもたらすすべてのものを克服し、まことに多くの民を取りまく艱難に打ち勝つことを得させてください。主よ、われらの神よ、あなたは唯一の避け所です。まもなく悪に終止は打たれ、イエス・キリストの勝利は現われ、われらはみ民として歓呼し、よろこぶことができるのです。アーメン」。