1.二人は釈放されると仲間のところへ行き
(1)教会が誕生して間もなく、その後の歩みを方向付ける出来事が起こりました。エルサレム神殿の美しの門の前で、生まれつき足の不自由な物乞いしていた男に向かって、ペトロとヨハネがこう語りかけました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3・6)。この御言葉こそ、教会が語るべき説教の言葉、伝道の言葉となりました。男はイエス・キリストの名によって立ち上がり、神を賛美する人間となりました。ところが、神殿の境内で起こったこの出来事が、大きな波紋を呼ぶことになりました。ペトロとヨハネは捕らえられ、ユダヤの議会・法廷で弁明することとなりました。ペトロとヨハネはユダヤの法廷で、聖霊に満たされて大胆に証言しました。法廷での証言。これもまた、説教の言葉、伝道の言葉となりました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(4・12)。ペトロとヨハネはユダヤの議員から苦言を呈されて、釈放されました。「二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」(4・18)。
(2)今日の御言葉は4章23節から始まります。「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」。この御言葉は何気ない言葉ですが、とても大切なことを語っています。ペトロとヨハネが釈放されるやいなや、向かった先は教会の群れ・仲間のところでした。教会の群れはペトロとヨハネが拘束中、ずっと祈っていました。伝道者と信徒とが、どんな時にもどんなことがあっても、祈りにおいて一つとされています。教会は主をイエスの名によって賛美する群れであり、祈りの群れです。ここに今日の御言葉の主題があります。
ここで注目してほしいことがあります。教会に生きる群れを「仲間」と呼んでいます。既に2・41,47で語られていました。「主の仲間」です。素敵な呼び名です。私どもはイエスの名によって、仲間とされたのです。使徒言行録の特徴は、教会に生きる人々をどのように呼んでいるかです。「主の復活の証人」「兄弟たち」「仲間」「あなたの僕」「キリスト者」「主の道の者」。いずれも大切な信仰を言い表す呼び名です。釈放されたペトロとヨハネが戻るところ。それは教会、主の仲間のところ以外にはありません。教会、主の仲間も伝道者ペトロ、ヨハネが帰って来ることを祈りながら待ち続けています。
ペトロとヨハネは、祭司長や長老たちが言ったことを残らず話しました。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか(生まれつき足の不自由な男を立たせたのか)」(4・7)。「二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」(4・18)。しかし、ペトロとヨハネは答えました。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。民衆はこの出来事について神を賛美した。
2.祈りが終わると、皆、聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語り出した
(1)24節「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」。エルサレム神殿の境内で、ユダヤの議会・法廷で、聖霊の御業に触れた仲間たちは、心を一つにし、神に向かって声を上げました。声を上げて祈りました。祈りは心の中で祈ることもあります。しかし、声を上げて祈ることも大切です。
「主よ、あなたは天と地と海をと、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」。神に向かって、「主よ」と呼びかけています。天と地と海と、そこにある全てのものを造られた造り主を賛美しています。25節「あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました」。
祈りの中心は詩編2編です。祈りが祈りの言葉・詩編から生まれています。詩編2編はダビデの作です。しかし、聖霊がダビデの口を通して語られました。祈りの主体は聖霊です。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」。詩編2編1~2節の御言葉です。「王の即位の歌」と呼ばれています。最初の教会が大切にしていたメシア詩編です。旧約では「主の油そそがれた方」とあります。「メシア」という言葉です。主が王を選び、立てられる時、頭に油を注ぎました。「油注がれた方」。それがやがて来る救い主・メシアを表すようになりました。
27節「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油注がれた聖なる僕イエスに逆らいました」。ユダヤ人の王ヘロデ、ローマの総督ポンティオ・ピラト。二人の権力者は異邦人やイスラエルの民と一緒になって、主が油注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。注目してほしいのは、イエスの名、呼び名です。「主が油注がれた聖なる僕イエス」。とても丁寧な呼び方をしています。イエスの名を、主が選ばれ、油注がれた方。イエスこそ主によってメシアとして立てられた方です。「油注がれた方」。主イエスがヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、天から声がありました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1・11)。詩編2編7節の御言葉です。
更に注目すべきは、イエスの名を「聖なる僕イエス」と呼んでいます。4・13のペトロの説教で呼ばれていました。イザヤ書52章13節~53章の「主の僕の歌」が基にある呼び名です。また、主イエスが最後の晩餐の席で、身をかがめて弟子たちの足を洗われ、語られました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13・14)。十字架の死に至るまで身を低くされ、私どもに仕えられた「聖なる僕イエス」。そこでこそ愛を体現されました。
(2)28節「そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」。あなたがたが逆らい、十字架で殺した油注がれた聖なるイエスに、しかし、主は御手と御心によってあらかじめ定められた救いの御業、甦りの御業を全て行われたのです。
29節「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」。祈りの中で、再び「主よ」と呼びかけています。「彼らの脅し」とは、ユダヤの権力者がペトロとヨハネに、イエスの名によって語ることをするなと脅したことです。この世は主の群れに、イエスの名によって語るなと脅します。しかし、主の群れは祈ります。「あなたの僕たちが」。自分たちのことを「あなたの僕」と呼んでいます。主イエスが「聖なる僕」と呼ばれたことと対応しています。主イエスが十字架の死に至るまで身を低くして仕えられたように、主の群れも「あなたの僕」として、主に仕えて行くのです。主に仕える具体的なことは、イエスの名によって御言葉を語ることです。御言葉を語ることを止めたら、イエスの名を伝道することが出来ないからです。主の復活の証人の証言がイエスの名により語り、伝道することです。それは伝道者だけでなく、主の群れに属する全ての信徒にも託された御業です。
説教、伝道も祈りから始まります。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉が語ることができるようにしてください」。「大胆に」。聖霊の御業です。ユダヤの法廷で、ペトロが聖霊によって大胆に、イエスの名を証言しました。4・13.無学で普通の人であるペトロは、聖霊に満たされて大胆にイエスの名を証言しました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。
30節「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。「聖なる僕イエスの名」によって大胆に御言葉を語ることと、いやしの業とが一つにされています。
31節「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。聖霊に満たされた時、一同の集まっていた場所が揺れ動きました。聖霊が生きて働かれていることが明らかにされました。聖霊に満たされた時、伝道者も信徒も、大胆に神の言葉を語り出しました。生まれたばかりの小さな主の群れが、この世界に向かって、聖霊に満たされて神の言葉を語り出しました。ここに教会がこの世に存在する主から託された使命があります。
3.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 3月26日の祈り ペトロ二3・9
「愛しまつる在天の父よ、われらは心から感謝します。あなたはわれらに約束の持ついのちを与えてくださいました。われらはわれらのすべての信仰を、約束によって常にくりかえし光あるものとすることがゆるされます。約束はまことに大いなることを約束し、それがついに現われて、全世界に打ち勝ち、すべての人間に救いをもたらし、すべての民を通じて父というあなたの名がたたえられるようになるのです。困窮や艱難にぶつかっているときも、われらひとりびとりを強めてください。病める者や、誘惑にあっている者を強め、約束を待望せしめ、ついには助けが与えられるのだということを見させてください。主なる神よ、み名がわれらの間にあって崇められますように。み国が来ますように。み心が天に行なわれるとおり、地にも行なわれますように!アーメン」