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2024年10月30日

「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」

ローマの信徒への手紙14章1~12

矢澤美佐子

苦しむ人に語りかける言葉―伝道の言葉

キリスト教病院(グリーフケア)では、病気や震災で、今、まさに目の前で苦しんでいる人、残りの命が限られている人に慰めを語らなくてはいけません。そういう場所で、救いを伝える人たちの言葉は、非常に繊細で磨かれていると感じます。伝道において声のかけかたを工夫する、神様の伝え方を工夫することは大切なことです。

被災地では、崩れた家、押しつぶされた車がまだあちらこちらにありました。多くの方が、疲れ果てているのに、笑顔でこの時を乗り越えようとしておられました。大きな困難が襲って来た時、無我夢中で助け合い、自分でも驚くほどの大きなエネルギーを発揮します。けれど、また静かな日常が訪れた時、心が深く傷つき疲れ果てていることに気づきます。生きる意欲が失われてしまうこともあります。能登の被災地で神様への礼拝を一緒に捧げ、苦しみに寄り添うことで、心の荷物が少しでも軽くなってくれればと思います。金沢教会も、クリスマス、年末、年始へと向かうこの時に、被災地の人たちのことを祈って参りたいと思います。

宗教改革記念日―信仰によって救われる

ルターは、1517年10月31日、ヴィッテンベルク城の教会の扉に『九十五ヶ条の論題』を打ち付けました。そして、「神様を信じる信仰によって救われる」と説いたのです。これは、新しい教えを語ったのではありませんでした。キリストに帰ろうと訴えかけたのです。

「死を迎えた時、私たちの存在はどうなるのか」あまりに深刻な問いだけに、神様を知る前は、友人にも親にも簡単に口にできなかったのではないでしょうか。私たちのあまりにも、もろい部分を軽く扱われたら深く傷ついてしまいます。はっきりした答えが分からないまま生きている。金沢教会の求道者、高校生が今そういう状態の中で生きていらっしゃるのです。信仰者も、この問いに震えているという方もいらっしゃると思います。「死んだらどこへ行くの」魂の旅、信仰の旅を生き始めていらっしゃる方に語りかける言葉、寄り添える言葉を持っていたいと思うのです。

ルターは、農家の貧しい家庭で育ちました。ある日、ルターは激しい雷に「死ぬかも知れない」と言う死の恐怖を味わいます。「あー私は、生かされている」。ルターは、神様に生涯をお捧げすることになったのです。

 14世紀にペストが大流行し、その後も世の中は、死の恐怖に怯えていました。その頃、教会では、贖宥状(免罪符)を売り出しました。贖宥状が販売され始めたのは11世紀ごろで、教会の収入源として機能していました。1514年にサン・ピエトロ大聖堂の改築費用を調達するために、贖宥状は、大規模に販売されていきます。免罪符を買うと、天国へ行ける。死の恐怖に怯えていた人々は、こぞって贖宥状を買いました。しかし、貧しくお金がない人は買うことができません。私たちの能力しだい、条件をクリアした人が認められ、天国へ入ることができると信じられていました。

 これ対してルターは「違う」と訴えたのです。主イエス・キリストが、貧しい人にも、弱くなっている人にも、病気の人にも、罪を犯した人にも、全ての人が救われるようにと命をお捧げになられたから。私たちの正しさでも、私たちの力でもない。ルターは訴えます。キリストに帰ろう、キリストに帰ろう。ルターは神様に動かされたのです。

誰が何と言おうと私はあなたを愛し続ける

自分は、何か立派でないと、条件を満たしていないと、人から愛されないのではと思うことがあると思います。そして、神様に対しても同じように感じてしまうのです。神様に認めてもらわないと、立派でないと愛されない、救ってもらえない。神様はおっしゃいます。「あなたを、どんなことがあっても愛し抜くと決めたのだ。あなたが、どんな風に働くのか、どんな性格であり、どんな業績を残すか。そのようなことが分かる前から、天地創造の前から、私は、あなたを愛し続けると決めたのだ」命をかけて救って下さる主イエスにお応えして、成長途中の欠けの多い、失敗だらけの私たちですが、その私たちを、愛し続けて下さる主がおられます。そして、誰が何と言おうと、あなたがいる世界は美しいと言って下さるのです。だから、生きてほしいと語りかけてくだるのです。

ハイデルベルグ信仰問答の問1と答え

14:8「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」

 ハイデルベルグ信仰問答の問1「生きている時も死ぬ時もあなたのただ一つの慰めは何ですか?」 答「私が身も魂も、生きている時も死ぬ時も、私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものであることです。

 私たちは、この世で様々な苦しみに出会います。心ない言葉で傷つけられること、蔑まれることもあります。人間の心の傷は、癒えるまでに長い時間がかかると言われています。ですから、身を切られるような苦しみを負った時、そのようなことをした相手に、同じような苦しみを負わせたくなります。不誠実をされたなら、不誠実を返したくなります。それが私たち人間です。そして、ハイデルベルグ問1では、神様は真実なお方と言われます。神様が真実な救い主であられるということは、一体どういうことでしょうか。

 それは、たとえ、私たちが不誠実であっても、神様は、それを言い訳に、私たちに対して不誠実になることはできないと言うことです。主イエスが、命をかけて私たちを救ってくださっているにも関わらず、主イエスの命を軽んじて生きている時も、神はそれを言い訳に、不誠実になることができないということです。

傷つけられても、忍耐し続けられるのです。「愛する我が子を十字架の死に渡し、これでも分かってくれないのか、あなたは滅んでならない、死んではならないと命がけで救っているのに。私は、これほどあなたを愛している」

 大住雄一先生「信仰告白をして、神学校へ行ってからも、委ねられているのか、その問題に悩んでいた」

松永希久夫先生「委ねきれているかどうか。そういう実感も、神様が必要な時に与えて下さる」

 自分が委ねきっているかどうかさえ、言うことのできない者になる。神様が判断してくださる。

私たちの信仰は、主イエスが見出してくださり、思いがけず褒めて下さるようなもの

ルカ8:48「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」私たちの信仰は、主イエスが「あなたの信仰が、あなたを救った」と言ってくださったから信仰になるようなものです。

マルコ14:3「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」主イエスは、この女性は私の葬りの準備をしてくれた。それは記念されるだろうとおっしゃいました。この女性は、自分がそんな素晴らしいことをしたということを知らないのです。ただ、主イエスがそうおしゃってくださった。私たちの信仰は、主イエスが見出してくださり、思いがけず褒めて下さるようなものなのです。

主イエスが判断されるのだから、人から信仰者として相応しい、相応しくないと言われても関係ないと開き直るというのでもありません。大事なことは、キリストがおっしゃってくださることにお委ねして、これでいいでしょうか?と問いながら生き続けているということです。

伝道―喜びと同時に畏れを感じる

礼拝説教にお礼状が届くことがあります。「苦難の中で主が共にいてくださることが分かりました」「説教を聴いて、教会の帰りに人に親切にすることができました」そんな時、私は、おっちょこちょいなので「やった、やった」と思ってしまいます。そして、感謝の祈りを捧げていると、喜びと同時に畏れを感じて来たのです。私の力ではなく、神様が働いてくださっていたから。

私たちが語る言葉。説教の言葉、伝道の言葉、人を教会へ招く時の言葉は、自分が意図したようには聞かれません。人間として足りない者であっても、神様が用いて下さるということを信じて語っていきます。そして、私たちは、自分の思い以上に神様が語って下さっていた、神様が伝道して下さっていたという恵みを経験します。

けれど、それを神様が働いて下さるから、神様が語って下さるから、と怠慢の言い訳に使ってはいけないと自分に言い聞かせてきました。伝道は、喜びと同時に畏れを感じます。神様がここに本当に生きて働いて下さっていると知るからです。それは大きな恵みです。

人の信仰ついて裁いてはいけないと聖書は語ります

 キリストによってしっかり立つ強い人。弱い所にキリストが入って来てくださる。今は、弱いままでいさせてほしい。そういう時もあるでしょう。ここで言われている強い人も、弱い人も信仰はあるのです。お互いが裁きあっているとパウロは言います。何が問題なのでしょうか?

強い人も弱い人も、自分の枠で信仰をとらえているのです。それぞれが「信仰とはこういうものだ、信仰者はこうでなければならない」と考えています。その点が問題ですよとパウロは言うのです。「耳障りの良い話しを求める」(テモテ二4:3)と言います。これは「信仰とはこうあるべき」という自分の枠に当てはまる話しを求めているということです。

 しかし、信仰とはなんでしょう?信じて救われるとはどういうことでしょうか?自分が救われるに足る信仰があるかどうか、自分の手の中にはないということです。「誇る者は主を誇れ」(コリント一1:31)。私たちは自分の信仰を誇るのではありません。不信な者をもお救いになる、主を誇るのです。

主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」そう言ってくださる。私の判断でなく、人の判断でもなく、主イエスが判断なさるのです。もちろん主がなさる判断を、教会が見極めなければなりません。主は教会に対して「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ18:18)と仰せになりました。

 けれども、主イエスの前に、自分の考える信仰というのは、繰り返し打ち砕かれ、正されていきます。私たちは、自分の枠に周りの人を押し込めて、それでようやく安心するという面があります。しかし主は、その私たちを、生涯を通して、繰り返し正して下さいます。正しいのは主のみであられます。ですから、他の人の信仰を、私の信仰をもって裁くことはできないとパウロは言うのです。それをなさるのは主ご自身だからです。

痛みを伴う愛で待っていて下さる

私たちは辛い事があって、教会へ帰る時には、足取り重くトボトボ帰ることもあるでしょう。そんな私たちを神様は、一人一人を待ちわびて、小さな影が見えたなら胸の高鳴りが聞こえてくるほど一生懸命、走り寄って迎えてくださる。

神様は、教会へ戻って来る私たちを、何となく待っているわけではありません。愛する独り子イエス・キリストを十字架の上に犠牲にし、神の御子が血を流される痛みの中で、私たちを愛し、帰りを待っていて下さるのです。

これは痛みを伴う愛です。「あなたのために神の御子が身代わりに死んだ。あなたは赦されたんだから、早く帰って来ればいい」そう仰せになるのです。これは、全くわたしたちの力ではありません。神の御子が命を捧げて下さったから私たちは赦されたのです。神様は、毎週、教会に帰って来る私たち一人一人を待ちわびて、一生懸命、走り寄って迎えてくださっています。これが私たちの神様です。この神様と共に生きていくことで、私たちの信仰は、生き方が変わっていきます。劇的に変わる時もあるかもしれません。聖書の言葉を1ミリ受け入れ、1ミリ変わる。そんな風にゆっくりでいい。そう言われたら、安心して、大きく変わることもあるでしょう。神様の愛の中で、教会全体の救いを目指して、お互いの幸せを祈り願いながら、神様の国へ向かって歩んでいきたいと思います。

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