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2025年4月23日

「裁くのではなく、愛の配慮を」

ローマの信徒への手紙14章13~23節

矢澤美佐子

  この当時のキリスト者の間には、ユダヤ人の戒律(食べ物や安息日など)を守るべきかどうかで意見が分かれていました。「強い人」と言うのは、キリストによって戒律から自由にされた人でした。一方で「弱い人」と言うのは、まだ過去の生き方から自由になることができないでいた人のことです。レビ記11章は、食べてよい動物と、食べてはならない「汚れた」動物について詳細に語られています。旧約の律法では、神に選ばれた民は「清さ」を保つべき存在とされていたため、食べ物も厳格に区別されていました。しかし、新約の時代に入り、主イエスによって律法の本質が成就され、外側の食物ではなく、心の中の信仰こそが大切だとされたのです。(マルコ7:15) 過去に縛られている人、過去に縛られていない人。パウロは、お互いが相手の「信仰」に対して裁き合うのではなく、愛の配慮をもって歩んでほしいと語っているのです。

 当時のユダヤ人キリスト者は、自分が神の御前で、律法を守り、相応しい行いができているから救われるに値するのだと考えがちでした。そして、周囲からは、近づきにくい程に、過去の律法を守り、厳格に生きているキリスト者。律法を厳格に守る姿は、周囲の人から尊敬される「強い人」と呼ばれる人たちです。しかし、パウロは「弱い人」と呼んだのです。

 パウロは、「私たちはキリストを信じる信仰によって救われる」いつもここに立ち帰ることを語り続けて来ました。

私たちが救われるのは、「私たちが、自分の中に、何か救われるに相応しい行い、相応しい信仰があるからでしょうか」私たちは、本当に神様の御前で胸を張って出ることができるでしょうか?信仰を得て、信仰が成熟しても、やはり神の光に余すところなく、全て照らし出されてしまうと、自分の中に救われる相応しさはない、と言わざるを得ません。私たちが救われるのは、自分の力で罪を克服できたからではありません。自分の力では、どうすることもできない、罪人の私たちを、神の御子が命を捧げてくださったからです。そして、救われた者が、互いに祈り合い、助け合う生き方が、新しく始まっています。しかし、罪があり、失敗があり、間違いがあります。ですから、終わりの日に、やはり神の御前に自分の力で、自分の相応しさで救われるとは言えないのです。

この地上での私たちの振る舞い、生き方を見て、怒りと愛の間で、裁きと赦しの間で、引き裂かれる父なる神様がおられます。その間に主イエスが入ってくださり、命を捧げ、父なる神と私たちの間に、和解をもたらしてくださるのです。神様の怒りが静められるのです。私たちの相応しさ、正しさでなく、主イエスの犠牲です。ですから、常に「キリストに帰ろう」とパウロは、訴えます。

 

〇過去の戒律から解放され、自由を楽しむことができる人。

〇主イエス・キリストに救われたことを信じ、感謝しているけれど、昔からの生活を変えられない人。

自由を楽しめない人たちを、あの人たちをまだ、キリストの信仰が分かっていないと蔑む。逆に、律法を重んじ、特定の食べ物を食べない、厳しく生きる人は、自由な人を裁き始める。キリストに救われた者同士が一つになることが、できなくなっていたのです。

そこで、パウロは14章で、自由を楽しむ「強い人」に告げます。「あなたたちは、自分たちが自由になれた。縛り付ける物から自由になれた。だから、信仰者として、私たちの方が相応しい。だから、救われていると思っていないですか。そうではないですよ。主イエスが命を捧げて下さったから、救われたのです。キリストのお陰で、自由へと導かれたのです。順序が逆になってはいけません。救いが先。キリストの犠牲が先ですよ」

キリストは、自由な人のために、十字架にかかったのではなく、自由になれない人のためにも十字架におかかりになった。

「弱い人」にも言います。あなたたちは、聖い物を食べ、汚れている物を食べないから救われるのではない。戒律を重んじ、特定の日を重んじるから救われるのではない。主イエスが、十字架に命を捧げてくださったから。お互いに裁き合ってはいけません。

そして、弱い人たちは、色々な昔の生活習慣から離れられず、悪いことが起こるのではないか、と恐怖を感じています。復活があるから、死を怖がらないていい。なかなかそういう風に思うことができない。だから、パウロは言います。こういう時には、犠牲を払うのは「強い人」です。「強い人」-自由になれている自分の信仰を誇らないで、新しい生き方にまだ慣れず、自由になれずに苦しんでいる人を、見捨てることなくお救いになる、主イエスを誇りましょう。そうパウロは告げるのです。

 

13~15節「裁くのではなく、愛の配慮を」

私たちは、裁き合うのではなく、「兄弟姉妹がつまずかないように」気をつけて、愛の配慮をしましょう、とパウロは語ります。

〇ある教会に通う年配の女性の証し

「信仰の違い、考え方の違い、礼拝の形や奉仕のやり方……ほんの些細なことで、誰かの言葉や態度が胸に引っかかってしまうのです。そんなある日、信仰を持ってまだ間もない若い女性が、緊張した面持ちでしたので、礼拝後に他愛もない話しをしまた。教会がまだ少し緊張するという彼女のそばにいて、仲間を紹介したり、悩みを聴いてあげたりしました。私も疲れている時は、正直「ちょっと大変だな」と思うこともありました。でも、手作りのごはんを出すとモリモリと食べてくれて、その笑顔に、私の方が救われていたのです。そんな彼女が、ある時病気になり遠くへ引っ越すことになりました。見送った後、ぽっかりと穴があいたように寂しくなりました。「私が支えてあげていた。そうではなく、支えられていたのは、私の方だった」。寛容の信仰、赦しの広さが育てられていた。あの子がいたから、私は優しくなれた。

〇キリスト教病院のチャプレンの先生の証し。

病室を訪ねて聖書の話をしても、ある患者さんはどこか無関心。先生は自信をなくしました。けれど、患者さんは言いました。「先生が来てくれると嬉しいんです」先生がそこに「いる」ことが深い慰めだったのです。やがて、その患者さんが、神様の国へ帰る時が近づいてきました。「私はもう頭が働かなくて、先生が何を話しているのか分からない。けれど、先生の背後には、神様がおられる。それを信じることができたんです。」 残された先生は、その方とのお別れに力を失いました。「私が支えていたつもりだった。でも、本当は、私の方が支えられていたのだわ」。もう仕事を辞めようかとさえ思ったそうです。支えていたと思っていた存在に、実は支えられていた。神様のなさる、静かで確かな愛の業です。

 

信仰が「ある」か「ない」かを、自分の基準で裁かない

私たちはどうしても、「信仰とはこうあるべきだ」と、自分の中の枠組みを他人に当てはめがちです。その結果、神様の御手が働きが見えなくなり、相手の歩調に合わせられず、裁き合ってしまうのです。

マルコによる福音書14:3 主イエスがナルドの香油の入った壺を砕いて、香油を注いだ女性に対して、褒められました。この女性は、自分がそんな素晴らしいことをしたんだということを知らないのです。ただ、主イエスがそうおしゃってくださった。私たちが信仰者であるということはそういうことです。

 「あなたの信仰があなたを救った。安心して生きなさい」(マルコ5:25~) もしかしたら信仰なんてないかもしれない。そして、ただ主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」そう言ってくださる。私の判断でなく、人の判断でもなく、主が判断なさるのです。しかし、主がなさる判断を、教会が見極めなければならない時もあります。(マタイ18:18。34頁)主は、私たちを生涯を通して繰り返し、静かに、力強く正して下さるのです。そして、正しいのは主のみであられます。さらに、主は、決して私たちを見放されません。信仰が不完全であっても、主の愛は完全です。「あなたは滅んではならない」と命を捨ててまで救ってくださるのです。

 

内村鑑三『ロマ書研究」:「神は軽々しく罪あるものをゆるしえない。もし罪人を無条件でゆるすならば、神の権威は失われる。また、もし軽々しく罪人をゆるすならば、人はかえって罪の楽しみにふけって、かえって不幸に陥ろう。また、罪を罰するとなると、全人類を破滅に導く。この両方とも、神の愛はしのびえないところである。この「うめき」の中で神のとられたという手段が、自らの独り子を十字架にかける手段だったのである。この他に、人類を救う道はなかったのである」

 神様が、私たちの背き、私たちの罪。神を傷つけ、人を傷つけてきた罪。その全ての罪に、神様の側から復讐してこられたなら、私たちは一体どうなってしまうでしょうか。この私たちは、滅ぼし尽くされて当然でしょう。しかし、神様は、復讐されるどころから、愛し抜くとうめきの中で決断して下さったのです。そして、神の御子が、十字架にかかり、命を捨てられたのです。

 

「救われた者の具体的な生活」再び、律法で縛られる生活ではない。

相応しい生活をしましょう。その相応しい生活を、福音とは別に語っているのではなくて、まさに福音と言うのはこういう生活なんですよ、と言うことを語っています。再び律法で縛るのではなく、喜ばしい訪れそのものを語っているのです。

一緒に救われた者を、仲間として受け入れ合いなさい。(ローマ13章)ただ悪に対して、悪を持って報いないで、善をもって報いなさい。皇帝に従いなさい。それは、キリスト者であることを皇帝の前では、やめなさい、と言っているのではありません。政治、権力も神の裁きの御手のうちにあるのです。神の力も及ばないものではないのです。そのようにして、具体的な国における生活を教えていました。

☆そしてパウロは、最後に具体的なことを1つだけ言うのです。「救いのためにどっちでもいいことを人に課してはならない」。互いに裁き合ってはならない。お互いを、救いから排除し合ってはいけない。あなたたちが正しいと言っていることが、救いそのものに何も関係がないなら、そのために兄弟姉妹を排除してはいけない。私たちはキリストの身体なのです。

キリスト者となった者が、再び、律法に縛られた息苦しい生活をするようにと勧められているのではありません。例えば、12章「愛には偽りがあってはならない」という命令です。息苦しく感じるかもしれません。

しかし、「あなたの愛は偽りがないものだ」という愛の本質が示されているのです。特に、十戒が語られているヘブライ語の「命令」は、そもそもの「本質」を示しているという特徴があります。あなたは、偽りのない愛を持っているものなのだよ。「命令」は、本来あるべき姿、「本質」が示されている。日本語では、親が子に「困っている人がいたら親切にするものなんだよ」と言う言い方があります。今日の箇所も同じです。「あなたの愛には偽りがないものなんだよ」と言っています。

 

私たちが、愛を実現していくことができるのは、偽りのないキリストの愛に愛されているから

私たちは、今もう、偽りのない愛の中にいます。神様の偽りのない愛の中に、私たちはいるのです。神様から偽りのない愛で愛されている。愛を忘れたら、愛を失ったなら、愛することができなくなったら、「それでも愛しなさい」と厳しく迫られているのではない。繰り返しキリストに帰ればいい。キリストに帰り、そうして、キリストのまっすぐな愛、偽りのない愛に、愛され続ければいい。そうして、癒され、似た者になっていくのです。

キリストの力が、神様の力が働いて、神様の御力によって、変えられていくのです。自分の力ではない。神様の力によって変わって行きます。これが福音です。 キリスト者になったら、偽りの愛で愛し合わなければならないという、出来ないような厳しい律法で、息苦しく生きるのではありません。キリスト者になったら、このように私たちは造り替えられているのですよ、という福音です。私たち自分の力では無理です。キリストが働いて下さるから、繰り返しキリストの愛に帰るのです。

 

私たちは、キリストの贖いによって、新しく造り替えられている

 芳賀力先生(東京神学大学)

「私たちはすでにキリストの贖罪の業により、義と認められ、新しい人間とされています。しかし、実質的にまだ私たちはその新しい人間に十分対応していません。聖霊の力に与って新しい自分へと対応してゆくプロセス、それが聖化の時間的道程です。罪が残存しているという言い方より、新しい人間への対応が未達であると表現する方が適切ではないかと思います」

 「もともと人間は聖く汚れのない心を持った、素晴らしい存在として造られていたのです。私たちは今、罪に汚され、純粋な聖い心がもてなくなっています。けれど、最終的には純粋で聖らかな者にするという神様の夢が、一人一人に込められているのです。」

 

今は、まだ欠けた所があっていい。自分は欠けた者だから、教会が必要となった。助け合う者になった。

 皆で一緒に生きている私たちですが、一人一人は、欠けた所があります。一人ひとりは、愛することにおいて欠けた者です。パウロは語るのです。欠けた者同士が、補い合い、助け合い、支え合う存在になりました。

 

こういう物語があります。

ある村に住む二人の兄弟の話。父から受け継いだ麦畑を耕し、収穫を分け合って暮らす彼ら。

ある夜、兄は思いました。「弟は一人で寂しく生きている。将来の不安もあるだろう。少しでも多く分けてやりたい。」そうして、自分の分の麦をこっそり弟の倉へ運びました。

一方、弟も考えていました。「兄には家族がある。子どもを育てるには何かとお金もかかる。兄の方が多く必要だ。」彼もまた、そっと自分の麦を兄の倉へ運びました。

そうして何日も、互いを想って麦を運び合った末、ある晩、二人は倉の途中で出会います。そしてすべてを悟り、麦束を抱えたまま、静かに涙を流し、抱き合ったのです。

 

この物語のように、教会での愛も育まれていきます。教会とは、イエス様の愛を受け取った人々が、今度は他の人へ、そっと愛を運ぶ場所です。誰かがひそかに祈ってくれている。誰かが気づかぬうちに椅子を整えてくれている。誰かが、涙を受けとめてくれている。そのすべてに、イエス様の愛が流れています。

そして、私たちは、倉の途中で、誰かに出会うのです。互いを思って差し出していた愛に、ふと気づくその瞬間があります。そこに、あたたかな抱擁のような、祝福の交わりがあります。そして、その中心には、いつもイエス様がともにおられます。イエス様は、私たちが、誰かを愛そうとする時、奉仕をしようとする時、静かに寄り添って下さっています。教会は、愛が巡る場所です。

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