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2025年4月18日

「間違いを超えて」

マタイによる福音書26~27章

矢澤美佐子

受難日祈祷会

①   信仰の目で見る「今」― 若者たちの葛藤と祈り―

先日、受験を乗り越え、新たな道へと歩み出す若者たちの送別会を行いました。ある青年がこう語ってくれました。「とても苦しい一年でした。けれど、その中で改めて神様の存在の大きさと、教会の愛のあたたかさに気づきました。だからこそ、苦しかったけれど、良い一年だった。教会が好きです」と。

その言葉は、私たちの信仰にも新鮮な息吹を与えてくれました。まだ教会に来たばかりの青年も、「これから教会生活を大切に続けたい」と語ってくださいました。

ある青年は、受験勉強の中でも礼拝に出席したいと願いました。しかし親は反対します。「成績が落ちたら怒られるから」と涙ながらに話してくれました。礼拝に出席したいけれど親から支援を受けている身。礼拝出席をなかなか許してもらえない心の葛藤の中で、青年は神様を大切にし続けていました。

先日は、参加できる青年たちと富来伝道所の礼拝、被災地へ行き、心から祈りを捧げました。そして皆で星空を見て、共に過ごす予定でした。しかし、空は雨でした。傘を分け合い、ひび割れた道を手を繋いで歩きました。小さなライトで足元を照らすと、壊れた道の隙間に小さな草花が咲いているのに気づきます。これが信仰の目で見る世界だと胸が熱くなりました。壊れた道にも神様は命を咲かせてくださる。暗い夜道でも、神様の光に照らされれば、今という時が、美しく、あたたかい時間に見えます。

そんな時、一人の青年が歌いました。歌は「まばたき」。「幸せとは、星が降る夜と 眩しい朝が繰り返すようなものじゃなく、大切な人に降りかかった雨に傘をさせること」

教会は、成功や喜びを報告する場所だけではなく、失敗も、間違いも、涙も受け止めてあげられる場所でありたいと思います。

「いじめられていた時、教会だけが逃げ場でした」と話してくれた人がいました。家族の中で一人だけ信仰を持つ寂しさを抱えている人もいます。まだ信仰はないけれど、人を傷つけてしまった夜、「神様ごめんなさい」と布団をかぶって泣いた人もいます。辛い時なのに笑顔を作ってしまう人もいます。限界なのに誰にも言えない。仕事で精一杯、毎日頭を下げながらギリギリで生きている人もいます。

病気が再発して、学校に行けなくなった青年がこう言いました。「幸せとは、星が降る夜と、眩しい朝が繰り返すようなものじゃなく、大切な人に降りかかった雨に傘をさせること。教会のみんなが、祈りの傘をさして守ってくれるから、きっと大丈夫」。


②   神様と共に歩む「いい人生」― 主と共にある価値ある歩み ―

「神様と一緒に、いい人生にしよう」と声をかけます。それは、自分の思い描く人生ではなく、神様の眼差しから見た「いい人生」です。自分の思い通りにならない人生。しかし、主と共に歩む人生の方が、はるかに価値があります。十字架にかかってくださったイエス様が、私たちと共にいてくださいます。罪も、痛みも、失敗も、すべてを負ってくださる愛の中で、私たちは歩いています。神様のご計画は、私たちの想像を遥かに超えた、大きな祝福へと続いています。


③    誤解された救い主― 人々が期待したメシアと主イエスの姿 ―

受難日の金曜日を迎えています。主イエス・キリストが十字架にかかられたこの日、私たちはその御苦しみを静かに思い起こし、心に刻みたいと願います。

2000年前、ローマ帝国の支配下にあったイスラエルでは、多くの人々が抑圧され、不正や苦しみの中で生きていました。弟子たちを含め、多くの人々は、そのような世の中を力強く変える「メシア」、すなわち真の救い主を待ち望んでいました。ローマの権力を打ち倒し、圧倒的な力をもって神の正義を打ち立てる救世主を期待していたのです。

しかし、主イエスの姿は人々の思い描いた「力のメシア」とはかけ離れていました。主イエスは王冠をかぶることなく、王座に座ることもなく、私たちと同じ地に足をつけ、貧しい人々、病に苦しむ人、罪に悩む者のそばに寄り添い、小さな業をひとつひとつ丁寧に行われました。力強い奇跡や革命ではなく、「貧しい者は幸いである」と語り、小さな命に心を砕かれました。

弟子たちは、最初は尊敬の念を持って主に従いましたが、次第に「これで良いのか」と心が揺れ動きます。いつまでも地方の片隅で小さな癒しや愛の教えを続ける主イエスに、焦りと失望を感じる者もいました。彼らが望んでいたのは、目に見える大きな勝利だったのです。

マタイによる福音書は、イエスの救いが決して目立つものではなく、一人ひとりに向き合う愛であることを語ります。主イエスは人々の期待する「英雄」ではなく、十字架の道を選ばれたのです。


④   最後の晩餐― 主イエスの愛と私たちの裏切り ―

木曜日、主イエスは弟子たちと最後の晩餐の席につきます。食事の用意が整った部屋で、主は静かに水を注ぎ、弟子たちの足を洗われました。愛をもって、一人ひとりを見つめる主イエス。しかしその中でユダだけは、挑むような目つきで主イエスを見返していました。「あなたがたのうちの一人が、私を裏切ろうとしている」

この言葉に弟子たちは凍りつきます。そしてユダは、主イエスのもとを離れ、闇へと消えて行ったのです。


⑤   ゲッセマネの祈り― 震える神の御子 ―

その夜、主はゲッセマネの園で祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。その祈りは、恐れや葛藤、悲しみを包み隠さない、深く人間的な祈りでした。主イエスは神の御子でありながら、私たちのすべての苦しみや弱さを、共に負われたのです。


⑥   主の十字架と私たちの罪― これほどあなたを愛する者は他にはいない ―

やがて兵士たちが現れ、ユダが接吻をもって裏切りの合図をします。主イエスは捕らえられ、弟子たちは恐れて逃げ去ります。主イエスは一人、大祭司の前に連れていかれ、人々からの罵倒、鞭打ち、嘲りを受けられます。主イエスは、総督ピラトの前にも立たれますが、何も弁明されませんでした。その沈黙を不思議に思ったピラトも、「この人に、どんな悪事があるのか」と尋ねましたが、群衆の「十字架につけろ!」の叫びに押し切られ、主イエスは死刑の判決を受けます。

茨の冠をかぶせられ、激しく鞭打たれ、主イエスは十字架を背負ってゴルゴタの丘へと歩かされました。そして、両手両足に釘を打たれ、十字架の上にかけられます。

十字架は、ローマ帝国が反逆者を見せしめに処刑する最も残酷な方法でした。ゆっくりと死が訪れるその苦しみの中で、主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

主イエスは、神に捨てられるほどの孤独と痛みの中で、私たちの罪を一身に背負われます。これは、ただの物語ではありません。私たちの罪を、どこまでも真実に受け止められた神の行動なのです。父なる神は、罪の中で滅びに向かう私たちを放っておくことができませんでした。そして驚くべき救いを実行されたのです。それは、ご自身の愛する独り子を死にわたし犠牲にして、私たちを救うという、命を捧げた救いだったのです。

「あなたを赦すために、私は愛する我が子を十字架につけた。これほどまでにあなたを愛する者が、他にあるだろうか」神は今も、私たち一人ひとりにそのように語ってくださっています。

私たちは、ときに主イエスを裏切るユダのようであり、逃げてしまった弟子たちのようであり、また「十字架につけろ」と叫ぶ群衆のようです。自分の思い通りにならない主イエスを拒絶し、目の前から消そうとする者でもあります。主イエスは、私たちのすべての罪を負い、命を捧げてくださいました。

主イエスの復活の朝。よみがえられた主イエスは、見捨てた弟子たち、「こんばんは」と裏切った私たちに、鮮やかに「おはよう」と語りかけて、主の勝利を宣言してくださいます。

私たちは、涙で潤んだ目で、主イエスの復活の光を、深い感謝をもって仰ぎ見たいと思います。

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