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2023年5月24日

ローマの信徒への手紙10:1~21「わたしは彼らが救われることを心から願い、 彼らのために神に祈っています。」

ローマの信徒への手紙10:1~21

副牧師 矢澤美佐子


カルヴァンはローマの信徒への手紙を「この手紙を理解するものは、全聖書を理解する扉を開く」と言い、ローマの信徒への手紙は歴史の中で常に教会の輝かしい指針となっています。

 皆さんの人生で誰かに「あなたのためなら命を捨てることができる」。そんなことを言われた経験があるでしょうか?主イエスの弟子ペテロは、主イエスに対して「私は、あなたのためなら命を捨ててもいい」という熱い信仰を持っていました。しかし、私は言うはずがないと思っていた言葉、「あんな人知らない」と言ってしまったのです。主イエスは十字架の上から、慈しみの眼差しで「あなたのためなら命を捨てる」と仰せになって死んでくださいました。「あなたのために命を捨てます」と言ったペテロのために、本当に命を捨てて下さったのは主イエスの方でした。

私たちの信仰でとても大切なことは、神様の一生懸命に触れるということです。ローマの信徒への手紙を読めば読むほど、私たちの一生懸命より、神様の一生懸命があることを知り、それを知れば知るほど私たちの信仰はどんどん強くなります。

10:1~4。ここはパウロの以前の姿とも重なり合っています。ユダヤ人キリスト者に対して「あなたたちの熱心は素晴らしい。しかし、神の義ではなく自分の義を求めていますよ」と警告しているのです。

パウロも以前はそうでした。しかし彼は、愛が律法を完成する(マタイ22:37、ロマ13:10)、という主イエスに出会い、命を捨てて下さる神様の側の一生懸命を知り、「私は、愛を押しのけ律法遵守に執着し、自分の義を立てていた。私は小さい者だ」と言ったのです。そして、神様の前で謙ることができる幸せに満たされました。10:15「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」。私たちの救いのために一生懸命になってくださる神様が、あなたのすぐそばにおられます。


〈パウロという人物  ローマの信徒への手紙は、パウロの伝道人生の晩年に書かれた手紙〉

 パウロは、キリキアのタルソスで生まれたユダヤ人です(使徒9章11節、21:39、22:3)。律法に一番厳格なファリサイ派に属していました(ローマ11:1、ピリピ3:5)。ローマの新しい文明も入り込み異邦人と接する環境のもとで多くの学びをする機会にも恵まれていました。その後、エルサレムで徹底的に律法を学び学者となります。そこで、主イエスをのべ伝える弟子たちに出会います。パウロは、主イエスの弟子たちを危険な集団として迫害することに熱心に働きました(使徒8:1~3)。しかし復活の主イエスに出会い、声を聞きます。「サウロ、サウロ、何故、私を迫害するのか」。光に打たれて目が見えなくなります。そして、劇的な回心を経験し洗礼を受け、主イエスを宣べ伝える大伝道者となっていきます。当時、ローマ帝国が領土を広げるために建設した石畳の街道を使って、パウロは歩きに歩いてキリスト教を宣べ伝えました。

パウロは伝道旅行の三回目の終わり頃、コリントの教会に滞在中にローマの信徒への手紙を書きました。この頃、さらにスペインへの伝道を夢見ていました。しかし、キリスト教を迫害する人たちに捕らえられ投獄されてしまいます。ですからローマの信徒への手紙は、「遺言」とも言われています。


〈ローマの教会の問題〉

「ユダヤ人キリスト者」:伝統的に父なる神ヤハウェを信じ、メシアを待ち望んで来ました。先祖代々続いてきた伝統的な信仰があり、誇りがありました。

「異邦人キリスト者」:父なる神を知らず、信じていなかった人たちです。しかし主イエスを知り、救い主と信じるようになりました。新入りのような肩身が狭い感覚が当時のローマの教会の中にありました。

 ですからこの手紙の目的は、

①ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の対立を解決したいという思いが込められています(ロマ14:1~15:13)。

②パウロは、命のある限り地の果てまで伝道をしたいという思いを支援してくれる教会を求めていました。信頼してもらうために、自分の信仰をまとめ伝える必要があったのです。


〈ユダヤ人キリスト者へ 神様の御前に立つ相応しさとは〉

パウロは、ユダヤ人キリスト者たちが、律法(旧約聖書)が心にも身体にも染みこんでおり、それを守ろうとすることは素晴らしいと尊敬しています。しかし、落とし穴があるというのです。律法を守ろうとすればするほど、傲慢という罪の深みにはまっていく傾向にあることを見ていました。傲慢というのは、ただ態度が大きい、偉そうにしている、と言うことではありません。それは、自分自身を神様の御前に立つに相応しい者と考えることです。

私たちが礼拝で、神様の御前に立つことができる相応しさは一体何でしょうか。それは、主イエス・キリストが十字架について死んで下さったことです。


〈神の義、信仰義認〉

 ロマ10章「律法を守ることによってではなく、信仰によって救われる」。しかしこの福音が、律法学者たち、旧約聖書を受け継いだユダヤ人たちから、堕落した人を生み出すと批判されたのです。パウロは、律法主義者でもなく、律律法放任主義者でもない。カルヴァン:律法から福音へ、福音から律法へ。

主イエスの救い、愛に突き動かされたキリスト者は、律法や十戒は強制力ではなく、裁きを恐れて守るものではなく、救われた私たちへの命の御言葉、神様の国、祝福への道案内となったのです。神様の御力は、人間が起こす強制力とは格段に違い、十字架と復活によって突き動かされる力の方が、圧倒的に強く、さらに喜びが伴っているのです。


〈福音は、私たちの中にはありません。福音は、イエス・キリストの中にあります〉

私たちの信じる力が、私たちを救うのではありません。何故なら、私たちが信じられなくなる時もあるからです。そのような時もイエス・キリストは、救いの御手を私たちに伸ばし続けて下さっているのです。ロマ10:21。パウロは、どんなに立派に律法を遵守しても、どんなに華々しい行いをしても、どんなに知恵と知識を獲得しても、それは自分の罪を、死を、打ち破る力ではなかったのです。

しかし、ユダヤ人キリスト者たちにとっては、福音の理解は困難でした。ロマ10:16。それゆえに、新しい異邦人キリスト者の方が、純粋にキリストを信じ従う者が多く現れたのです。そして、それをユダヤ人キリスト者はねたましく思ったのです。ロマ10:19、20。


〈誰が救われ、誰が滅びるか〉

 カルヴァンは、「聖書は救いに選ばれた者のために書かれたものであり、滅びの選びを強調していない。聖書は、滅びに選ばれた者のために書かれたわけではない」。だからパウロは大胆に10:13、8:31「神様が味方である」と強調するのです。大住雄一先生が繰り返し語られました。「裁判官であられるイエス・キリストが、私たちの弁護人でもあられる」。パウロは言います。ロマ8:35「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」。

大木英夫先生は、「神の前。それは、あの律法学者と徴税人とが立った場所であります。律法学者は未完成の姿があり、徴税人においては、不思議な完成の予感が満ちています。人間は、あの律法学者のように、安易に神の前に立つことができると思っているのではないでしょうか」。


〈信仰の父 アブラハムの信仰を振り返る ロマ4章〉

 当時のユダヤ人たちは、行いによって、律法によって義とされるその模範的人物として、信仰の父と呼ばれるアブラハムが自分たちの祖先であることを非常に誇りとしていました。つまり自分たちが重んじている、「行い」、「律法」によって義とされる信仰は、アブラハムがそうであったからと信じていたのです。アブラハムの「信仰による義」どういうものだったでしょうか。

アブラハムは、幾度も神様に背き続けては、引き戻され、ボロボロの信仰でした。アブラハムの力ではなかったのです。神様の圧倒的な力をアブラハムは信じた。誇れるものは神様だけ。そのような信仰だから神様は、アブラハムを義と認めたのです。

パウロは、誤りを指摘します。目の前の人たちを救いたい。救いを正しく宣べ伝えなければ、目の前の人たちを救えない、キリストの命がかかっているからです。


〈希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた ロマ4:18~20〉

アブラハムの固い信仰が強調されているように感じます。実際アブラハムはどうだったでしょうか。

アブラハムは、年老いて子供も諦め、信仰を受け継ぐ者はいないと絶望の日々を過ごしていたのです。それでも神様は、子供は与えられる、子孫は、信仰を受け継ぐ者は、数え切れない星空のように増えるとおっしゃる。アブラハムは「私は、もう信じられません」、とあきれ過ぎて笑います。声をかみ殺して笑います。「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた」とてもそのようなアブラハムの姿ではありません。

パウロは、ここで希望を持てなくなったアブラハムが、それでもなお希望を抱いたということを賞賛しているのではありません。アブラハムは絶望しているのです。絶望している時に、なお希望を持つことはできなかったのです。絶望している時に「なお希望を持ちなさい」と言われても、私たちにはできないのです。

それゆえ、私たちが、信じられなくなった時、私たちはもう希望が持てない時、そういう時、それでもなお希望を持ち続けておられるのは誰なのでしょうか。それは、神様です。神様は、信じておられるのです。これから起こる出来事が見えているのです。だから希望を持っておられるのです。そして、神様が実現すると仰せになられたことは、必ずその通りになるのです。

アブラハムが、希望を失った状態から祝福を実現された、夜空に輝く数え切れない星のように子孫を増やされた。同じ神様が、今、私たちの伝道をも助け、導いておられます。本当に力強いことです。

私たちは、この世の見えている現実、そこから来る諦めも打ち砕かれ、真っ白になり、神様からの純粋な信仰に染められ、神様の希望を自分の希望として、神様には見えておられる神様の国を、私たちも同じ景色を見つめて、今、生き続けていきます。

 つまり、パウロは、アブラハムの生涯を通して、私たちに、私たちの不信仰を信じないで、あのイエス・キリストを復活させることがおできになる神様、そして、罪人を義人にすることもおできになる神様の力を信じ、希望を持って生きる、ということを伝えているのです。

 この救いを獲得することを誰ができるでしょうか。人間の力でできるでしょうか。イエス・キリストの贖いの死、復活によって、私たちは義とされるのです。私たちが救われることが「神の義」です。

カルヴァン「信仰の義の後に、この幸いの一つの結果として行いが生み出されるのです」。

 そして、私たちは、この救いの中で幸せに包まれて、嬉しくて、嬉しくてたまらない、私たちは救われている、それを宣べ伝えるのです。

大住雄一先生「私たちに必要なのは、私の力で信じ抜くという自信より、神様が私を決して見捨てないという確信が強ければ強いほどいい」。

私たちがどんなに神様のことが嫌になっても、私たちがどんなに逆らっても、どんなに間違っても、神様は、私たちを「捨ててはくれない」のです。神様の愛から、私たちを引き離してはくれない(8:39)のです。10:8「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」この御言葉は、イエス・キリストを死から復活させた、神様の御力です。


〈パウロの口から、聖書の御言葉がどんどん溢れ出ていることに感動します〉

ロマ10:5=レビ18:5、ロマ10:6~8=申30:11~14、ロマ10:11=イザヤ28:16、

ロマ10:13=ヨエル書2:32(使2:21)、ロマ10:15=イザヤ52:7、ロマ10:16=イザヤ書53:1、ロマ10:18=詩編19:4、ロマ10:19=申32:21、ロマ10:20~21=イザヤ書65:1~2


 聖書を読む時、悩みで頭がいっぱいになり、読んでいても、気持ちがどこかへ飛んでいってしまって、いつまでたっても同じところを眺めていることもあると思います。けれど、少しだけでも読んでいるうちに御言葉が自分の身体に染み込んでいくのです。

 そうして、聖書が生活の中で語りだすのです。聖書の世界が目の前に広がり、自分の生活と重なっていきます。アブラハムと共に歩み、モーセに率いられるイスラエルの民のひとりとして、不平を言いながらも、神様の御言葉に出会います。預言者の叫びを聞き、詩編を心のうちに歌う。生活の中で、恵みに満ちたイエス様の語りかけを味わい、弟子たちの手紙を読みます。こうして、聖書の鼓動や息遣いを覚え、それに私たちの生活の鼓動や息遣いが合わさってくるのです。

 苦しみ悩みの時、行き詰まったとき、適切な御言葉が心に浮かんでくる、口から出てくるなら、どんなに幸いなことでしょうか。神様の家族の間で、御言葉がいつも口にあり、御言葉で慰め合い、祈り合うなら、その口は、なんと美しいことでしょうか。そうして御言葉を運ぶ足は、なんと美しいことでしょうか。


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