top of page

2025年8月20日

信頼から使命へ

ローマの信徒への手紙15章14~33節

矢澤美佐子

第1部    パウロが信徒を信頼する ローマ15:14–16

 パウロが手紙の締めくくりに差しかかっています。長い手紙の最後に書く言葉は、その人の心の奥を映し出しています。人生の最後に伝える言葉は、どんな言葉でしょうか。叱責の言葉、不満の言葉ではありませんでした。私たちも、伝えられずに別れてしまうことの痛みを知ってきました。パウロが最後に伝えた言葉。それは「信頼」でした。信頼から使命へ、祈り。

 「きょうだいたち、あなたがた自身は善意に溢れ、あらゆる知識で満たされ、互いに相手を戒め合うことができると、この私は確信しています」(14節)

 善意:内側から溢れる神様への応答。知識:神様と共に生きた者の経験。


 パウロは信頼を先に置きました。これは牧会の知恵です。人は、信頼されていると感じたとき心を開き、さらに成長しようとします。そして、信頼から送り出される使命は、人をとても成長させます。

 アメリカの神学大学の礼拝説教。子供が泳げるようになるために細かく教えました。溺れるのが恐くて、知識通り身体が動かない。そこで方針を変えました。「私がいつもここにいて、すぐに助けるから、安心してやってごらん」と声をかけると上達したと言うのです。私たちと神様との関係を表しています。

 箴言27章17節の「鉄は鉄で研がれ、人はその友人の人格で研がれる」に通じます。「あなたの存在が、もう神様に用いられています」そんな一言で疲れていた心、落ち込んでいた心が、ふっと軽くなります。心に主イエスの明るい光が、灯ります。


〇原文と背景 : 原文の響きや背景を見ていくと、神学と実生活の宝石が散りばめられていることが分かります。

 14節「確信しています」と訳されている言葉は、「揺るぎない確信を持っている」という強い言葉です。つまりパウロは、「私は心から信じ切っている」と語ります。

背景 : 当時のローマ教会は多様な人々、ユダヤ人と異邦人。裕福な人と奴隷。文化、考え方、価値観がぶつかり合っていました。ローマは当時の「世界の中心」。人々が集まる国際都市だからこそ、教会の中の人間関係も複雑でした。その中で苦労も多かった。だから祈り合い、助け合い、最善を尽くしていかなければなりませんでした。ですからパウロは言います。

「あなたがたは善意に満ちている。知識にあふれている。互いに教え合える。」荒れ地の真ん中に咲いた花を見つけて「あなたたちは、私の目には尊く美しい」と語りかけられているのに似ています。

 

〇祭司の務め

 ローマ15:15~16 「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、私が神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです」


 「異邦人が神様に受け入れられること」がパウロの使命です。つまり、異邦人は聖霊によって特別な供え物となり、神様にふさわしく、きよめられていく。そのためにパウロは用いられ、それが私の使命だと語っています。


背景 : 当時、ユダヤ人キリスト者(伝統的に神様を信じて来た人たち)からすれば、異邦人(神様を知らない生活をしてきた人たち)は「汚れている存在」に見えました。聖書を読まず、偶像礼拝をし、占いを信じてきた。そんな彼らが「神様への供え物になる」なんて、当時の常識ではあり得なかったことです。しかし、パウロは大胆に宣言します。「彼らも聖霊によってきよめられ、神様に受け入れられるようになる」これは、神様の恵みの御業です。


 神様の御前に出る相応しさ、礼拝堂に入ることのできる相応しさは、何でしょうか。それは、主イエスが私たちの罪の身代わりの供え物となってくださったから、私たちの力では、とても神様の御前に出ることはできません。相応しくない私たちを、主が命を捧げて救ってくださいました。そう告白して、主の御前で、身をかがめることが、神様の御前で相応しい姿です。

 ですから、神様を知らない人たち、求道者の人たちと共に、私たちも身をかがめ、礼拝堂に集います。相応しくしてくださるのは、主の十字架に血潮によってです。私たちの立派さや、私たちの力ではないとパウロは語ります。

 

〇 例話  サッカー選手になりたかった若者。父が牧師。小さい時から礼拝を捧げる熱心なキリスト者。プロからスカウトが来るほど、周囲から注目される選手でした。みなに注目され、活躍することが自分の生きがいでした。人の評価ばかり気にしていました。ケガをし、挫折の経験します。落ち込んで、日常生活ができない程でした。

 力がない人を心の中で見下して来た。自分の罪に気づきます。「私は神様に受け入れられるはずがない」と。

 その時、礼拝で聞いた御言葉「私は、あなたが何かできるから愛しているのではない。この世での評価があり、皆から認められているから、愛しているのではない。あなたは、神様の子、私の子だから、愛してるんだ」 彼は心の底から泣き、心にぽっかり空いていた大きな穴に、神様の愛が満ち溢れていきました。

 「罪があり、欠けだらけの私ですが、用いてください」そう祈った時、心に平安が広がりました。そのうち、彼の好きな讃美歌の奉仕で、父の教会を、助けるようになっていきました。今は、いきいきした顔で本当に幸せそうです。

 神様からの信頼の言葉は、人を生かします。親しい友からの信頼の言葉も、人を動かします。私たちの人生、私たちの存在そのものは、神様の祭壇に置かれる供え物です。破れも、欠けも、恥も、あります。主の十字架で、きよめてくださるから、そのことを信じて、小さな一歩を踏み出していきたいと思います。かけた私たちですが、「神様、私をお受け取りください」


 

第2部    神の恵みによって働く ローマ15:17―19

 パウロは自分の働きを振り返り、誇りは、自分自身ではなく「キリストがしてくださったこと」と語ります。「そこで私は、神のために働くことを、キリスト・イエスにあって誇りに思っています」15:17。


〇原文と背景 : 「誇り」と訳される言葉は、「自分の喜びとして大切に言い表すこと」という意味。パウロが誇ったのは「自分の能力」ではなく、「キリストが自分を通してしてくださったこと」。パウロは「全て主の恵みです」と言いきりました。

 「私は、キリストが私を通して働かれたこと以外は、何も話そうとは思いません」15:18。誇りの中心が、自分ではなく神様にありました。旧約のモーセもエレミヤも、「主が語られた」と自分の力を誇らず、神様の御業として証ししました。

 

〇例話   何年も教会に来なかった方が、「先生の話を思い出して来ました」そう言われると嬉しくなり、心が熱くなります。しかし、祈ると分かってきます。私一人の力では決してない。神様が、種を蒔き、長い時間をかけて、その方の心を耕してくださっていたのです。あの人を用いて、あの人を使わせ、色んな人を神様が用い、そして、教会に戻って来たのです。

 パウロは、自分がしてきたことを話します。けれど、それは自分の手柄としてではなく、「キリストが、私を通してしてくださったこと」と表現しました。

 この世の価値・判断で、うまくいっているように見える事も、うまくいっていないように見える事も、そこには神様の秘められたご計画、神様の美しい時が隠されています。そして、神様の救いのプロセスを通らなければ、その人は救われない。神様のプロセスを曲げて、時を縮めたくなりますが、全て神様の御心が成就します。私たちは、やわらかに、しなやかに、一歩ずつ、まっすぐに、凜と進んで行きます。


 18節「キリストは異邦人を神に従わせるために」新共同訳 → 「従順へと導くために」聖書協会共同訳

 ここでの「従わせる」は単なる服従ではなく、心を動かされて従う姿です。つまり、パウロが異邦人に強制したのではなく、「神様の御業によって動かされた結果」、自由な意志でした。ローマ帝国の「従う」は、権力によって押しつけられ、無理矢理に従わせるものでした。しかし、キリストにある「従う」は、神の愛に応答する、内側から動かされるものです。

 

 私たちの働きの「誇り」はどこにあるでしょうか?「自分に能力があったから」「努力したから」「経験を積んできたから」けれども、そのすべては、やはり神様からの恵みの力でした。もともと備わっていた素質や、努力できる気持ちや、たくさんの経験。キリストが働いてくださらなければ、何ひとつ成し遂げられませんでした。ですから私たちの誇りは「神様の恵み」。

 

〇例話  アメリカの宣教師サイツマ先生。アメリカ時代、明るくて饒舌な先生でした。長崎に派遣され、日本伝道に人生の34年を捧げました。日本伝道が終わり、アメリカに帰国してきた時には、日本人以上に日本人と言われていました。神様によって導かれ、ご本人も、とても努力された結果でした。

 長崎の原爆で被害を受け、苦しむ人々に寄り添い、34年間、神様の御言葉を語り、一緒に祈り続けました。そして、アメリカに帰国した時、優しい青い瞳は、いつも微笑みを絶やさず、落ち着いて人の話を聴くことを優先する、とても静かな先生になっておられました。神様によって造られた、美しい作品、美しい宣教師のお姿をしておられました。私は、サイツマ先生とミシガンの田舎町を共に伝道しました。私が大病を患い入院した時も、毎日病室に来て祈って下さいました。そして、サンディ夫人は、外の景色を見ることができない私に、自然の豊かさあふれる写真の雑誌をいつも届けて下さいました。日本にいる兄からは、お守りが届きました。祈りも、自然豊かな雑誌も、お守りも、神の御前に感謝する時、永遠の宝物になりました。

 

 私たちの人生の旅路の最後に振り返るとき、私たちの口に残る言葉は何でしょうか。「全て、主がなさった」という言葉だけ、なんではないでしょうか。

 

 私たちも今、それぞれの「宣教の旅路」を歩んでいます。家庭、職場、住んでいる地域。そこが私たちのエルサレムからイルリリコンです。そこでする、小さな祈り、思いやりの言葉、証しの言葉。そのひとつひとつを通して、神様は祝福を運ばれます。相手が困っている時にそっと差し伸べる手、言葉が、温もりが、福音の扉を開くきっかけになっていきます。

だから私たちは、こう祈ります。「主よ、今日も私を通して、あなたの救いの御業をなしてください」

 


第3部    福音が届いていない地を目指す ローマ15:20–29 

 パウロ「私は、まだ福音が届いていない場所に行かなくてはなりません。エルサレムに行き、そこにいる貧しい人たちを助けてから、あなたたちのいるローマの教会へ行き、最後にスペインへ行こうと思っている」。福音を全世界に広げる、という神様の願いに応えることでした。私たちも、神様の心に押し出される情熱を持っています。神様は、すべての人に救いを届けたいと思っておられます。  私たちにとっての「届いていない場所」は、海外だけではなく、家族、職場、友人関係、地域社会。

 ある方が、職場の昼休みに聖書を読んでいたら、同僚に「何読んでるの?」と聞かれたそうです。そこから会話が始まり、やがてその同僚は教会へ来るようになりました。最初の一歩は、「ただ聖書を開いて置いておく」ことでした。

 神様は、私たちの小さな行動を、誰かの救いの物語に、織り込んでくださいます。誰かの人生を、大きな祝福へと変えることになります。「神様、私のスペインを教えて下さい」そんな風に祈ることもでき、人を訪ね、神様を証しできると幸せです。

 


第4部    祈りによってつながる(ローマ15:30–33)

 パウロにとって祈りは、教会をつなぐ絆でした。祈りこそが宣教の土台でした。「きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストによって、また、霊が与えてくださる愛によって、あなたがたにお願いします。どうか、私のために神に祈り、私と一緒に戦ってください」15:30

 パウロは、「共に戦ってください」と言っています。

 力で平和をもたらしたいという誘惑。無理矢理従わせて表面的に解決しようとする誘惑。神様のプロセスを無視して、人間の計画を優先したくなる誘惑。神様より自分の力をほめたたえたくなる誘惑。パウロは、私のために祈ってほしいと願いました。彼の切実さがにじみ出ています。

 大きな働きをしているパウロです。信仰も知識も豊富、間違っている人を論破できる力もあります。しかし、キリスト者となってから、自分の力ではなく、神様の力を信じ、知識や力を誇るのではなく、神様の力を誇る者となりました。

 そして、自分の弱さを認め、神様の力、仲間からの祈りがなければ、生きて行けない弱い者であることを誇れるようになりました。それこそが、本当の強さとなりました。

 

 「私がユダヤにいる不従順な者たちから救われ、エルサレムに対する私の奉仕が聖なる者たちに喜んで受け入れてもらえますように」15:31


パウロは二つの祈りの課題を出しています。

  1. ユダヤ人の迫害から守られること。

  2. エルサレム教会が、異邦人の献金を喜んで受け入れてくれること。

 微妙な緊張関係がありました。ユダヤ人からの迫害や誤解を受けていました。エルサレムの教会は貧困状態でした。異邦人教会からの献金は感謝されつつも、心の中は、複雑な心境の人もいました。誇りと伝統の中で「受け取る」というのは、へりくだること。ですからパウロは「祈ってください」と頼んだのです。祈りは命綱です。

 

 「また、神の御心によって。喜びのうちにあなたがたのもとで憩うことができますように。平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように、アーメン」15:32―33

 パウロは祈りの結びに「平和の神」という言葉を使います。ギリシャ語で「戦争がない」というだけでなく、「調和」「全体が助け合っている」を意味します。つまり、ただ戦争がないことではなく、神様が共におられることを信じて、「全体の調和を目指す」こと。パウロはその平和をローマ教会に祈りつつ、手紙を閉じました。

 

〇例話  ある医師であり牧師である方が、アフリカへ宣教師として派遣されました。母教会の小さなグループは、彼をずっと覚えて、毎日祈り続けました。時々届く手紙に、祈っています、と書かれてありました。

 数年後、宣教師はこう証ししました。「最も苦しかった時、何とかなると思えました。そして、不思議な平安が心にありました。それは、母教会の皆が祈ってくれていたことを知っていたからです。」祈りは見えません。けれど確かに届いています。

 

「平和の神が、あなたがた一同と共にいてくださいますように」

 この祝福は、2000年前のローマだけでなく、今ここにいる、私たちに向けられています。パウロの歩みは、一人の人間にはあまりにも大きく、壮大なものでした。

 けれども、それを可能にしたのは彼の力や賢さではありません。その働きを支えていたのは、祈りの仲間たちでした。そして、仲間たちの祈り、力の源は、イエス様が、私たちの罪のために十字架にかかり、命を捧げてくださった救いにありました。主に愛されている。聖霊が注がれ、福音を伝えるために、用いられています。

 パウロがどんなに遠くへ出て行けたのも、イエス様の愛に捕らえられていたからです。そしてそれを支えたのは、仲間たちの祈りでした。

 

 今日、私たちも時代を超えて、距離を超えて、祈りの輪の中にいます。アメリカから、海外から、アジアから、日本のために祈ってくれている多くのキリスト者、教会があります。ローマの教会、パウロの祈りの輪の中に、私たちもいます。

 私たち日本のキリスト者は、小さな集まりに思えるかもしれません。しかし、イエス様の御力は、私たちが祈り合うときに、私たちを一つにし、福音を前へと進ませてくださいます。

 神様の壮大な救いの御業の中へと、私たちは入れられています。祈りの力を信じて、進んで参りたいと思います。

 

石川県金沢市柿木畠5番2号

TEL 076-221-5396 FAX 076-263-3951

© 日本基督教団 金沢教会

bottom of page