top of page

2023年6月21日

第290回「コヘレトの言葉を黙想する4~見よ、虐げられる人の涙を、彼らを慰める者はいない~」

コヘレトの言葉4章1~17節

牧師  井ノ川勝

1.見よ、虐げられる人の涙を、彼らを慰める者はいない

(1)皆さんにお渡しした小友聡先生が作成された「コヘレトの言葉の構造」を御覧ください。本日より黙想します4章~8章までがコヘレトの言葉の「中心部分」となっています。ここには様々な社会批判がなされています。前半が4章~5章で、「太陽の下での虐げ」が主題、後半が6~8章で、「太陽の下での不幸」が主題です。更にこの部分は3章22b節の「問い」と、8章16~17節の「答え」で囲まれています。問い「死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう」。答え「わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに務め、神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに苦労し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない」。

 これらの構造から、コヘレトの言葉の主題が明確に浮かび上がっています。コヘレトの言葉はダニエル書を知り、ダニエル書の信仰を批判する内容になっています。ダニエル書は終末における神の啓示(神が行われる出来事)、太陽の下(地上)での神の啓示を、知恵によって明らかにします。それに対しコヘレトの言葉は、終末の望みを拒否し、太陽の下(地上)において与えられる望みにひたすら生きようとします。しかし、太陽の下で起こることを全て、人間の知恵で理解することは出来ないと結論付けます。

(2)さて、本日は4章の御言葉を黙想します。4章1~3節に、全体の主題「太陽の下での虐げ」が語られています。「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はいない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はいない」。ここには誠に厳しい社会批判が語られています。コヘレトのまなざしは、太陽の下に行われる虐げの現実へ注がれています。虐げられる人の涙に注がれています。実に多くの人々が虐げられ、無力な涙を流しています。しかし更に驚くべき現実は、誰も虐げられる人を慰める者はいないことです。虐げられる人の涙を、掌に掬い上げる人がいないことです。コヘレトが生きた時代は、異邦人の王がユダヤ人を支配し、迫害した時代です。そのような中で、異邦人の王に媚びへつらうユダヤ人と、異邦人の王に徹底的に抗戦するユダヤ人に二分され、格差社会が現れました。今日にも通じます。

 コヘレトは格差社会の出現により、豊かさの中を生きる者と、虐げられ、貧しさの中を生きる者の、太陽の下での矛盾した現実を目の当たりにし、嘆きの声を上げます。2~3節「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」。何という絶望の叫びでしょうか。私どもは誰もが幸いを求めて生きています。しかし、太陽の下では何も幸いを見いだせない。むしろ虐げられ、苦しみ、貧しさを強いられる過酷な現実がある。幸いなものは既に死んだ人。いや、生まれて来なかった者だ。ヨブ紀3章と響き合っています。「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな」。エレミヤ書20章14~18節も同じ。

しかし、コヘレトはこの世に対して虚無主義者になり、この世から逃避し、厭世主義者となって生きるのではありません。矛盾した現実と向き合いながら、この世に与えられた望みを何とかして見出そうと必死にもがきながら、この世を生き抜こうとします。そこにコヘレトの信仰があります。

2.ひとりよりふたりが良い、倒れれば、ひとりがその友を助け起こす

(1)4章は様々な社会批判が展開されています。4~12節は「社会的領域(仲間)での望ましい態度」、13~16節は「政治的領域(支配者)での望ましい態度」、17~5章6節は「祭儀的領域(神)での望ましい態度」です。まず、4~12節「社会的領域での望ましい態度」です。

4節「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対し競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」。何故、格差社会が生まれるのでしょうか。そこには激しい競争社会、生存競争があるからです。勝ち組は豊かになり、優遇され、負け組は貧しくなり、悲惨な目に遭遇します。「仲間に対して競争心を燃やす」。それは「妬み」という意味でもあります。仲間を妬み、蹴落とし、自分が栄冠を勝ち取ろうとする過酷な競争社会です。しかし、それは何と空しく、風を追うようなことか。5節「愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。片手を満たして、憩いを得るのは、両手を満たして、なお苦労するよりも良い。それは風を追うようなことだ」。私どもは両手で富をつかみ取ろうとし、休み無くあくせく働き続けます。家族との交わりもなく、仕事人間に生き続けます。ゆとりのない日々に追われます。しかし、それは果たして幸いなことだろうか。たとえつかみ取る富が少なくても、片手を満たして、憩いを得る方が幸いではないか。進言30章8節の御言葉と響き合います。「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください」(口語訳)。

(2)7節「わたしは改めて、太陽の下に空しいことがあるのを見た。ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富みに飽くことがない。『自分の魂に快いものを欠いてまで、誰のために労苦するのか』と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ」。「一人」が強調されています。友も息子も兄弟もない、自分一人で、孤独に生きる人です。「際限もなく」とは「終わりがなく」「果てしなく」という意味です。ひたすら富をつかみ取る、終わりのない貪欲の日々を生きている。ひたすら自分の腹を満たすことを追い求め、隣人のために労苦することを厭う。そのような生き方は何と空しいことか。幸いな生き方ではない。

 9節「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ」。「ひとり」で生きる生き方に対し、「ふたり」で生きる幸いが語られる。「ひとり」で労苦するよりも、「ふたり」で労苦すれば、苦しみに耐えることが出来る。ひとりが倒れれば、もうひとりがその友を助け起こすことが出来る。「ひとり」で生きるのではなく、「ふたり」が支え合って生きる幸いが強調される。「コヘレト」という言葉は「集会」という意味でもあります。ユダヤ教シナゴーグは、地域のコミュニティです。日本で言えば昔の公民館です。地域の人々の交わりの場です。ここにコヘレトの信仰があります。矛盾した現実を目の当たりにしながら、しかし、ひとりで生きるのではなく、信仰共同体の中で助け合って生きる。慰めの共同体の姿がここにあります。

 11節「更に、ふたりが寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか」。これは夫婦の関係を言い表しているのではありません。コヘレトの言葉は戦いの日々から生まれた言葉です。戦場で兵士たちが寒さをしのぐために、身を寄せ合うことを意味しています。12節「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」。一本の糸は容易に切れやすい。しかし、三つよりの糸は切れにくい。ここでも仲間が共に支え合う姿が強調されている。

3.共に苦しみ、共に慰める共同体に生きる

(1)13~16節は「支持的領域(支配者)での望ましい態度」が語られます。13節「貧しくても利口な少年の方が、老いて愚かになり、忠告を受け入れなくなった王よりも良い」。当時の王、支配者に対する痛烈な批判です。老いて愚かになり、忠告を受け入れなくなった王ほど、手の付けられない存在はない。これは王に限らず、私どもにも当てはまります。むしろ貧しくても利口な少年の方が良い。14節「捕われの身分に生まれても王となる者があり、王家に生まれながら、卑しくなる者がある。太陽の下、命あるもの皆が、代わって立ったこの少年に味方するのを、わたしは見た」。当時のユダヤの政治的状況を指し示しているとも言える。異邦人の王のユダヤ民族への支配、迫害に対して、徹底抗戦したマカバイのユダ、その兄弟ヨナタン、シモンを指しているとも言える。しかし同時に、時代を超えて普遍的な意味を持っているとも言える。16節「民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも、この少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ」。「限りなく続く」は「終わりがない」という意味です。コヘレトは、民衆が期待した貧しく利口な少年にも、望みを抱いていない。それも空しく、風を追うようなことだと捕らえる。

(2)厳しい社会批判が繰り返される中、唯一肯定的な表現は、この言葉でした。「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。三つよりの糸は切れにくい」。虐げられる人の涙を見る悲惨な現実にあって、コヘレトはひとりで生きるのではなく、ふたりで助け合って生きることを強調しました。「これまた空しく、風を追うようなことだ」と嘆く現実にあって、地域のコミュニティが慰めの共同体として生きることを強調しました。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。・・あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです」(コリント二1・4,7)。

4.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 6月21日の祈り ヨハネ17・24

「主よ、われらの神よ、われらは感謝します。あなたはみ子イエス・キリストのうちに栄光を明らかに示してくださいました。それゆえにわれらは今日もなおそれを見、感じとることができるのです。それはこの世に対する勝利のゆえにイエス・キリストより来る栄光ある恵みです。あなたを信ずるすべての人間のために来る、力強い助けです。その栄光を明らかに示してください。人間の心に信仰を与えてください。地上における困窮と艱難のすべてに勝利しうる信仰を与えてください。あなたが人間にすでに与えてくださった力を与えてください。その力によってあなたを仰ぎ見、あなたのうちにあって静かになり、なたは来られる、すぐに来られる、自分が考えるよりも、もっと早く来られるのだというのぞみを、あなたのうちにあって常にいだくことができるのです。なぜならば、『見よ、わたしはすみやかにくる!』と救い主の語られたように、突如としてこのことはやってくるからです。それゆえにわれらは終わりまで、のぞみ、信じ、そして慰められていたいのです。アーメン」。

bottom of page