1.死ぬ日は生まれる日にまさる
(1)コヘレトの言葉6~8章は一つのまとまりになっています。「太陽の下での不幸」が主題です。本日の7章は格言的な言葉が並べられていて、何を語ろうとしているのか、捕らえにくい章でもあります。こういう言葉から始まっています。「名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる」。この言葉は、コヘレトは虚無主義者、厭世主義者であると言われて来た典型的な言葉であると受け留められて来ました。生きることを否定する言葉であると思われて来たからです。問題は「死ぬ日は生まれる日にまさる」が前半の「名声は香油にまさる」と、どのように繋がっているかです。「名声」は死んだ後に残るものです。「香油」は生まれた時と死んだ時に、体に塗るものです。特にここでは生まれた時に塗ることが強調されています。その点で、「死ぬ日は生まれる日にまさる」と響き合っています。「死ぬ日は生まれる日にまさる」は、生きるよりも死ぬ方がよいという意味ではありません。人生の終わりは死で終わることを受け留めて生きようという、コヘレトの基本的な信仰の姿勢が表されています。今、ここで与えられた神の恵みに感謝して生きる。それがコヘレト書に貫かれている信仰です。
2節「弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終わりがある。命あるものよ、心せよ」。「弔いの家」は悲しみの家の象徴です。「酒宴の家」は喜びの家の象徴です。生きる者は死を認識することによって、生きることの意味に気づかされます。人生の終わりに死があるからこそ、今を生きる意味が貴いことを知ります。3節「悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ」。「悩み」は悲しみ、憂いという意味です。人は悲しみ、憂いを経験して、人生を豊かにされます。「顔が曇るにつれて心は安らぐ」は、聖書協会共同訳では「顔が曇っても、心は晴れるものだから」と訳しています。悲しみで顔が曇っても、神は必ず悲しみの中に恵みを備え、心の安らぎ与えて下さる。4節「賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に」。2節の言葉に対応します。「快楽の家」は酒宴の家です。酒宴の家ではなく、弔いの家、悲しみの家でこそ、賢者は人生を深く学びます。5節「賢者の叱責を聞くのは、愚者の賛美を聞くにまさる。愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音。これまた空しい」。箴言17章10節と響き合っています。「理解力ある人を一度叱責する方が、愚かな者を百度打つよりも効き目がある」。賢者も自らの過ちを指摘する叱責を受けることがいかに大切であるか。
(2)7節「賢者さえも、虐げられれば狂い。賄賂をもらえば理性を失う」。賢者に対する戒めが語られます。8節「事の終わりは始めにまさる」。コヘレトの歴史理解が表されています。コヘレトの歴史理解です。コヘレトには論敵がいました。ダニエル書に見られる黙示的歴史観です。歴史が終末の滅びに向かって怒濤のように流れて行く。しかし、終末の滅びを超えて人の子が現れる。そこに終末の望みを持って生きる。しかし、コヘレトは終末の破局に向かう歴史観・世界観を否定します。人生の終わりは死へ向かうという個人的歴史観を持って生きます。一つ一つの言葉が黙示的歴史観に生きる人々への批判となっています。「気位が高いよりも気が長いのがよい。気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの」。「気位が高い」は高慢を意味し、「気が長い」は忍耐を意味します。歴史を生きる姿勢で大切なのは、高慢、短気ではなく、忍耐です。10節「昔の方がよかったのはなぜだろうと言うな。それは賢い問いではない」。コヘレトは懐古主義的な歴史観も否定します。過去の栄光ばかりを夢見て、今を生きることに地に足がつかない生き方を否定します。11節「知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが、知っておくがよい。知恵はその持ち主に命を与える」。コヘレトは伝統的な知恵に従って、今を生きます。
13節「神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか」。私どものまなざしをどこに向けて歴史を生きるのか。懐古主義者のように過去でもなく、黙示的歴史観に生きる者のように終末でもなく、今、ここで行われる神の御業を見て生きよ。神がなさったことを変えることは出来ない。現実を受け入れて生きよ。14節「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せて造られた、と」。幸いな日には楽しめ、不幸な日には熟考せよ。何故、神はこのような試練を与えたのか。神は幸いな日も、不幸な日も併せて造られた。人は終末がどうなるのか知ることは出来ない。今、ここでどう生きるかが問題である。コヘレトの歴史理解です。
2.神を畏れて生きよ
(1)15節「この空しい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある」。知恵文学が語るこの世理解です。16節「善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう」。17節「一つのことをつかむのはよいが、ほかのことから手を放してはいけない。神を畏れ敬えば、どちらも成し遂げることができる」。賢すぎてもいけないし、愚かすぎてもいけない。大切なことは神を畏れて生きること。コヘレトが強調する知恵文学の中心にある信仰です。3:14,5:6,8:12、13,12:13.
19節「知恵は賢者を力づけて、町にいる十人の権力者よりも強くする」。知恵の格言とも言われる。知恵に生きることが強調される。20節「善のみを行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない」。21節「人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心は知っているはずだ」。
(2)23~29節は、知恵文学の特徴である「コヘレトの謎解き」です。23節「わたしはこういうことをすべて、知恵を尽くして試してみた。賢者でありたいと思ったが、それはわたしから遠いことであった。存在したことは、はるかに遠く、その深い深いところを誰が見だせようか。わたしは熱心に知識を求め、知恵と結論を追求し、悪は愚行、愚行は狂気であることを、悟ろうとした」。知恵を究めることの困難さが語られる。
26節「わたしの見いだしたところでは、死よりも、罠よりも、苦い女がある。その心は網、その手は枷。神に善人と認められた人は彼女を免れるが、一歩誤れば、そのとりことなる」。謎かけです。どういう意味なのでしょうか。それに対し、コヘレトはこのような謎解きをします。27節「見よ、これがわたしの見いだしたところ。―コヘレトの言葉―。ひとつひとつ調べて見いだした結論。わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。千人に一人という男はいたが、千人に一人として、良い女は見いださなかった」。
この謎解きの参考となるのが、士師記14章のサムソンの謎かけと謎解きです。14章14節「食べる者から食べ物が出た。強いものから甘いものが出た」。この謎かけに対し、このような謎解きをしています。18節「蜂蜜よりも甘いものは何か。獅子よりも強いものは何か」。言葉遊びのテクニックで巧妙に作られているなぞなぞです。サムソンが殺した獅子に死骸に蜜蜂が巣を作り、それをなめたら甘かったという出来事です。「獅子」という言葉は「蜜蜂」を意味する暗号的言語です。謎解きの鍵語となっています。
さて、コヘレトの謎解かけ・謎解きは何でしょうか。「死よりも、罠よりも、苦い女がある。その心は網、あおの手は枷」。その謎解きは「千人に一人という男はいたが、千人に一人として、良い女は見いださなかった」。手掛かりとなるのは、「罠」「網」「枷」「千人」です。いずれも戦争用語です。コヘレトが生きた時代はユダヤ人の迫害の時代、戦争の時代でした。「千人」は「部隊」を意味します。戦争を遂行する部隊に女性はいません。新共同訳は「良い女」と訳していますが、「良い」という言葉はありません。「死よりも苦い女」から、コヘレトは「戦争」という言葉を引き出そうとしています。男は女にとりこにされたら逃げ出せないように、人は戦争から逃れられないという謎解きです。8章8節「戦争を免れる者もない」を先取りしています。
29節「ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ」。コヘレトの結語です。聖書協会共同訳は「複雑な考え方」を「策略を練ろうとする」と戦争用語として訳しています。しばしばコヘレト書は女性蔑視と言われて来ました。そうではありません。26節は女性に関する当時の格言を引用し、謎かけをしたと言われています。
(3)コヘレトは論敵との戦いの中で、今をいかに生きるかに集中します。黙示的歴史観に生きる人々のように、終末の破局とそれを超えてもたらされる人の子の到来に望みを見るのではなく、懐古主義的な人々のように、昔の栄光を追い求めるのではなく、今、ここに与えられている神の恵みに感謝して生きる。神を畏れて生きることに集中するのです。
3.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 7月12日の祈り ガラテヤ2・20
「全能の神よ、はっきりとわれらを見、われらをイエス・キリストご自身のうちに導き入れ、キリストご自身がわれらのうちにあって生きるもの、現実に生きるものとなられるようにしてください。天の世界に属することをゆるされ、日ごとにみ子イエス・キリストに対する信仰を持って生きることを、ゆるされているよろこびに満ちるようにしてください。あなたがすでに経験することをゆるしてくださった多くのことを感謝します。なお信仰の全からぬわれらにも、大いなるあわれみによってこれほど多くの善きことをしてくださることを、心から感謝します。そしてわれらは祈り願います。われらの心を光のうちに、忍耐と敬虔とのうちに立たせてください。そうすればわれら貧しい人の子らにあって、いよいよますますみ名のために、ことが行なわれるようになるからです。アーメン」。