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2023年7月19日

第294回「コヘレトの言葉を黙想する

コヘレトの言葉8章1~17節

牧師  井ノ川勝

1.何事が起こるかを知ることはできない

(1)コヘレトの言葉8章はコヘレトの言葉の心臓部です。コヘレトの信仰が明確に現れています。8章の冒頭で格言を引用し、謎かけと謎解きをしています。知恵文学がよく用いる手法です。1節「『人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる』。賢者のように、この言葉の解釈ができるのは誰か。それは、わたしだ」。知恵を賛美する格言です。ところが、コヘレトは独特な謎解きをしています。それが7節です。「何事が起こるかを知ることはできない。どのように起こるかも、誰が教えてくれよう」。知恵は全てを知り尽くすことは出来ない。知恵には限界がある。コヘレトは格言を反語として捕らえています。何故、コヘレトはそのような謎解きをするのでしょうか。

 ここで注目すべき言葉は、1節「言葉の解釈」と、7節「何事が起こるかを知る」です。いずれもダニエル書2章で用いられている言葉です。ダニエルがネブカドネツァル王の夢を解釈し、将来何事が起こるかを説き明かした場面です。27~30節。ダニエル書の信仰は、将来起こる出来事を知恵で解釈することが出来る信仰です。そのことにより、終末信仰に生きます。コヘレトの時代に、ダニエル書の終末信仰、黙示思想の信仰に生きるグループがいました。コヘレトはそのグループと対峙し、終末信仰を否定し、ひたすらに今を生きる信仰に徹します。「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる」。この格言を巡っても、コヘレトは黙示思想の信仰に生きるグループと異なった謎解きをしました。

                                                                                                                                                                 

(2)さて、謎かけと謎解きの間に挟まれた言葉はどのような意味なのでしょうか。2節「すなわち、王の言葉を守れ、神に対する誓いと同様に。気短に王の前を立ち去ろうとするな。不快なことに固執するな。王は望むままにふるまうのだから。王の言った言葉が支配する。だれも彼に指図することはできない。命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない」。黙示思想に生きる人々は終末の信仰に生きますので、王の支配を受け入れず、現実から逃避します。しかし、コヘレトは王の支配を受け入れ、現実と向き合って生きる信仰に徹します。5b節「賢者はふさわしい時ということを心得ている。何事にもふさわしい時があるものだ。人間には災難のふりかかることが多い」。黙示思想に生きる人々の言葉です。全ての時は神に定められている。ふさわしい時に終末をもたらされる。しかし、コヘレトは反論」します。7節「何事が起こるかを知ることはできない。どのように起こるかも、誰が教えてくれようか」。将来起こること、終末の出来事を知ることは出来ない。

 8節「人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない」。「霊」は「息」「風」という意味でもあります。創世記2章7節で、人間は土の塵から造られ、神の息を注がれて生きるものとなった。人は神の息を注がれ、生かされている存在である。それ故、神の霊を支配することは出来ない。神の御計画を知ることも出来ない。それ故、「死の日を支配することもできない」。将来、自分が死ぬ日を知ることも出来ない。「戦争を免れる者もいない」。戦争の時代、いつ徴兵されるのかを知ることも出来ない。「悪は悪を行う者を逃れさせはしない」。これも格言です。反語で用いています。今、ここで神の御支配に服して生きることを表しています。

 

2.神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり

(1)8章は6~8章のまとまりの中にあります。6章の冒頭に記されていたように、「太陽の下での不幸・災い」が主題です。9節ではその主題が再び語られます。「わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ」。太陽の下で起こる現実を見極めて生きようと勧められている。10節「だから、わたしは悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい」。太陽の下では不条理な現実が繰り返される。ヨブ記も語る知恵文学の主題です。しかし、不条理が現実から目を逸らすことなく、それと向き合って生きて行く。「これまた、空しい」。「空しい」と嘆いて現実から逃避するのではない。「空しい」は「束の間」という意味。全ては束の間である。

 11節「悪事に対する条令が速やかに実施されていないので、人は大胆に悪事をはたらく。罪を犯し百度悪事をはたらいている者が、なお長生きしている」。ここでも太陽の下での不条理な現実が語られる。12b節「にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるから幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福になれない」。「神を畏れることは、知恵のはじまり」。知恵文学の中心にある信仰です。コヘレトは伝統的な知恵に生きています。「神を畏れる」はコヘレトが繰り返し語る言葉です。不条理が現実の中で、ひたすら神を畏れて生きる。問題は「幸福とは何か」である。「所有の幸福」ではなく、「関係の幸福」。神との関係に生きることが幸いである。

14節「この地上には空しいことが起こる。善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う」。ヨブの友人は伝統的な応報思想、原因があるから結果があるで、ヨブの苦しみの意味を説き明かそうとしました。しかし、現実は伝統的な応報思想では成り立たないことを示しています。「これまた空しい」。全ては束の間である。

 

(2)15節は6~8章「太陽の下での不幸」の結語である。「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって、飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の、日々の労苦に添えられたものなのだ」。「快楽」は「喜び」という意味です。太陽の下での幸いは、神が日毎に与えて下さる飲み食いにある。コヘレトが強調する「飲み食い賛美」です。家族と共に、友人と共に味わう日毎の食卓の飲み食いというささやかな幸いに、感謝して生きる。そこにこそ神との関係に幸いがある。主イエスが語られた「主の祈り」の「日毎の糧を求める祈り」と響き合う信仰である。

 16~17節は、4~8章の大きなまとまり「太陽の下での虐げ、不幸」の結語です。4章直前の3章b節「死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう」の問いに対する答えです。16節「わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに務め、神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼は悟ってはいない」。太陽の下に起こることを、人間は知恵を尽くしても悟ることは出来ない。ましてや死後どうなるのか、終末の出来事など知恵で知ることは出来ない。これがコヘレトが到達した結論です。

 この信仰と対比されるのがダニエル書12章8節です。「こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。『主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか』。彼(大天使長ミカエル)は答えた。『ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、寝られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る』」。終末信仰に生きるダニエルは、終末の出来事は神の御前で目覚めた人は悟ることが出来ると語る。ダニエル書はこのような言葉で結ばれていた。12章13節「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」。ダニエルの信仰は終末にまなざしを向けて生きます。しかし、コヘレトは終末信仰に生きませんので、今、ここで、神から与えられた恵みに、まなざいしを向けて生きるのです。

 

(3)マタイ福音書24章36節以下で、主イエスは語られました。終末はいつ来るのかを知ることが出来ない。父なる神のみがご存じである。終末は主人の帰りを待つ僕のようなものである。主人がいつ帰って来てもよいように、目を覚まして、今日なすべき務めに励みなさい。ここにはダニエルの信仰とコヘレトの信仰の融合が見慣れる。終末の信仰に生きながら、目を覚まして、今日なすべき務めに励む。ルターの言葉を思い起こします。「たとえ明日、終わりが来ようと、わたしは今日、りんごの木を植える」。

 

3.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 7月19日の祈り イザヤ61・1~2

「主よ、われらの神よ、あなたはイエス・キリストにおいて、人々の間の光です。われらはよろこびと確信に満ちて祈り願います。われらをあなたの全能と結びつけてください。すべての暗黒、すべての罪、すべての死、すべての束縛と戦うあなたの力と結びつけてください。われらにそのようなあなたの全能と交わることをゆるし、われらの嘆息を聞いてください。なぜならばわれらはあなたの子であり、そのことは変わることがないのです。あなたはわれらに救いと解放を約束してくださいました。われらはともにその約束にとどまり、みまえにこう申します。われらはなたが送ってくださった救い主イエス・キリストのゆえにあなたの子です、と。あなたの子らの祈りを聞いてください。子らのひとりびとりをすべて祝福し、民全体として祝福してください。この時代と世界のいっさいを悲惨の中にあってあなたに仕えることをゆるされている僕として祝福してください。アーメン」。

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