1.知恵は武器にまさる
(1)コヘレトの言葉10章は格言が幾つも並べられています。しかも主題が一つではなく、何が語られているのか理解しづらい章です。「コヘレトの言葉の構造」を御覧下さい。既に前回見た9章13節~10章20節までが一つの部分になっています。「第二の中心部分」という表題が付けられています。9章13節が全体の表題となっています。「わたしはまた太陽の下に、知恵について次のような実例を見て、強い印象を受けた」。コヘレトは知恵を賛美しながら、不条理が現実を生きています。一つ一つの歴史的現実と向き合いながら、格言に込められた知恵に生きています。
既に前回見た9章14節以下は、コヘレトが経験した歴史的事件が述べられています。「ある小さな町に僅かの住民がいた。そこへ強大な王が攻めて来て包囲し、大きな攻城堡塁を築いた。その町に一人の貧しい賢人がいて、知恵によって町を救った」。「ある町」とはエルサレムです。エルサレムに強大な異邦人の王が攻めて来て包囲した。ユダヤ人を迫害しました。しかし、ユダヤ人の一人の貧しい賢人が知恵によって町を救いました。コヘレトが生きた時代は戦争の連続でした。3章の「時の詩編」にそれが表れています。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、・・戦いの時、平和の時」。強大な異邦人の王が攻めて来て包囲した時、ユダヤ人の一人の貧しい賢者が、武器ではなく、知恵によって町を救いました。「しかし、貧しいこの人のことは、だれの口にものぼらなかった。それで、わたしは言った。知恵は力にまさるというが、この貧しい人の知恵は侮られ、その言葉は聞かれなかった」。知恵が町を救ったにもかかわらず、人々は知恵を侮り、聞きませんでした。コヘレトは歴史的事件から一つの教訓を語ります。17節「支配者が愚か者の中で叫ぶよりは、賢者の静かに説く言葉が聞かれるものだ。知恵は武器にまさる。一度の過ちは多くの善をそこなう」。「知恵は武器にまさる」。16、18節で繰り返されます。コヘレトが強調したいことです。
(2)10章はこのことを受けて、知恵と愚者が様々な格言を通して対比させられています。1節「死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ、臭くする。僅かな愚行は知恵や名誉より高くつく」。どんなに良質な香油を作っても、一匹の死んだ蠅が混入したら、香油は台無しになってしまう。知恵によって町を救った一人の貧しい賢者の知恵を軽んじる愚かさは、香油を台無しにする死んだ蠅であると喩えられている。2節「賢者の心は右へ、愚者の心は左へ」。右は幸いの方向、左は不幸の方向を意味します。3節「愚者は道行くときすら愚かで、だれにでも自分は愚者だと言いふらす」。コヘレトの痛烈な愚者への批判です。具体的な存在がいます。愚者は道行くときすら、自分たちの知恵を言いふらす。しかし、コヘレトの目には、それは自ら愚者だと言いふらしていると見える。
4節「主人の気持ちがあなたに対してたかぶっても、その場を離れるな。落ち着けば、大きな過ちも見逃してもらえる」。政治情勢が不安定で、コヘレトの論敵である黙示思想に生きるグループは、エルサレムを離れ、禁欲主義的な交わりを築き、終末の救いを待ち続けました。しかし、コヘレトはエルサレムを離れず、「落ち着いて」(冷静な知恵)で、不安定な政治情勢と向き合おうと呼びかけます。コヘレトは現実から逃避せず、知恵をもって現実に立ち向かいます。5節「太陽の下に、災難なことがあるのを見た。君主の誤りで、愚者が甚だしく高められるかと思えば、金持ちが身を低くして座す。奴隷が馬に乗って行くかと思えば、君候が奴隷のように徒歩で行く」。支配者の誤った政策が不条理な現実をもたらします。しかし、コヘレトは冷静な知恵で、その現実と向き合おうとします。
2.未来のことはだれも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう
(1)8節以下は様々な格言が並べられています。「落とし穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を破る者は蛇にかまれる」。まさしく墓穴を掘ることです。破壊的な行動を採れば、不幸な結果に陥ることになります。石垣の隙間に蛇が潜んでいて、手を噛まれることがあります。9節「石を切り出す者は石に傷つき、木を割る者は木の難に遭う」。行動を起こせば、必ずリスクが伴う。10「なまった斧を研いでおれば力は要らない。知恵を備えておれば利益がある」。日々、道具を手入れすることが大切であるように、日々、知恵を研くことの大切さが説かれます。11「呪文も唱えぬ先に蛇がかみつけば、呪文師には何の利益もない」。呪文師にとって呪文が役に立たなければ、何の意味もない。知恵もそれと同様、日々研ぎ澄ましたものにしなければ、いざという時に役に立たない。
12節以下は賢者と愚者が対比されています。「賢者の口の言葉は恵み。愚者の唇は彼自身を呑み込む。愚者はたわ言をもって口を開き、うわ言をもって口を閉ざす。愚者は口数が老い」。厳しい愚者への批判です。コヘレトが批判する具体的な愚者がいます。「未来のことはだれも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう」。コヘレトが繰り返す言葉です。8章7節「何事が起こるかを知ることはできない。どのように起こるかも、誰が教えてくれようか」。3章22節「死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう」。これらの言葉はダニエル書の言葉と対比して語られています。ダニエル書10章14節「それで、お前に民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。この幻はその時に関するものだ」。12章8節「『主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか』。『終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る』」。このダニエル書の終末信仰を受け継ぐのが、黙示思想に生きるグループです。終末の救い、復活を信じ、不安定な政治的状況の現実から逃避し、禁欲主義的な交わりをしながら、終末の救いを待ち望みます。コヘレトはそのような論敵を愚者と呼び、愚者は口数が多いと批判します。コヘレトは終末の救い、復活を信じません。あくまでも不条理な現実を知恵をもって向き合います。それ故、終わりのことは誰にも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれようと語るのです。
15節「愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。都に行く道さえ知らないのだから」。黙示思想に生きるグループは混乱したエルサレムから離れて、禁欲主義的な交わり生きました。
(2)16節「いかに不幸なことか、王が召し使いのようで、役人らが朝から食い散らしている国よ」。黙示思想に生きるグループのエルサレムの王への批判です。しかし、コヘレトが現在の王に対し肯定的です。17節「いかに幸いなことか、王が高貴な生まれで、役人らがしかるべきときに食事をし、決して酔わず、力に満ちている国よ」。黙示思想に生きるグループは禁欲主義で、飲み食いに対し否定的です。しかし、コヘレトは飲み食いを肯定的に捕らえます。
18節「両手が垂れていれば家は漏り、両手が怠惰なら梁は落ちる」。黙示思想に生きるグループの国家批判です。現在のエルサレムの王が支配する国家は、雨漏りがし、梁は落ち、崩壊寸前である。19節「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべてにこたえてくれる」。コヘレトが繰り返し強調する「飲み食い賛美」です。禁欲主義的なグループの食卓には笑い、楽しみがありません。苦しみの表情で食事をします。しかし、コヘレトは食事を重んじます。食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はこれらの食卓を備えるものです。飲み食いを通して、食卓の交わりを備えて下さった神を賛美して生きる。それが「飲み食い賛美」です。しかし、黙示思想に生きるグループから見れば、享楽主義的な交わりに見えたことでしょう。
20節「親友に向かってすら王を呪うな。寝室ですら金持ちを呪うな。空の鳥がその声を伝え、翼あるものがその言葉を告げる」。不安定な政治情勢の中で、密告者、スパイがいたのでしょう。親友ですらスパイかもしれない。寝室に盗聴器があるかもしれない。親友だと思っている存在、寝室ですら、気を緩めるな、言葉に気をつけないという警告です。戦争は人との交わりを破壊します。そこに厳しさがあります。そのような中で、コヘレトは日々のささやかな食卓の交わりを、主が備えられた祝福として生きるのです。
(3)マタイ福音書23~25章は、主イエスが十字架の死を目前として語られた「終末の説教」です。5~7章の「山上の説教」に対応します。24章2節で、主イエスはユダヤ人の信仰の砦であるエルサレム神殿は崩れ去ることを預言されています。これは紀元70年に起きたローマ帝国によるエルサレム神殿破壊、エルサレム陥落を意味します。マタイ福音書はそのような時代にまとめられました。終末が近づいている。そのような終末の緊張感野中で、私どもは今どのように生きるべきか。それが主イエスの終末の説教の主題です。主イエスは24章30節で、ダニエル書7章13節の言葉に触れ、終末に人の子が天の雲に乗って現れることを語ります。終末に来られる人の子、メシアを、家の主人に譬えています。36節「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」。それ故、主人がいつ帰って来てもよいように、42節「目を覚ましていなさい」。48節「主人は遅いと思い、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりする」ことを戒めています。34節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。永遠に滅びない知恵・主の言葉を味わいながら、主人の帰りを待つことを求めています。マタイ福音書にとっての食卓とは何か。終末に来られる人の子である主イエスを待ち望みながら、聖餐の食卓に与ることです。26章26~30節。聖餐の食卓は再び来られる主イエスを待ち望み、賛美の歌を歌いながら、キリストのいのちに生かされる交わりです。ここに主イエスの健やかな終末信仰に支えられた「飲み食い賛美」があります。
3.御言葉から祈りへ (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳)8月2日の祈り テサロニケ一5・6
「在天の父よ、あなたはキリストによる天の財貨により、あらゆる祝福をもってわれらを祝してくださいました。われらは感謝します。われらはあなたの導き、あなたの支配を感じとることができます。われらはくりかえして、いきいきと生きる者の仲間となることがゆるされています。いきいきと生きる者は困難な日々にあってもよろこびに満ちて、あなたを賛美するのです。そうです、まさにそのような時こそ、われらは感謝する人間になりたいのです。よろこびある者の仲間になりたいのです。よろこびをもって生きる者は、くりかえし確信の中に生きることがゆるされています。人間の世界が栄え、ついにはみ手のうちのものとなるようにと、あなたが地上において与えてくださる善きものを、経験することがゆるされているのです。アーメン」。