top of page

2023年8月9日

第297回「コヘレトの言葉を黙想する11~あなたのパンを水にうかべて流すがよい~」

コヘレトの言葉11章1~10節

牧師  井ノ川勝

1.あなたのパンを実時に浮かべて流すがよい

(1)コヘレトの言葉を共に黙想して来て、最後の部分11,12章となりました。本日、黙想する11章はコヘレトの言葉において、最も短い節から成る章ですが、皆さんが知っている御言葉が語られています。まず、冒頭の御言葉です。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」。大学生の時、よく歌った讃美歌に、1954年版536,讃美歌21-566があります。11章1節の御言葉から生まれた讃美歌です。「むくいをのぞまで、ひとにあたえよ、こは主のかしこき、みむねならずや。水の上に落ちて、ながれしたねも、いずこのきしにか、生いたつものを」。愛の業に生きることを勧める歌です。

 「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」は、海上貿易を例えていると言われています。この御言葉と響き合うのが、箴言31章14節です。「商人の船のように、遠くからパンを運んで来る」。古代の海上貿易は悪天候による船の遭難、不慮の事故が起こる危険性が絶えずありました。物資を港まで運べない。しかし、それでもパンを海上の船に乗せ、港まで運びなさいと勧める格言です。もう一つの解釈は、讃美歌で歌われていたように、小さな愛の業に生きなさいと勧めている。愛の業は必ずしも報われるとは限りません。虚しさで終わることがあります。しかし、どんなに小さな愛の業であっても、いつかどこかで実を結ぶことがあります。更に、この御言葉は伝道の業と結び付けて語られて来ました。聖書協会共同訳はこのように訳しました。「あなたのパンを水面に投げよ。月日が過ぎれば、それを見いだすからである」。私どもの伝道の業は水面にパンを投げるようなものです。実りがすぐに見えません。虚しさに覆われます。しかし、そこで諦めずに、水面に御言葉のパンを投げ続けるのです。いつか必ず伝道の実りを結ぶことを信じて、伝道の業に励むのです。コヘレトは決して厭世的な虚無主義者ではありません。

 

(2)2節「7人と、8人とすら、分かち合っておけ、国にどのような災いがおこるか、分かったものではない」。預言者エゼキエルは、戦争、自然災害、疫病こそが、この世に起こる三大禍であると語りました。将来、何が起こるか分かりません。しかし、将来の最悪のシナリオを想定して、今、なすべきことを、仲間と共に分かち合おうと勧めます。コヘレトは悲観的に孤独に生きるのではなく、共同体として生きることを重んじます。

 3節「雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。南風に倒されても北風に倒されても、木はその倒れたところに横たわる。風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない」。自然の営みの悲観的なことばかりが語られ、何も行動出来ないと消極的なことばかりが語られています。しかし、コヘレトが語りたいことは、このことです。8節「妊婦の胎内で霊や骨組みがどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけではない」。妊婦の胎内で胎児がどのように育つのかは分かりません。それは神の業であるからです。神の業を私ども人間が全て分かることは出来ません。

 ここで「分からない」という言葉が、2,5,6節で4回繰り返されています。コヘレトがよく用いる言葉です。11章は3章の御言葉に対応しています。3章10節「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」。コヘレトの基本姿勢は、将来のことも、自然の営みも、妊婦の胎内の胎児のことも、神の業であるので全てが分からない。これはダニエル書の信仰に生きる黙示思想のグループと対峙する生き方です。終末信仰に生きる彼らは、将来起こることを知る知恵をもって生きています。「神は秘密を明かし、将来起こるべきことを知らせようとなさった」(2・29)。

 

2.朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな

(1)6節「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」。ミレーの「種蒔く人」という絵があります。主イエスも農夫の種蒔きの様子を見ながら、種蒔きの譬えを語られました。マルコ4章1~20節。当時、農夫は土を掘って種を蒔くのではなく、畑に向かって種を撒き散らします。実を結び種もあれば、実を結ばない種もあります。どの種が実を結ぶのか分かりません。効率の悪い作業です。しかし、コヘレトは語ります。朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。種を蒔き続けなさい。この御言葉も冒頭の御言葉と同じように、御言葉の種を蒔き続けよ。実を結ぶものはあれかこれか分からなくても、手を休めるなと、受け留められて来ました。

 7節「光は快く、太陽を見るのは楽しい。長生きし、喜ぶに満ちているときにも、暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべては空しい」。「空しい」という言葉は「束の間」という意味です。コヘレトは終末信仰に生きません。終末の望みに生きません。死で全てが終わるという信仰に生きています。それ故、今、ここで、なすべきことをしようと勧めるのです。6節の御言葉は、ルターの言葉と響き合っています。「たとえ明日、終わりが来ようと、わたしは今日、りんごの木を植える」。

 

(2)9節以下で、コヘレトは若者に向かって語ります。「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ」。ところが、最後はこの言葉で結ばれています。「若さも青春も空しい」。コヘレトはやっぱり虚無主義者だと言われます。「空しい」という言葉は「束の間」という意味です。当時の平均寿命は40歳に満たなかったと言われています。30代で亡くなる方が多かったのです。20代の若者にとって、後僅かな命です。人生は束の間で、短い。それ故、「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青春時代を楽しく過ごせ」と勧めるのです。

9b節「心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい。神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。心から悩みを去り、肉体からの苦しみを除け」。コヘレトは終末信仰に生きません。それ故、終わりの日の裁きも信じません。「お前を裁きの座に連れて行く」を、小友聡先生は「神があなたを支配して導く」と訳しています。束の間の人生だからこそ、神の御支配の中にある人生だからこそ、今、ここに、なすべきことをなして生きようと勧めるのです。11章9節からの若者への勧めは、12章2a節までが一つのまとまりです。束の間の命だからこそ、「青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ」が強く響いて来ます。本日8月9日は長崎に原子爆弾が投下」されました。来週15日には敗戦記念日を迎えます。太平洋戦争で犠牲になった若き命、学徒出陣し、20代の若さで散って行った命を思わずにおれません。

 

3.最悪のシナリオを想定して

(1)小友聡先生が最近出版された本に、『コヘレトと黙示思想』(教文館)があります。コヘレトの言葉の論文集です。その中に、「最悪のシナリオを想定して~コヘレト11:1-6をめぐる考察~」があります。そこでジャーナリストの水木揚さんの「実践的未来予測のススメ」という文章を紹介しています。

「(将来について)最悪のシナリオを描けば描くほど、何をなすべきか、してはならないかが見えてくる。・・シナリオを描けば未来はやってくるものではなく、選び取るものであることが分かってくる。悪夢のシナリオを回避するための対策を、いつの間にか立てていることになるからだ。いわば『建設的悲観論』と言ってもいい。予測するということは、意志を持つことである。意志なき予測は、ただの戯れ言でしかない」。

小友先生は「建設的悲観論」こそ、コヘレトの信仰だと語るのです。最悪のシナリオを想定して、悲観主義に陥り、否定的な結論しか見えず、何もしないのではない。今、ここで、最善の道を選び取って行く。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」。

 

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 8月9日の祈り マタイ18・20

「主よ、われらの神よ、あなたはわれらの父です。われらはあなたを賛美します。われらはイエスの名によって互いに交わることをゆるされています。イエスはあなたに対する目をひらいてくださいました。われらがその名によって集まる時、われらのただなかにいてくださることを約束してくださいました。自分の人生が暗く見え、困難になろうとする時にも、われらの人生をたえず明るいものとしていてください。どんな試練と戦いの中にあってもわれらを守ってください。われらを解放してください。われらを自由な人間にしてください。自由な人間は知っています。自分があなたのものであることを。すでにこの地上で永遠の生命にあずかることをゆるされていることを。アーメン」。

bottom of page