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2023年8月16日

第298回「コヘレトの言葉を黙想する12~青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ~」

コヘレトの言葉12章1~14節

井ノ川勝

1.青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ

(1)コヘレトの言葉を黙想して来て、最後の12章になりました。その冒頭に、コヘレトの言葉の中で最も知られている御言葉があります。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」。口語訳では「あなたの若き日に、あなたの造り主を覚えよ」。聖書協会共同訳では「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」。教会学校、キリスト教学校で繰り返し語られて来た大切な御言葉です。コヘレトの言葉の結びに、若者への呼びかけの言葉があることは、印象深いものがあります。前回学んだ11章9節~12章2節が、若者への呼びかけの言葉となっています。「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青春時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け」。そして12章1節の言葉が語られます。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」。

(2)ところが、肯定的な言葉だけが語られているのではありません。否定的な言葉が続きます。11章9b節「知っておくがよい。神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい」。12章1b節「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と、言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに」。このような言葉を心に留めると、コヘレトはやはり虚無主義者であったと思ってしまいます。しかし、コヘレトは全ては空しいと嘆いているのではありません。当時の平均寿命は40歳に満たなかったと言われています。30代で亡くなる方が多くいたのです。従って、10代、20代の若者の青春の日々は束の間であったのです。「若さも青春も空しい」は、「束の間」という意味です。それ故、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」が重く響いて来ます。束の間の人生にあっては、切実な問いかけです。しかし、このことは若者だけに語られている言葉ではなく、あらゆる世代に人々に向かって語られている言葉でもあります。「あなたの若き日に、あなたの造り主を覚えよ」。今、この時に、あなたの造り主を覚えて、生きなさい。

2.塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る

(1)12章2~8節は、1章2~11節の御言葉と響き合っています。「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。・・太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった」。いきなり虚無主義的な言葉から始まっていました。コヘレトの言葉の本論は、1章2節「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」で始まり、12章8節「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と」で結ばれています。コヘレトは虚無主義者であったと言われる所以がここにありました。しかし、果たしてそれはどういう思いで語られているのかが、コヘレトの言葉を読み説く急所でした。

 12章3節「その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める」。力ある男も、高齢による膝や手の震えが生じ、腰が曲がって行きます。「粉をひく女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉をひく音はやむ」。歯が抜け、視力が低下し、耳が遠くなることです。4節「鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる」。高齢とともに、朝の目覚めが早くなり、声がしわがれ、音程が低くなる。5節「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある」。高齢になると坂道を登るのが怖くなり、道を歩くことに困難が生じます。「アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける」。アーモンドは春に白い花を咲かせます。高齢とともに、白髪になり、いなごが重荷を負うように、腰が曲がって、足取りがおぼつかなくなります。「アビヨナは実をつける」は、「アビヨナはしぼむ」とも訳せます。体力が衰える。

「人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る」。人は最後に死を迎える。泣き手は葬列に加わり、見送りをする。6節「白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりの壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる」。いずれの譬えも、どんなに尊い命も、死によって砕かれることを表しています。

7節「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」。既に3章20節でこう語られていました。「すべては塵から成った。すべては塵に帰る」。コヘレトが創世記2章7節の人間創造の御言葉を思い起こして語っています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。土の塵から造られた人間は土地の塵に帰って行きます。聖書協会共同訳はこう訳しています。「塵は元の大地に帰り、息はこれを与えた神に帰る」。「霊」は創世記2章7節では、「息」でもあります。人間は神の息を注がれて生き、やがて息は取り去れます。神から命を与えられた人間は、神から命を取り去られ、神に帰って行きます。ヨブの信仰でもあります。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1・21)。

 

(2)この段落は、「その日には」という言葉から始まっていました。この言葉は預言者が終末を語る時に、用いた言葉です。例えば、イザヤ書27章です。「その日、主は、厳しく、大きく、強い剣をもって、逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、また海にいる竜を殺される。その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを守る」。「その日には」は終末の審きの日であり、救いの日である。預言者にとっては、「歴史の終末」「世界の終末」を表す重要な言葉です。しかし、コヘレトは「歴史の終末」「世界の終末」を信じません。「その日には」を「個人の終末」である死を表す言葉として用いています。私どもの終わりにあるのは死であると捕らえています。

 コヘレトの言葉の本論は、「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」で始まり、「なんという空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい」で結ばれています。コヘレトが虚無主義者であることを表す象徴的な言葉として受け止められて来ました。しかし、聖書協会共同訳は口語訳に戻しました。「コヘレトは言う。空の空、空の空、一切は空である」。「空の空、とコヘレトは言う。一切は空である」。コヘレトは「空」という言葉を38回も用いています。しかも「空」という言葉には、いろいろな意味が込められています。「空しい」「儚い」「無意味」「不条理」「束の間」。「空しい」と訳してしまうと、「空」の意味が限定されてしまう恐れがあります。小友聡先生は「空」を「束の間」と捕らえました。「塵は元の大地に帰り、息はこれを与えた神に帰る。空の空、とコヘレトは言う。一切は空である」。土に塵から造られた私ども人間は、神の息を注がれて生きる存在となりました。やがて息は取り去られ、息を与えた神の許に帰ります。私ども人間の命は束の間です。それだからこそ、「あなたの若き日に、あなたの造り主を覚えよ」。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな」。今、ここで、神から与えられた命を生きることを、大切にして行くのです。

3.神を畏れ、その戒めを守れ

(1)コヘレトの言葉は12章8節で結ばれ、9節以下は後に加えられたと言われています。小友先生は本論は8節で結ばれ、9節以下はコヘレトが後書きとして記したと受け留めています。9節「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した」。「突き棒」は牛を導く棒、羊を守る杖でもある。知恵は私どもを導く杖。私どもの心に打ち込まれた釘。「ただひとりの牧者に由来し」。牧者は知恵の教師、指導者である。ここでは「ただひとりの牧者」とある。多くの詩編を作ったダビデを指し、ダビデのような救い主を暗示しているとも受け留められる。

 12節「それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも、一切の技を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう」。「神を畏れ、その戒めを守れ」。知恵文学の中心にある格言です。箴言1章7節「主を畏れることは知恵の初め」。ヨブ記28章28節「主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別」。

 「神は、善をも悪をも、一切の業を、隠されたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう」。コヘレトは終末の審きを信じません。善も悪も。一切の業も、隠されたこともすべて、神の御支配の中に置かれる。

(2)コヘレトはダニエル書の終末信仰を批判し、今、ここで、神から与えられた命を生きることを重んじました。コヘレトは紀元前150年頃にまとめられた、旧約聖書で最も新しい書物です。これ以降、ユダヤ教団には三つのグループが生まれました。終末信仰に生き、禁欲主義的な生活をしたエッセネ派。復活を否定したサドカイ派。律法と知恵を重んじたファリサイ派です。ダニエル書の信仰に生きたグループはエッセネ派です。コヘレトはサドカイ派とファリサイ派に共通する信仰に生きていると言えます。コヘレトから直接キリストへ繋げることは難しいでしょう。マタイ福音書25章で、主イエスは終末信仰に立ちながら、今を目を覚まして生きなさいと勧められました。終末に救い主が来ることを待ち望みながら、今、目を覚まして生きることを勧められました。

4.御言葉から祈りへ

(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 8月16日の祈り シラ書(集会の書)2・3「主に寄りすがり、決して離れるな。そうすれば、豊かな晩年を送ることになる」。

「愛しまつる在天の父よ、あなたの子であるわれらに必要なものをあなたが与えてくださるために、われらはみまえにあります。あなたの子らは、自分自身によっては方策も立たず、何もできません。御霊によるほかはないのです。みことばによってわれらを照らしてください。みことばはあなただけが与えてくださるものです。あなやはそのことばを更に与えようとしてくださいます。そしてわれらはしっかりと、確信をもって、明確に、自分がどのようにしたらあなたに仕えうるか、イエス・キリストによって地上に明らかにされるすべての真理に仕えうるかを知るのです。み手のうちにわれらを守り、われらを苦しめるものにあっても強められ、われらの心のうちにおそれとおののきではなく、よろこびと忍耐を抱くことができるようにしてください。アーメン」。

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