「ここが変わった『聖書協会共同訳聖書』(新約聖書)」
2024年9月29日
副牧師 矢澤美佐子
翻訳は、私たちと神様との出会いを演出する
多くの人たちが何度も何度も一つの聖書翻訳を読んでいますと意味が固定され、読み慣れてしまい、感動が薄れてしまうということが起こってきます。聖書は、意味が固定されている「情報」という形では掴みきれないものが記されています。新しい未知の事柄が表現されている、膨らみのある文章です。
ですから、翻訳作業というのは、読み慣れて、神様の出会いが難しくなっている所に、新しい意味を発生させることです。つまり、新しい聖書翻訳は、前の訳を否定しているわけではありません。口語訳聖書が文語訳聖書を否定したのではなく、新共同訳聖書が口語訳聖書を克服したわけでもありません。新しい聖書によって、神様の御言葉が動き出し、主イエス・キリストの物語に色がつき、深みのある神様の出会いを体験することになるのです。
神様と出会うためには、聖書の言葉が、横のほうに滑っていくのではなく、縦に読み込む、彫り込むように読んでいきます。固くなった聖書の言葉の意味を耕して、新しく立ち現れた意味を吟味する・味わい直す必要があります。そのために原文に戻り、訳を検討しながら翻訳し直すことが必要だったのです。聖書が耕され、踏みならされ固くなってしまった表面を柔らかくした豊かな聖書翻訳から、様々な植物が生え、色々な色の花が咲いていきます。そんな風に、新しい翻訳によって、私たちとの神様の新しい出会いが起こり、新たな聖書世界が広がってほしいと思います。
聖書翻訳理論
① 共同訳聖書(1978年)-動的等価理論
聖書を読むことによって、情感を沸き起こし、行動を促すような翻訳。つまり、原典を読んだ人が得たものと同じ情報や感情、そして行動への促しを、翻訳されたものを読んだ人にも伝わるようにする。そのためには、大胆でクリエイティブ、そして、分かりやすくダイナミックな翻訳であることが、動的等価理論の中核になります。しかし、教会内での使用には相応しくないという声が多くあがり、共同訳聖書の作成は途中で打ち切られました。
② 新共同訳聖書(1987年)
一般の人にも分かりやすく、教会内でも読まれる聖書であることを目指しました。ダイナミックな意訳という動的等価理論が残ったため、分かりやすい訳となりましたが、ない言葉を補ったり、不必要に説明を加えたりするという箇所が散見されます。
③ 聖書協会共同訳(2018年)・・・スコポス理論
スコポス(ギリシャ語)「目的」「目標」といった意味です。今回のスコポス(目標)は、カトリックとプロテスタント教会の礼拝、礼典に相応しく、日本語としての格調高さ、荘厳さを求め、動きのあるダイナミックさも同時に追求する、というものです。
原語担当者と日本語担当者との共同作業
今回のプロジェクトの大きな特徴は、聖書の原典・原語担当者と日本語の担当者が初めから二人三脚で翻訳を進めるという方法です。まず、第一段階で原語担当者が数行だけ訳します。それをすぐ日本語担当者が手を入れ、その次に二人が直接会って話し合います。これまでの新共同訳聖書では、日本語担当者からは妥協した意見しか言えなかったという反省があります。そこで今回は、日本語担当者の美しい日本語センスを早い段階から取り入れることにしました。新共同訳聖書では90人の委員のうち、女性はわずか3人でした。今回は148人中、女性は34人に増加し、女性の意見も多く反映されました。
聖書協会共同訳聖書・新約聖書のここが変わった
原文に忠実に動きのある訳へ
マルコによる福音書1:10
〈聖書協会共同訳〉「そしてすぐ、水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのを御覧になった」
〈新共同訳〉「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」
〈口語訳〉「水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった」
〈文語訳〉「かくて水より上るをりしも、天さけゆき、御靈、鴿のごとく己に降るを見給ふ」
全ての動詞が同時進行であることを原文から新たに分かった。水から上がりつつ主イエスが見ると、天が裂けつつ、鳩が降りつつ、全てが同時に起こっていました。新しい訳では、ダイナミックな描写となりました。
説明し過ぎて狭い意味に閉じ込めず、想像をかきたてる訳へ
今までの新共同訳聖書では、訳が親切すぎて意味が限定されてしまい、動きが小さくなってしまいました。目標にかなう訳があるなら、古い訳に戻るということをしています
コリントの信徒への手紙二5:17
〈聖書協会共同訳〉「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です」
〈新共同訳〉「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」
〈口語訳〉「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」
〈文語訳〉「人もしキリストに在らば新に造られたる者なり、古きは既に過ぎ去り、視よ、新しくなりたり」
パウロの手紙には、キリスト者とはどのような存在かと言い表す時に、英語in Christに当たるギリシャ語「エン・クリストー」が頻繁に出てきます。この箇所は、キリスト者である私たちはどこにいるのか、が重要です。キリストの内にいるのです。キリストという領域におり「キリストにある」存在を重要にしています。
しかし、新共同訳の「一致する」や「結ばれる」では、キリストと私という二つの独立した関係が強調されます。パウロは「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤの信徒への手紙2:20 聖書協会共同訳)。キリストの内に私はいる。それと同時に、私の内にキリストがおられる。私の意志や努力、力ではありません。私たちは、神様が創造する新しい「世界」の開始に巻き込まれ、キリストの内にいるのです。
「キリストの真実」キリストの十字架によって私たちは救われる
ガラテヤの信徒への手紙2:16
〈聖書協会共同訳〉しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。
〈新共同訳〉けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。
〈口語訳〉人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
〈文語訳〉人の義とせらるるは律法の行爲に由らず、唯キリスト・イエスを信ずる信仰に由るを知りて、キリスト・イエスを信じたり。これ律法の行爲に由らず、キリストを信ずる信仰によりて義とせられん爲なり。律法の行爲によりては義とせらるる者一人だになし。
私たちが義とされる、救われるのは、私たちがキリストを信じたからでしょうか?それとも、キリストが私たちの罪を全て負い十字架で死んでくださった、この贖いの真実によるものでしょうか?
義=私たちの力や行いではなく、主の十字架の贖いによって私たちが救われる。ここに神の義が現される。
① これまで「キリストへの」と訳されてきた「クリストゥー」(ギリシャ語)は、「キリストの」と訳すことも可能です。「キリストへの信仰」によって義とされる。「キリストの信仰」によって義とされる。
私たちの側の力や行い、信仰によるものか、キリストの十字架の贖いによるものか。
② これまで「信仰」と訳されてきた「ピスティス」(ギリシャ語)は「真実」、「誠実」と訳すことが可能。
何によって救われるのか?イエス・キリストが私たちを救うために命を捧げて下さったという誠実
さです。私たちの力、行い、信仰によるのでなく、主イエスが、神から与えられた使命に誠実に仕
え、人に仕え、十字架につかれた「キリストの真実」によって、私たちは救われ義とされるのです。
この箇所は、どちらの意味とも訳し得る「ピスティス・クリストゥー」という表現をパウロは用いています。これは、私たちが信仰の営みの両側面の重要さ、私たちとキリストの間の信頼関係も強く心に留めるように促しているとも考えられます。
苦難と忍耐を通して練られ、その人に神様から与えられてくる恵み「品格」、「品性」
ローマの信徒への手紙5:3~4
〈聖書協会共同訳〉「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです」
〈新共同訳〉「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」
〈口語訳〉「患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」
〈文語訳〉「然のみならず患難をも喜ぶ、そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり」
品格、品性「ドキマゾー」:吟味して、本物であることを証明する、と言う動詞に由来している。そこから、吟味された結果明らかになってきたのが「本物としての性格」です。ここでは、「練習、訓練を重ね、自分の力で得る」という意味の練達、熟達ではないことが分かっています。
人格が、苦難と忍耐を通して練られ、その人に神様から与えられてくる「品格」、「品性」という訳語が、より的確かつ魅力的ということになりました。
新約聖書翻訳者:「私たちは、苦難を経験し、忍耐しさえすれば、素晴らしい品格が備わり、その結果希望を持つことができるようになる、ということではありません。神からの一方的な恵み、すなわち、イエス・キリストが成し遂げて下さった救いの御業が先にあるのです」
忍耐している自分を誇るのでもなく、強くなっていく自分を誇るのでもない。試練の中で弱くなる私たちに、弱さの中にキリストの御力が現されていきます。自分の力を誇る頑なさが削ぎ取られ、柔和で、慈愛に満ちた、やわらかな信仰、神様から「品格」が与えられてくるのです。
強調点が変わってしまった箇所
ヨハネによる福音書2:20
〈聖書協会共同訳〉それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」と言った。
〈新共同訳〉それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
〈口語訳〉そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
〈文語訳〉ユダヤ人いふ『この宮を建つるには四十六年を經たり、なんぢは三日のうちに之を起すか』
この箇所には元々原文には「あなた」という代名詞があります。「あなたは三日で建て直すのか」と「あなた」が強調されています。それを新しい訳では削除しました。文を短くすることによって、朗読のテンポを良くするため、動きを持たせダイナミックに描写するためと言われています。しかし、強調点が、「あなた」ではなく、「三日で建て直す」ことに移されてしまいました。イエス・キリストが強調されなければなりません。外国語聖書では、わざわざYOUを大文字にしているほどです。
聖書の行間を味わうために、美しさを残し、想像力を膨らませる
マタイによる福音書2:1
〈聖書協会共同訳〉イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。
〈新共同訳〉イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。
〈口語訳〉イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った。
〈文語訳〉イエスはヘロデ王の時、ユダヤのベツレヘムに生れ給ひしが、視よ、東の博士たちエルサレムに來りて言ふ。
「博士」はギリシャ語マゴスの訳で、マジック「魔術」の語源となった言葉です。東方の魔術、夢占い、占星術、神学、哲学に通じた学者を意味するようになりました。1880年の明治元訳から口語訳までは「博士」と訳されました。日本語訳では100年近く「博士」という訳が定着していましたが、1987年新共同訳が「占星術の学者」としたのを皮切りに、岩波訳など様々な個人訳で「占星学者たち」「占い師たち」など星占いを意味する訳が続きました。占星術を駆使していることから「博士」より「占星術の学者」の方が正確なのかもしれません。しかし、占いだけに小さくせず、博士とすることによって、想像力も膨らみます。さらに「礼拝での朗読に相応しい格調高く美しい日本語」という翻訳方針に沿って、朗読した際の美しさを優先させています。主イエスの誕生の周囲で繰り広げられている、人間模様が美しい想像をかき立てる、以前の訳に戻りました。
ルカによる福音書7:38
〈聖書協会共同訳〉背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。
〈新共同訳〉後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
〈口語訳〉泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
〈文語訳〉泣きつつ御足近く後にたち、涙にて御足をうるほし、頭の髮にて之を拭ひ、また御足に接吻して香油を抹れり
特別注目するポイントは、「イエスの背後」と「足もと」という矛盾です。この箇所の「足もと」は、主イエスの前方であり、背後ではありません。新共同訳では「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし」となっています。つまり、前方と背後の矛盾を避けるために「後ろから」と「その足もとに近寄り」とすることによって、後ろから前方へ移動したという訳にしています。矛盾は解決しましたが、原文から外れ、ギリシャ語には「から」や「近寄り」という動詞は存在していません。「近寄り」ではなく「立った」ですので、意訳になってしまいました。新しい訳では「背後に立ち、イエスの足もとで泣きながらその足をぬらした」で矛盾は解消しないままです。
聖書には書いてない部分があり、ある場面はその大まかな表現のために詳細は不明のままです。分かりやすくするために、言葉を補う必要がありますが、それが行き過ぎれば意訳となりますし、読む人の想像力をかき立てるチャンスを無くしてしまいます。
今回の聖書では、「翻訳者が神様との出会いを記述したり、その結果を発表したりするのではなく、読む人に出会いを演出しなければならない」そのような努力がなされています。
新しい訳で、矛盾のまま置かれている箇所もあり、簡潔な文言にも深い意味が凝縮されています。私たちはこの不明な部分、矛盾がある部分、書いていない部分を、行間を読み、聖書の言葉から想像を膨らませ、向こうからやってくる神様と出会うというのも聖書の魅力です。
ヨハネによる福音書1:5
〈聖書協会共同訳〉光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
〈新共同訳〉光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
〈口語訳〉光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
〈文語訳〉光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。
直訳は「闇は、これを 掴まなかった」となります。「掴む」というのは、「把握する」、「理解する」という意味になります。また「掴む」は「打ち負かす」から「勝つ」と表現することもできます。
ですから、「闇は光に勝たなかった」でも「理解しなかった」の両方の意味が可能です。そこで、新しい聖書では、注に別訳として新共同訳の「理解しなかった」を載せて、本文では「勝たなかった」を採用しています。光の勝利を美しく描写し、想像をかき立てる方を選んでいます。
「やみ」、「暗闇」が新しい聖書では「闇」と訳しています。今回の日本語担当の先生方が苦心されたところと言われています。「礼拝に相応しい簡潔な訳文」というところで、「暗闇」より「闇」という言葉のリズムに苦心されています。
最後に
聖書の伝えるメッセージは、新聞やテレビなどの情報、映像、音、動画とは大きく違い、純粋な言葉だけによる伝達です。この世に生きる私たちが、この世を超える神様の御言葉を読む時、言葉の力は無限に広がっていきます。
例えば、私たちは大切な恩師からの手紙を、その人が亡くなってからも何度も繰り返し読みことがあることでしょう。愛する人の名前が書かれた文字を見ただけで、心に温かいものが広がっていきます。大切な人が書いた文字、愛する人が書いた文字、言葉は、単なる「文字以上の次元」があることを体験されているのではないではないでしょうか。
聖書も同じです。聖書に書かれている御言葉は、「文字以上の次元」、無限の広がりを見せてくださるのです。神様の霊が働いています。
聖書の翻訳は人間の英知を結集して、常に研究し前進していきます。聖書考古学は様々な新しい発見があります。聖書の本文批評はそれまでとは違った聖書の読みが発見されていきます。翻訳理論も改善されていきます。時代の英知を結集して、次の世代の人々に託していきます。聖書の翻訳作業に終わりはありません。いまの時代の翻訳は、次の時代に引き継がれる未来への遺産となりました。