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「ここが変わった『聖書協会共同訳聖書』(旧約聖書)」

2024年9月29日

牧師 井ノ川勝


1.「聖書協会共同訳聖書」の方針と特色

(1)聖書は何よりも、礼拝で朗読され、聴かれることにより、伝えられてきた御言葉である。そのことを大切にして翻訳した。

(2)「新共同訳聖書」は日本人が読んで分かる訳を心がけた。意訳が多い。それに対し、「聖書協会共同訳聖書」は原文の意味を失わないよう心がけた。

(3)聖書は私たちにとって「いのちの言葉」です。御言葉が私たちを慰め、立たせ、命を与え、死

  を超えた望みを与えます。聖書翻訳は私たちの命に関わるものです。

(4)「新共同訳聖書」に引き続き「聖書協会共同訳聖書」も、プロテスタント教会とカトリック教会との共同訳である。

 

2.ここが変わった「聖書協会共同訳聖書」

(1)出エジプト記3章14節

(聖書協会共同訳)「私はいる、という者である」

(新共同訳)「わたしはある。わたしはあるという者だ」

(口語訳)「わたしは、有って有る者」

(文語訳)「我は有りて在る者なり」

 旧約聖書の中で、「神の名」を表す最も重要な御言葉です。英語の聖書では、`I am who I am` 

翻訳するのに苦労する御言葉です。「エヘイェ」。「文語訳」以来、「わたしは有りて在る者」という

訳を基本的に受け継いできました。しかし、「聖書協会共同訳」は大きな転換をしました。「私はい

る、という者である」。3章14節の御言葉は、12節の御言葉と響き合っています。「私はあなたと

共にいる」。この御言葉との関連を意識して、「私はいる、という者である」と訳しました。

問題は、日本語で神の存在を表す時に、「いる」と「ある」とはどういう響きを立てるでしょう

か。「ある」という方が力強い響きを立てているように思えます。

 「わたしはあってある者」。この御言葉と響き合うのが、主イエスが自らを語られたこの御言葉です。「わたしである」(ヨハネ18・5,6,8)。「聖書協会共同訳」もヨハネ18章5,6,8節では、「私である」と訳しています。この主イエスの御言葉と対応させるためにも、「わたしはある」

と訳した方が良かったと思います。

 

(2)創世記1章27節

(聖書協会共同訳)「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に

創造された」

(新共同訳)「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創

造された」

(口語訳)「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創

造された」

(文語訳)「神其像の如くに人を創造り給へり即ち神の像の如くに之を創造り之を男と女に創造り

給へり」

 神の人間創造、人間とは何者かを表す大切な御言葉です。原文は「神のかたち」(ツェレム)で

す。「新共同訳」は「神にかたどって」と意訳しました。「聖書協会共同訳」は元に戻し、「神のか

たち」としました。教理で「人間とは何者か」を問う時に、「神のかたち」「神の像」としての人間

と言い表す大切な御言葉です。「神のかたち」とは、神と向き合う存在。「我と汝」と呼び合う人格

的な交わりにあるのです。

 

(3)詩編23編1節

(聖書協会共同訳)「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。主は私を、緑の野に伏させ、憩い

の汀に伴われる」

(新共同訳)「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、

憩いの水のほとりに伴い」

(口語訳)「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に

伏させ、いこいのみぎわに伴われる」

(文語訳)「エホバわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。エホバは我をみどりの野にふさせ、い

こいの水濱にともなひたまふ」

 聖書は日本語、日本文学に大きな影響を及ぼしました。その代表的な御言葉が詩編23編です。

多くの方が口ずさむ御言葉です。「文語訳」「口語訳」の「主はわが牧者、われ乏しきことあらじ」

は、日本人に親しまれた御言葉です。「新共同訳」は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることが

ない」と訳を大きく変えました。「わが」という代名詞を省略しました。「聖書協会共同訳」は「主

は私の羊飼い。私には乏しいことがない」と、一部「口語訳」に戻りました。

 聖書は美しい日本語を受け継ぐ使命があります。その最たるものが、「いこいの水濱」「いこいの

みぎわ」。「新共同訳」は「憩いの水のほとり」とし、「みぎわ」とう名の方を失望させました。「聖

書協会共同訳」は「憩いの汀」とし、元の訳に戻しました。

 

(4)詩編31編2節

(聖書協会共同訳)「主よ、あなたのもとに逃れます。私がとこしえに恥を受けることが、ないよ

うにしてください。あなたの正義によって私を救い出してください」

(新共同訳)「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥を落とすことなく、恵みの御業によっ

てわたしを助けてください」

(口語訳)「主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。とこしえにわたしをはずかしめず、あなたの

義をもってわたしをお助けください」

(文語訳)「エホバよわれ汝によりたのむ。願はくはいづれの日までも愧をおはしめたまふなか

れ。なんぢの義をもてわれを助けたまへ」

 詩編31編2節の御言葉は、ルター聖書の福音を再発見した重要な御言葉です。宗教改革のきっ

かけとなった御言葉です。ルターは「神の義」を恐れていました。「神の義」は不義なるものを徹

底的に審くものと理解していたからです。ルターが詩編の講義をしていた時、詩編31編2節の御

言葉に触れました。「あなたの義をもってわたしをお助けください」。「神の義」と「わが助け」「わ

が救い」が深く関わりを持つことに驚きました。それがローマ書1章17節の御言葉に繋がって行

きました。「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰に

よる義人は生きる』と書いてあるとおりである」。

 「文語訳」「口語訳」は「なんぢの義」「あなたの義」と訳しました。「ツェダカー」。しかし、新

共同訳」は「恵みの御業」と意訳しました。「義」という言葉が日本人には分かり難いと判断した

のです。カトリック教会の影響もあったと思います。詩編の他の箇所も、「義」をすべて「恵みの

御業」と訳しました。しかし、「義」という言葉は不義なるものを徹底的に審き、神の義を貫かれ

る。その神の義によって、不義なるものが義とされるのです。十字架のキリスト・イエスの贖いの

義を通して、不義なる私たちは義とされるのです。

「聖書協会共同訳」は「あなたの正義」と訳しましたが、「あなたの義」と訳すべき御言葉で

す。プロテスタント教会の信仰の土台となる御言葉だからです。

 

(5)コヘレトの言葉1章2節

(聖書協会共同訳)「空の空、空の空、一切は空である」

(新共同訳)「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」

(口語訳)「空の空、空の空、いっさいは空である」

(文語訳)「空の空、空の空なる哉。都は空なり」

 「文語訳」以来、「空の空、空の空、いっさいは空である」という訳が定着していました。しか

し、「新共同訳」は「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と意訳しました。

「空」(ヘベル)という言葉は、「空しい」という意味だけでなく、「儚い」「無益」「無意味」「矛

盾」「不条理」「無」という様々な意味が込められています。「なんという空しさ」は、「ヘベル」の

一部の意味しか表していません。それ故、「空の空、空の空、一切は空である」という訳がふさわ

しいと言えます。

 

(6)コヘレトの言葉8章15節

(聖書協会共同訳)「そこで、私は喜びをたたえる。太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほ

かに、人の幸せはない。これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦を伴うものである」。

(新共同訳)「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって、飲み食いし、楽し

む以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の、日々の労苦に添えられたもの

なのだ」。

(口語訳)「そこで、わたしは歓楽をたたえる。それは日の下では、人にとって、食い、飲み、楽

しむよりほかに良い事はないからである。これこそは日の下で、神が賜った命の日の間、その勤

労によってその身に伴うものである」。

(文語訳)「是に於て我喜楽を讃む。其は食飲して楽しむよりも好き事は日の下にあらざればな

り。人の労して得る物の中是こそはその日の下にて神にたまはる生命の日の間その身に離れざる

者なれ」。

 コヘレト(集会を司る者)の言葉は、これまで虚無主義的、厭世主義的な言葉として捉えられて

きました。しかし、小友聡教師の『コヘレトを読もうー「生きよ」と呼びかける書』(日本キリス

ト教団出版局)により、新しいコヘレトの言葉の解釈が明らかにされました。それが聖書協会共同

訳に反映されています。聖書協会共同訳で最も変わったのが、コヘレトの言葉です。小友教師の解

釈はこうです。コヘレトの言葉には、ダニエル書が語る終末信仰がありません。終末の希望はあり

ません。神から与えられた人生は儚く、限りがあります。それが「空」です。しかし、神から与え

られた今日を、精一杯、喜んで生きて行くことこそ、信仰の中心です。

 その表れが、8章15節です。「文語訳」以来、「わたしは快楽をたたえる」と訳されてきまし

た。人生は空しいから、せめて日々、飲んで、食べて、楽しもうという快楽主義的な訳でした。し

かし、「聖書協会共同訳」は「私は喜びをたたえる」と訳しました。太陽の下で、日々、食べ、飲

み、楽しむことは、神から与えられた喜びであると受け留めました。小友教師はこれを「飲み食い

賛美」と称し、神から与えられた喜びの食卓と受け留めました。コヘレトの言葉が新しい光を放つ

訳となりました。聖書解釈により訳がこんなにも変わる典型的な例です。

 

(7)コヘレトの言葉11章1節

(聖書協会共同訳)「あなたのパンを水面に投げよ。月日が過ぎれば、それを見いだすからであ

る」。

(新共同訳)「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすであ

ろう」。

(口語訳)「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」。

(文語訳)「汝の糧食を水の上に投げよ。多くの日の後に汝ふた々び之を得ん」。

 私が「聖書協会共同訳」で心に響いた御言葉の一つが、コヘレトの言葉11章1節です。「あな

たのパンを水面に投げよ」。これまで「あなたのパンを水の上に投げよ」と訳されてきた御言葉で

す。「水面」。文学的で美しい日本語です。聖書を通して、文学的で美しい日本語が伝えられて行く

ことも、主から託された日本伝道の使命です。

 

(8)エレミヤ書31章31~33節

(聖書協会共同訳)「その日が来るー主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契

約を結ぶ。それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約

のようなものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしま

った。―主の仰せ。その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである。-主の仰せ。私

は、私の律法を彼らの胸に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民とな

る」。

(新共同訳)「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言

われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したとき

に結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破っ

た、と主は言われる。しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれであ

る、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたし

は彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。

(口語訳)「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日

が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立て

たようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと

主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。

すなわち、わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神と

なり、彼らはわたしの民となると主は言われる」。

(文語訳)「エホバいひ給ふみよ我イスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立つる日きたら

ん。この契約は我彼らの先祖の手をとりてエジプトの地よりこれを導きいだせし日に立てしとこ

ろの如きにあらず我かれらを娶りたれども彼らはその我契約を破れりとエホバいひ給ふ。然れど

かの日の後に我イスラエルの家に立てんところの契約は此なり即ちわれ我律法をかれらの裏にお

きその心の上に録さんは我は彼らの神となり彼らは我民となるべしとエホバいひ給ふ」。

 エレミヤ書31章31節は、旧約聖書で唯一「新しい契約」という言葉が用いられる重要な御言

葉です。「新しい契約」の仲保者キリスト証言となっています。この箇所は、「~と主は言われる」

という言葉が繰り返されます。口語のこの言い回しは冗長の感が否めません。礼拝で朗読する聖書

の課題です。特に、カトリック教会は礼拝における福音書の朗読を重んじます。中でも主イエスの

言葉です。「主イエスは~と言われた」。やはり冗長の感があります。

 「聖書協会共同訳」はそれを改善し、原文に即し、「主の仰せ」と繰り返しています。しかし、

この言い回しも、礼拝の朗読で聴いた時に、違和感を覚えるのではないでしょうか。むしろ「文語

訳」のように、「主は言われる」と文頭に持ってくると、締まった響きになると思います。

 「聖書協会共同訳」は、「見よ、わたしは新しい契約を結ぶ日が来る」の文頭の「見よ」を省略

しました。聖書の中で最も短い言葉です。しかし、主が重要なことを語られる時に、必ず文頭で語

る御言葉です。このような大切な御言葉は省略すべきではありません。

 

3.礼拝で用いられる祝祷、招詞、十戒、交読詩編

(1)祝祷 民数記6章24~26節

(聖書協会共同訳)「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔の光であなたを照

らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平和を賜るよう

に」。

(新共同訳)「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照ら

し、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るよう

に」。

(口語訳)「願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくは主はみ顔をもって

あなたを照し、あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向けて、あなたに平安を

賜るように」。

(文語訳)「願はくはエホバ汝を恵み汝を守り給へ。願はくはエホバその面をもて汝を照し汝を憐

れみ給へ。願はくはエホバその面を挙げて汝を顧み汝に平安を給へ」。

 礼拝の最後の祝祷、主の祝福の宣言です。問題は「平安」か「平和」かです。これは永遠の課

題です。「文語訳」「口語訳」は「平安」、「新共同訳」「聖書協会共同訳」は「平和」です。「新共同

訳」以来、「平和」と訳されています。甦られた主イエスが家に閉じこもっていた弟子たちを訪ね

られ、挨拶をされました。ヨハネ20章21節。「文語訳」「口語訳」は「平安在れ」「安かれ」。「新

共同訳」「聖書協会共同訳」は「あなたがたに平和があるように」です。

 私は「平安」と訳すべきではないかと思います。「平安」の中に、「平和」も含まれるからです。

 

(2)招詞 詩編34編1~10節

(聖書協会共同訳)「私はどのような時も主をたたえよう。私の口には絶え間なく主の賛美があ

る。私の魂は主を誇り、苦しむ人は聞いて喜ぶ。私と共に主を崇めよ。共に御名を崇めよう。

私が主に尋ね求めると、主は私に答え、あらゆる恐怖から助け出してくださった。主を仰ぎ見る

人は輝き、辱めに顔を伏せることはない。苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き、あらゆる

苦難から救ってくださった。主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き、彼らを助け出した。味

わい、見よ、主の恵み深さを。幸いな者、主に逃れる人は。主の聖なる人よ、主を畏れよ。主を

畏れる人は乏しいことがない」。

(新共同訳)「そのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口には絶えることなく賛美を歌

う。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。わたしと共に主をたたえよう。ひとつになって御名を

あがめよう。わたしは主に求め、主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださ

った。主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人を呼び求める声

を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を

守り助けてくださった。味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄

せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」。

 「新共同訳」は意訳、「聖書協会共同訳」は原文に忠実です。礼拝で朗読する時には、「新共同

訳」の方がリズム感があります。「聖書協会共同訳」で「招詞」を朗読する時には、6~10節が良

いのではないかと思います。「主を仰ぎ見る人は光と輝き」からの朗読です。

 

(3)十戒

 「十戒」は「使徒信条」「主の祈り」と共に、教会の信仰に欠かせない「三要文」です。礼拝で

朗読している「十戒」は「口語訳」です。それを「聖書協会共同訳」に変更するのか。それとも

「口語訳」で朗読することで定着しているので、そのままにするのか。検討課題です。

 

(4)交読詩編

 礼拝における「詩編交読」は改革派の教会が重んじてきたものです。ジュネーヴの教会は詩編

を讃美歌として歌いました。「ジュネーヴ詩編歌」と呼ばれています。「讃美歌21」に納められて

います。

 礼拝で交読している詩編は、詩編32編1~7節、詩編51編3~11節、詩編51編12~19節、詩

編130編1~8節、詩編143編1~6節、イザヤ書11章1~5節です。これらの詩編、イザヤ書は

「新共同訳」です。それを「聖書協会共同訳」に変えるのか、このままにするのか。検討課題で

す。

 

(5)『教会員手帖』の「礼拝案内」

 『教会員手帖』の「礼拝案内」の「聖餐」「洗礼」の式文の文章は、古い「連合長老会編式文」

の文章です。「新しい連合長老会式文」の文章に変更するのか、このままにしておくのか。検討課

題です。

 

4.課題

 教会が使用する聖書を変えることは、礼拝にも関わる重要なことです。一人一人の信仰生活に

も関わります。新しい「聖書協会共同訳」も、良い面と課題があります。聖書翻訳には完成はあり

ません。終末に向かって、何度も翻訳がなされて行きます。

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