「これからの伝道」
2023年11月10日
金沢教会牧師 井ノ川 勝
1.主イエスの大宣教命令に聴き従おう
伝道の出発点は、主イエスの大宣教命令、ペトロ、パウロの宣教命令に聴き従うことから始まる。
伝道に失敗し、挫折した私どもが繰り返し立ち帰る原点である。
(1)主イエスの大宣教命令
「行け、すべての民をわたしの弟子にするために
授けよ、洗礼を、父と子と聖霊の名によって
教えよ、あなたがたに託したことすべてを守るように
わたしはいる、いつもあなたがたと共に、世の終わりまで」(マタイ福音書28章19~20節)
(2)ペトロの宣教命令
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。
ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3章6節)
「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。
この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、
あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、
イエス・キリストの名によるものです。
ほかのだれによっても、救いは得られません。
わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」
(使徒言行録4章10~12節)
(3)パウロの宣教命令
「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前
で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かなに命じます。
御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。
とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(テモテへの手紙二4章1~2節)
2.与えられた恵みを数えて歩もう
(1)マイナスの面ではなく、プラスの面に目を留めよう
「主から与えられた宝を、祈りによって掘り出すことは、まことに真実である」(カルヴァン)。
伝道の消極的な面ばかりに目を留めるのではなく、主から与えられた恵みに目を留めよう。
教勢の低下。新来会者、若者の減少。教会の将来への不安。
しかし、祈りによって与えられた恵みを掘り出す。
(2)ないものではなく、あるものに目を留めよう
伝道する教会のないものばかりに目を留めるのではなく、あるものに目を留めよう。
教会員の高齢化。伝道する体制が整わない。
しかし、主から与えられた一人一人が伝道の宝。一人一人の賜物を生かし、喜んで主に献げる。
3.伝道は喜びから始まる
(1)主から託されたものは、「福音」
主イエスから託されたものは、「福音」(喜びの知らせ)。「良い知らせを伝える者の足は、なんと麗しいことか 」(イザヤ52・7,ローマ10・15)。福音を伝える者の足は、軽やかな喜びの足とされる。悲壮感漂っては伝道できない。伝道することが喜びである。
(2)喜びの礼拝を
私どもの捧げる礼拝が喜びの礼拝となる。御言葉に聴くことが喜び。讃美歌を歌うことが喜び。祈ることが喜び。
「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ふれ伏して神を礼拝し、
『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」(コリントの信徒への手紙一14章24~25節)
礼拝は一期一会の真剣さが伴う。
(3)礼拝しつつ隣の人の配慮を
金沢教会の礼拝は、司式者と会衆が対面する対面方式(講義型方式)から、集中方式、聖餐卓を囲みながら会衆同志が顔と顔とを合わせる形となった。礼拝が私のためだけのものではなく、神の民としての礼拝であることを現している。神を礼拝しつつ、お互いのことを思いやる礼拝を捧げている。隣の礼拝者、新来会者への対応。聖書、讃美歌を開くことを助ける。
(4)祝福を受けて
礼拝は、父、子、聖霊なる三位一体の神の名による祝祷、祝福から派遣される。祝福は派遣命令である。
「行け、すべての民をわたしの弟子にするために」。それは新来会者への声かけから始まる。
4.伝道はしつように頼む祈りから始まる
(1)「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には
開かれる」(ルカ福音書11章9~10節)
主イエスは弟子たちに、「祈るときには、こう祈りなさい」と「主の祈り」を教えられた。その後、祈りは「しつように頼む」ことだと言われ、この御言葉を語られた。諦めずに粘り強く、求め続ける祈りに励みなさいと勧められた。家族のため、友人のために、諦めずに粘り強く祈り続けよう。
(2)「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネ黙示録3章20節)
主イエスこそが諦めることなく、粘り強く、心の戸を叩き続けておられる。主イエスの熱心さに支えられ、促されて、私どもの門を叩き続けるのである。