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第143回信徒セミナー
ここが変わった『聖書協会共同訳聖書』
旧約聖書:矢澤美佐子 新約聖書:井ノ川勝

2025年1月26日

「旧約聖書編」 矢澤 美佐子 副牧師

1.はじめに

聖書の御言葉に触れる時、私たちは自分の罪を深く思い知らされ、打ち砕かれ、頑なな心が解き放たれます。そして、神様の御心に適わないこと、罪の汚れを感じ取ることができるためには、清らかさや美しさに触れ続けなければなりません。私たち自身の力では、清らかさを得ることはできません。聖書の御言葉によって、その道が開かれ、失った愛を取り戻すことができるのです。その魅力を最大限に引き出すために、今回の聖書協会共同訳は、ギリシャ語やヘブライ語の原語に忠実に、深い意味を汲み取り、心に響く美しい日本語を丁寧に探し出す努力がなされました。日本語担当者の表現力が生かされ、私たちに新たな光をもたらしてくれる聖書となりました。

 

2.神様の御言葉の力

 大切な人からの手紙、愛する人の文字。その人がもうこの世にいないと知りながら、それらを見つめると心に温かな感情が広がり、時には涙が頬を伝いながらも勇気づけられていることもあります。それは単なる「文字」ではなく、深い意味、大きな次元を持っていることを誰もが経験してきました。

聖書も似た感覚があります。もちろん聖書は神様の御言葉ですから、比べることができないほど大きな御力が込められています。それは神の御言葉が主イエス・キリストそのものだからです。

例えば、1本のペン。それに一つの言葉を与えるだけで、その存在を変えてしまう。そんな力を言葉はもっているのです。)

聖書は、私たちの生きている状況や環境、時代の中で意味は膨らみ、新しい意味が立ち現れてきます。新しい聖書を読むことによって、私たちはより多彩で豊かな神様との出会いへと扉が開かれるのです。

翻訳作業は、神様との出会いの結果を発表するのではなく、読者に神様との出会いを起こさせることが目的です。これまでの新共同訳聖書は、親切に説明し過ぎて、神様との出会いのチャンスを奪ってしまいました。今回は、原文に忠実に訳し、あえて矛盾は残したままの箇所もあります。私たちが、不明な部分の行間を読み、別の聖書の言葉から想像を膨らませ、向こうからやってくる動きのある神様と出会うということが目指されました。

 

3.ヘブライ語の特徴 -リズム、切れ、間を大切に訳された  

 旧約聖書のヘブライ語は、リズム良く、切れ、間が特徴で、声に出して読むこと、暗唱することが意識されている言葉です。聖書のリズムから、神様の胸のリズムを感じ取ることができるのです。旧約のあの時代に、あの時読んだ人たちが得た、熱い感動や、心を動かされ行動が促されるようなリズムがあります。この神様の胸のリズムを日本語に移し替える必要があります。

旧約聖書のヘブライ語のリズム、「切れ」や「間」には、神様の介入あるいは神様の沈黙が表現されています。私たちが聖書を読む時、物語の意味や知識を深めるだけが目的ではありません。神様の胸のリズムに合わせて朗読する美しさ、神様の心や詩人の心の機微までもが生き生きと伝えられ、神様と新しい出会いが起こることが大切なのです。そのため新しい訳は、礼拝のオルガンの響きや鐘の音とも調和することも意識されています。

 

 

4.ここが変わった「聖書協会共同訳聖書」 旧約聖書の実例

(1)詩編73:1~2

聖書協会共同訳                新共同訳

神はなんと恵み深いことか           神はイスラエルに対して

イスラエルに、心の清い者たちに。       心の清い人に対して、恵み深い。

それなのに私は、危うく足を滑らせ       それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ

今にも歩みを踏み誤るところだった。       一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。

 新共同訳では、「イスラエルに対して」、「心の清い人に対して」とあり、「対して」が堅い響きがありました。新しい訳では、「神はなんと恵み深いことか」から始まり、会衆の心を一気に引き込むことができます。私たちは神様の恵みを知りながらも道を踏み外しがちです。恵みを知っているのに、「それなのに」の言葉に悔恨が込められ、神様の心との落差を見せることで、詩が生き生きと動き出します。新共同訳の「一歩一歩を踏み誤る」ですと、「一歩一歩」に目が行きます。新しい訳では「歩み」とし、「踏み誤る」に視線が行くようにしました。「今にも」の一語が入ることによって、その瞬間が浮き上がり臨場感が高まりました。

 

(2)詩編78:43~45

聖書協会共同訳                 新共同訳

神はエジプトで数々のしるしを          神はエジプトで多くのしるしを与え

ツォアンの野で奇跡を行った。          ツォアンの野で奇跡を示された。

その川を血に変え                川の水を血に変えられたので

その流れを飲めないようにした。         その流れは飲めなくなった。

神は彼らにあぶを送って食いつかせ        あぶを送って彼らに食いつかせ

蛙を送って彼らを滅ぼした。           蛙を送って荒廃させられた。

 「出エジプト」の場面が描かれています。神様が大いなる御力で民を率い導いたこと、時に逆らい落ち込む民を、神様は決して見捨てることがなかったこと、そうした神様と人間の歴史が歌われています。その壮大なドラマを子々孫々にまで語り伝えるためには、情景を生き生きと、目に浮かぶように描くことが大切です。神様の胸のリズムを感じ取り、リズムよく次々と場面を展開させてゆくように訳されました。

 

(3)詩編1:1~3

聖書協会共同訳              新共同訳

幸いな者                 いかに幸いなことか

悪しき者の謀に歩まず           神に逆らう者の計らいに従って歩まず

罪人の道に立たず             罪ある者の道にとどまらず

嘲る者の座に着かない人。         傲慢な者と共に座らず

主の教えを喜びとし            主の教えを愛し

その教えを昼も夜も唱える人。       その教えを昼も夜も口ずさむ人。

その人は流れのほとりに植えられた木のよう。   その人は流れのほとりに植えられた木。

時に適って実を結び            ときが巡り来れば実を結び、

葉も枯れることがない。          葉もしおれることがない。

その行いはすべて栄える。         その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

詩編は、神様への深い信仰がまるで大河の悠久の流れのように淀みなく流れています。神様への信仰の美しさを伝える場面では、音の響きを大切にしなければならない。「しあわせ」とする案もありました。しかし、「幸い」という言葉は、古い言葉で「さきわい」という言葉から音が変化して「さいわい」となりました。万葉の時代から、廃れずに使われてきた言葉で耳にも美しい響きが大切にされました。

 「幸いな者」ヘブライ語で「アシュレー」というこの言葉は、ギリシャ語では「マカリオイ」として山上の説教(マタイ5:3~1)や平地の説教(ルカ6:20~22)で使われています。

 この言葉は、あなたは幸せな者、と告げる言葉ではなく、強い肯定の言葉です。神の御心に適う人としてあるべき姿は、「悪しき者の謀に歩まず 罪人の道に立たず ~」そういうことだと言うのです。「幸いな者」と宣言し「あなたはそのような人であれ」、と強く呼びかけられているのです。

 新共同訳では「いかに幸いなことか」、聖書協会共同訳では「幸いな者」と訳されています。原文には、「いかに」はありませんし、「こと」と意訳してしまいました。

 

(4)詩編1:5~6

聖書教会共同訳                 新共同訳

悪しき者は裁きに                神に逆らう者は裁きに堪えず

罪人は正しき者の集いに耐えられない。      罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

主は正しき者の道を知っておられる。       神に従う人の道を主は知っていてくださる。

悪しき者の道は滅びる。             神に逆らう者の道は滅びに至る。

 原文では「悪い」「正しい」が正確な訳となります。新共同訳は、「悪い」は「神に逆らう」、「正しい」は「神に従う」と説明を加え、読者の想像を狭くしてしまいました。神に逆らう嘆きを訴えながら、神に引きずれるようにして神に委ねている、それも正しい姿とも言えます。読者の想像によって神様と出会う目覚めのチャンスを奪ってはいけません。ここは原文に忠実に「悪い」「正しい」と訳しました。

 「悪い者」は、あまりに直接的できつく聞こえます。そこで文語には言葉の響きに余裕があり、やわらかく聞こえる文語調「悪しき者」、「正しき者」となりました。

 新共同訳「ときが巡り来れば」は、四季の循環、命の循環という日本的な感覚があり一見美しい響きですが、キリスト教信仰に忠実に表現するなら、時は神の国への完成へ向かって進んでいます。時や命は巡るのではなく、神様の相応しい時があり、新しい訳では「時に適って」となりました。

 この言葉で連想するのがコへレトの言葉3:11です。1~8節までは「時」という言葉が繰り返し出てきます。そして11節に「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた」とあります。このように聖書協会共同訳では、他の箇所とも対応させて、原語のヘブライ語に忠実に訳しています。聖書の中で別々の箇所で響き合いが生じ、両方のテキストの意味深さがより増すことになりました。

 

 「正しき者」は「流れのほとりに植えられた木」のように繁栄するけれど、「悪しき者」は滅びてしまう、という単純な因果応報が語られているにすぎないと思われます。そうならこの詩編は、もはや読むに耐えないものであることになります。しかし、この詩編の背景はイスラエルの人々がバビロン捕囚から帰還した後の時代です。この頃、詩人は「悪しき者」たちが繁栄し、「正しい者」たちが抑圧に苦しめられている現実を見ているのです。「正しい者」とは、神様に従うがゆえに、虐げられている人、捕らわれた人、うずくまる人のことだったのです。神様に怒り、嘆きたくなる様な状況の中で、神様に引きずられるように信じて従っている人、貧しく、弱い者のようになっている人こそが、「幸いな者」であると宣言する詩編一編は、渾身の励ましとなっているのです。

 

5.コへレトの言葉は福音なのか

「空の空、いっさいは空である」。因果応報を語り、正しい生活をする者にこそ希望が与えられると説く伝統的な教えに対して、コへレトは痛烈な批判を与えました。コへレトは、この世の現実を見つめ、恐ろしいほどの不可思議なものの前に立たされ「すべては空しい」と、人間の側の破産宣告をするしかありませんでした。そのためコへレトには信仰がないと判断され正典から外すことも議論された程です。

 しかし、どの時代もコへレトの生きた世を彷彿させる現実があります。「コへレトの言葉」に描き出された社会の矛盾や困難、権威にへつらう人間の姿と無常観は、そのまま今の時代を照らし出しています。

 コへレトは、「神」と「空しさ」のあいだで極めて深い思索を行った結果、とことん人間の悲惨を描き、「空の空、いっさいは空である」と語るしかなかったのです。私たちは、コへレトの空しさに困惑し戸惑いながらも、どこかで私たちの心を激しく打ち共感するのです。

 これまで厭世的思想のコへレトは、快楽主義で楽しく生きればいい、と語っており神様への信仰はあるのかと聖書の中でも避けられる書物でした。

 ところが聖書学の進展によって、コへレトは、恐ろしいほどの「空しさ」の中で、揺らぐことのない唯一の確かなもの神様に出会っていると解釈されるようになったのです。

 コへレトは「すべて徹底的に行いなさい」と言っているのです。最善を尽くし、うまくいかない。そして、そのすべてのものが崩れる「空しい」瞬間を味わうかもしれない。それは、人間の努力を否定する論理ではなく、人間の限界を認識するまで、知的活動を徹底してみなさいと言うのです。自分の限界の中で神様を知り、知恵や力の尽くされたところで神様と出会うのです、とコへレトは言うのです。

 私たちがこの世の現実の中で、「空しさ」に捉えられたままでいるのか、それともそこから解放されるのかは、自分の力の限界によって出会った神様を、その「空しさ」を満たすお方として受け入れる決心をするがどうかにかかっている、とコへレトは考えています。

「コへレトの言葉」は、私たちに潜む「空しさ」を徹底的に明らかにしたからこそ、神様の絶大な御力が全てに勝ることを指し示す力強い福音となったのです。

 

(1)コヘレトの言葉3:12

聖書協会共同訳:わたしは知った。一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に人の子らに幸せはない

新共同訳:わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と

口語訳:わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。

新共同訳の表現「喜び楽しんで一生を送る」では、コヘレトが快楽主義者のような印象を受けます。けれども、コヘレトは決して快楽主義者ではありません。聖書協会共同訳では「一生の間、喜び、幸せを造り出す」という今の時を、積極的に生きる誠実な信仰が表現されるようになりました。

 

(2)コへレトの言葉8:15

聖書協会共同訳:そこで、私は喜びたたえる

新共同訳:それゆえ、わたしは快楽をたたえる

口語訳:そこで、わたしは歓楽をたたえる

 厭世主義的、快楽主義的なコへレト理解が過去の訳に影響を与えていましたが、コへレト12:1「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」のように、読者を積極的な生き方へと招いています。ヘブライ語の「スィムハ」は、「快楽」ではなく「喜び」です。

今まで難解だと言われていたコヘレトの言葉が、新しい聖書学の進展によって、囲い込み(インクルージオ)技法などが明らかになり、神様への強い信仰が隠されていることが分かりました。見えなかったコヘレトの誠実で強い信仰が新しい訳で表現されることになりました。

 

 

 

 

(3)コヘレトの言葉3:1~4

聖書協会共同訳:天の下では、すべてに時機があり すべての出来事に時がある

生まれるに時があり、死ぬに時がある。 植えるに時があり、抜くに時がある

殺すに時があり、癒やすに時がある。 壊すに時があり、建てるに時がある

泣くに時があり、笑うに時がある。 嘆くに時があり、踊るに時がある

新共同訳:何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時ある。

生まれる時、死ぬ時  植える時、植えたものを抜く時

殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時

泣く時、笑う時  嘆く時、踊る時

全ての「時」に神が関与しておられることをコヘレトは語ります。新しい聖書協会共同訳では、原典に忠実に訳し、礼拝の朗読に適するように、「定められた時」ではなく、「時がある」と歯切れ良くなりました。「生まれるに時がり、死ぬに時がある。泣くに時があり、笑うに時があり」の方が、神の介入、神の沈黙、神の支配が響くようになりました。

 

6.神様への希望を失ってもなお

(1)哀歌3:18

聖書協会共同訳:私は言った。「私の栄光は消えうせた 主から受けた希望もまた」

新共同訳:わたしは言う「わたしの生きる力は絶えた ただ主を待ち望もう」と

口語訳:そこでわたしは言った、「わが栄えはうせ去り、わたしが主に望むところのものもうせ去った」と。

哀歌は、悲痛な叫びを語り続けます。これまでの新共同訳では3:16~17で自分の力に絶望し、打ち砕かれるようにして、最後にはただ主に望みを置くと解釈されてきました。希望は、自分の力に絶望して、主を信頼することから生まれる。18節は、大事な転換点と思われてきました。

しかし、ヘブライ語を正確に読み取ると、ここは動詞「待ち望もう」ではなく、名詞「希望」であることが分かりました。原文とおりに素直に訳すと、自分の力にも絶望し、さらに主への希望を失ったことになります。新共同訳3:18で主に希望を置くと解釈し、それが読者を明るくさせましたが、ヘブライ語では主への希望も失い、絶望の淵に至ったという意味なのです。18節では希望が見えないのです。

しかし、次の節に転換点があると新たに発見されることになります。

 

(2)哀歌3:19~21

聖書協会共同訳:私の苦難と放浪を 苦よもぎと毒麦を思い起こしてください。

           思い出す度に私の魂は沈む。

           しかし、そのことを心に思い返そう。

           それゆえ、私は待ち望む。

19節で詩人は、過去の苦しみを思い出し沈み込みます。しかし、過去の苦しみの中で、主は助けて下さった。「そのこと」を思い返すのです。それなら未来にもなお主は助けて下さる。そして、22~23節の有名な慰めの言葉へと繋がります。

 

(3)哀歌3:22~23

聖書協会共同訳:主の慈しみは絶えることがない。

           その憐れみは尽きることがない。

           それは朝ごとに新しい。

           あなたの真実は尽きることがない。

 聖書協会共同訳では、自分の力にも絶望し、主にも絶望する程の嘆き苦しみがあると読み取ることができました。しかしそこから、それでも神様の慈しみと憐れみは尽きることがなく、神様は決して私たちを見捨てないと力強く伝えることとなったのです。朝ごとに神の慈しみと憐れみは新たに私たちを包み込みます。どんな困難や試練が起こっても、神様から与えられる私たちへの希望は尽きることはないのです。

 

(4)ヨブ記1:12

聖書協会共同訳:「見よ、彼のすべての所有物はあなたの手の中にある。ただし、彼には手を出すな」

新共同訳:「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな」

口語訳:「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」

 天上の神の会議にサタンが現れます。新共同訳「お前のいいようにしてみるがよい」。神様はヨブをサタンの思うままに任せ、ヨブを見捨てたのでしょうか。

 新共同訳「いいようにする」は分かりやすいかもしれませんが意味の飛躍がありました。新しい訳は、「彼のすべての所有物はあなたの手の中にある」と原文に忠実に訳し、ヘブライ語の特徴であるゴツゴツしたニュアンスを残し、原文の息吹をきちんと伝えようとしています。

特に旧約聖書には文学的な工夫、反復表現、並行法(パラレリズム)、交差配列(キアスムス)、囲い込み(インクルージオ)などが隠されています。新共同訳では、わかりやすさを優先しましたので、文学的な技法を伝えきれませんでした。

 新しい訳では、1:12「手の中にある」については、その前後で「手の業」(10節)、「手を伸ばし」(11節)、「手を出す」(12節)というように、「手」というキーになる言葉が巧みに反復され、物語にリズムを持たせています。新しい訳では、そのような技法を残す努力がされています。

 ヨブの所有物は、サタンの手の中にある。しかし、神様はヨブの周りに垣根を巡らし(10節)、ヨブを神様の力強い御手で守り続けて下さっている。サタンの手に負けない神様の大いなる御手が働いている。神様の御手は止まることなく動き続けている。「手」という言葉を繰り返し使うことで、サタンの手と、神様の大いなる御手が動いていることが表現されました。そして、最終的には、ヨブの所有物は、サタンの手の中にあるかもしれないけれど、ヨブ自身には手を伸ばすなと神様はサタンに命じ、ヨブを神様の大いなる御手で守り抜かれるのです。

この箇所を読む者は、私たちにサタンの手が忍び寄っているかと思うような試練に遭遇しても、サタンに力強く「私の愛する者に手を出すな」と命じ、守り抜いて下さる神様がおられることを知ることができるのです。

 

7.最後に

特に旧約のヘブライ語はゴツゴツとしており、詳しく書かない部分、あいまいな表現が多くあります。新共同訳では、丁寧に訳しすぎてかえって意味が狭くなってしまいました。今回の聖書協会共同訳では、原文に忠実に訳しあえて矛盾のまま残した箇所もあります。

私たちはこの不明な部分を、行間を読み、別の聖書の言葉からも想像を膨らませ、向こうからやってくる、動きのある御言葉を読み、神様と出会うというのが聖書の魅力です。

 これからも聖書考古学、聖書の本文批評は、これまでとは違った新しい発見がされ続け、翻訳理論も改善されていきます。その時代の英知を結集して、聖書の翻訳は、これからも前進していきます。今回の聖書は、次の時代に引き継がれる未来への遺産となりました。

「遺産」この言葉によって、この聖書は、その存在の意味を大きく変えることになるのです。


 




「新約聖書編」 井ノ川 勝 牧師

 

1.「聖書協会共同訳聖書」の方針と特色

(1)「聖書協会共同訳聖書」は、礼拝で朗読されるにふさわしい御言葉であることを目指して翻訳された。聖書は礼拝で朗読され、聴かれる御言葉として受け継がれて来たことを重んじた。

(2)「新共同訳聖書」は日本人が読んでも分かる訳を心がけた。それ故、意訳が多い。「聖書協会共同訳聖書」は原文の意味を失わないよう心がけた。

(3)「新共同訳聖書」に引き続き、「聖書協会共同訳聖書」も、プロテスタント教会とカトリック教会との共同訳である。

(4)聖書は私たちにとって「いのちの言葉」である。生きるか死ぬかを告げる御言葉である。それ故、聖書翻訳は私たちの命に関わる。

 

2.今回の発題の方向性

これまで2回の信徒セミナーで触れた新約聖書の御言葉には触れない。第136回、第142回信徒セミナーのレジメを参照していただきたい。大きく変わった重要な新約聖書の御言葉に触れている。今回は、これまで触れていない新約聖書の御言葉に触れる。そのことにより、「聖書協会共同訳」の特色が見えて来ると思う。

 

3.ここが変わった「聖書協会共同訳聖書」「新約聖書」

(1)ヨハネによる福音書14章6節

(聖書協会共同訳)「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」。

(新共同訳)「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。

(口語訳)「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。

(文語訳)「われ道なり、眞理なり、生命なり、我に由らでは誰にても父の御許にいたる者なし」。

 ヨハネ福音書において、主イエスが語られる「わたしは~である」は、「神顕現定式」と呼ばれ、主イエスが神であられることを表す。シナイ山でモーセに現れた主なる神が語られた御言葉を受けている。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(口語訳、出エジプト記3・14)。

 「聖書協会共同訳」での翻訳の大転換が、「わたしは」が「私は」、「わたしたちは」が「私たちは」と、漢字になった点である。近年の日本語が「わたし」よりも、「私は」と漢字を用いることが多くなったことが繁栄している。ユダヤ教の神学者マルティン・ブーバーが『我と汝』において、聖書の神の特色は、神と人間とが「我と汝」と呼び合う人格的な関係にあると語った。戦後、来日し、国際基督教大学の特任教授となったエーミール・ブルンナーの神学に大きな影響を与えた。「わたし」と「あなた」が密接な対応関係にある。「聖書協会共同訳」は、「私」と「あなた」というように、方や漢字で、方や平仮名を用いる。神と私たちとが呼び合う時には、「わたし」と「あなた」と訳した方が特別な関係であることを表すと言える。主イエスの「神顕現定式」の言葉は、「わたしは」と表記すべきである。主イエスが語られる時は「わたしは」、他の者が語る時は「私は」と区別すべきである。


(2)マタイによる福音書28章20節

(聖書教会共同訳)「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

(新共同訳)「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

(口語訳)「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 甦られた主イエスが弟子たちに、「神の権能」(洗礼と説教)を託され、「全ての民をわたしの弟子にしなさい」と「大伝道命令」を告げられた重要な御言葉である。主イエスの地上での最後の御言葉であり、マタイ福音書の結びの言葉である。「口語訳」は「見よ」と、新約聖書の中で最も小さな言葉を訳している。神が新しい御業を行われる時に告げる感嘆詞である。しかし、この大切な御言葉が、「新共同訳」「聖書協会共同訳」では訳されていない。

 

(3)フィリピの信徒への手紙2章6~11節

  (聖書協会共同訳)

「キリストは

 神の形でありながら

 神と等しくあることに固執しようとは思わず

 かえって自分を無にして

 僕の形をとり

 人間と同じ者となられました。

 人間の姿で現れ

 へりくだって、死に至るまで 

 それも十字架の死に至るまで

 従順でした。

 このため、神はキリストを高く上げ

 あらゆる名にまさる名を

   お与えになりました。

 それは、イエスの御名によって 

 天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが

 膝をかがめ

 すべての舌が

 『イエス・キリストは主である』と告白して

 父なる神を崇めるためです」。

 初代教会の礼拝で歌われた「キリスト賛歌」である。これまで散文形式で訳されていたが、詩文形式で訳すことにより、明確になった。他に、テサロニケの信徒への手紙一5章16~22節がある。

「いつも喜んでいなさい。

   絶えず祈りなさい。

 どんなことにも感謝しなさい。

 これこそ、キリスト・イエスにおいて

 神があなたがたに望んでおられることです。

 霊の火を消してはいけません。

 預言を軽んじてはいけません。

   すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。

   あらゆる悪から遠ざかりなさい」。

(4)ローマの信徒への手紙3章25節

(聖書協会共同訳)「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました」。

(新共同訳)「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」。

(口語訳)「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた」。

(文語訳)「神はキリストを立て、その血によりて信仰による宥めの供物となし給へり」。

 ローマ書の中心聖句、私たちの信仰の核心である、主イエス・キリストの十字架の贖いの御業を語る御言葉である。「聖書協会共同訳」の大転換は、「キリストへの信仰によって義とされる」という「信仰義認の信仰」が、「キリストの真実によって義とされる」という「キリストの真実」に力点を置いた訳であることである。この箇所も、これまでは「私たちの信仰による」と訳していたが、「(キリストの)真実による」とキリストの御業に力点を置いている。

 もう一つこの箇所で重要なことは、「ヒラステーリオン」をどう訳かである。「文語訳」は「宥めの供物」、「口語訳」は「あがないの供え物」、「新共同訳」は「罪を償う供え物」と訳したが、「聖書協会共同訳」は「贖いの座」と訳した。「ヒラステーリオン」は、毎年、贖罪日に、大祭司が至聖所にある十戒の契約の板が納められた神の箱、「贖いの座」に、犠牲の雄牛の血を注ぎかけ、神の民の贖いの業としたことが土台にある。ヘブライ人への手紙9章1~5節、レビ記16章15~16節の「贖罪日規定」に、「贖いの座」(ヒラステーリオン)が指摘されている。

 ヘブライ人への手紙9章12~14節で、主イエスは大祭司として、自らを犠牲の雄牛として十字架にただ一度献げることにより、永遠の贖いを成し遂げられた。ローマの信徒への手紙3章25節は、主イエスの十字架の贖いを、主イエスの血が注がれた「贖いの座」となられたと語る。旧約の祭儀を土台として成し遂げられた主イエスの十字架の贖いであったことを明確にしている。

 

(5)ヨハネの手紙一2章2節

(聖書協会共同訳)「この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です」。

(新共同訳)「この方こそ、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」。

(口語訳)「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」。

(文語訳)「彼は我らの罪のために宥めの供物たり、啻に我らの為のみならず、また全世界の為なり」。

 主イエスの十字架の贖いをどのように受け留めるのかが、初代教会で重要な事柄であった。「口語訳」は「あがないの供え物」、「新共同訳」は「罪を償ういけにえ」、「文語訳」と「聖書協会共同訳」は「宥めの供物」「宥めの献げ物」と受け留めた。「ヒラスモス」である。ノアが洪水の後、箱舟から出て真っ先にしたことは、主のために祭壇を築き、焼き尽くす献げ物をささげ、主の宥めの香りとなった。神の怒りを鎮める「宥めの供え物」である。レビ記1章9節で、神への焼き尽くす献げ物の規定で、「これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである」とある。

 東京神学大学の中野実教授は、「罪のために神を宥める献げ物」も、「罪を償う供え物」も、不十分である。ローマ書3章25節「ヒラステーリオン」を「贖いの座」と訳したのだから、類似語の「ヒラスモス」も「贖いの供え物」(口語訳)と訳すべきであると提言している。

 

 

 

(6)ペトロの手紙二1章1節

(聖書協会共同訳)「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」。

(新共同訳)「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」。

(口語訳)「わたしたちの神と救い主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ」。

(文語訳)「我らの神および救主イエス・キリストの義によりて、我らと同じ貴き信仰を受けたる者に贈る」。

 ペトロの手紙二は新約聖書の中で最も新しい時代の手紙である。110~150年頃に書かれた。主イエスの十字架、復活の出来事から80~120年が経過し、ペトロ、パウロという有力な伝道者、第一世代の信仰者が世を去り、第二世代、第三世代の時代であった。そこで問われたのは、いつの時代であっても、どの地域であっても、どの民族においても、変わらない同じ信仰を受け継ぐことであった。「私たちと同じ尊い信仰」とは、「公同の信仰」である。「公同の信仰」の要にあったのは、「主イエスは誰なのか」というキリスト信仰であった。主イエスは神なのか、人なのか。キリスト論争が中心であった。

「口語訳」「新共同訳」は、「わたしたちの神と救い主イエス・キリスト」とあるように、父なる神と救い主イエス・キリストを区別して訳している。それに対し、「文語訳」「新共同訳」は、「私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト」と一つに訳している。主イエス・キリストは神であり、人となられた救い主である。主イエス・キリストは神である。このキリスト信仰が、「基本信条」の「ニカイ信条」へ受け継がれることになる。

 

(7)コリントの信徒への手紙一10章13節

(聖書協会共同訳)「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」。

(新共同訳聖書)「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。

(口語訳)「あなたがたの試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道を備えてくださるのである」。

(文語訳)「汝らが遭ひし試煉は人の常ならぬはなし。神は眞實なれば、汝らを耐へ忍ぶこと能わぬほどの試煉に遭はせる給はず。汝らが試煉を耐へ忍ぶことを得んために之と共に遁るべき道を備え給はん」。

 多くの方が愛唱聖句にしている御言葉である。「新共同訳」は「人間として耐えられないようなものはなかったはずです」と説明調に訳した。「文語訳」は「人の常ならぬはなし」、「口語訳」「新共同訳」は「世の常でないものはない」と原文に従って訳した。

 

 

 

 

 

(8)コリントの信徒への手紙一1章10節

 (聖書協会共同訳)「さて、きょうだいたち」。

 (新共同訳)「さて、兄弟たち」。

 (口語訳)「さて兄弟たちよ」。

 (文語訳)「兄弟よ」。

 「聖書協会共同訳」は「きょうだいたち」と平仮名で訳した。兄弟姉妹が含まれていることを表した。但し、「兄弟たち」も「兄弟姉妹」を含んでいると解釈される。

 

(9)ルカによる福音書9章14節

 (聖書協会共同訳)「というのは、五千人ほどの人がいたからである」。

 (新共同訳)「というのは、男が五千人ほどいたからである」。

 (口語訳)「というのは、男が五千人ばかりもいたからである」。

 (文語訳)「男おほよそ五千人ゐたればなり」。

 「文語訳」「口語訳」「新共同訳」は「男が五千人ほど」と訳したが、「聖書協会共同訳」は「五千人ほどの人が」と訳した。「男」の複数形は男女を含む人々を指す時にも用いられたからである。マタイ福音書だけがわざわざ「食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった」(14・21)と加えている。

 

4.おわりに

 聖書翻訳には完成はない。「聖書協会共同訳」も改善点もあれば、課題点もある。それ故、聖書翻訳は終末まで続く作業である。しかし、現時点では、聖書学の研究の成果、言葉の変遷を踏まえ、礼拝で朗読されるにふさわしいものとして、「聖書協会共同訳」が与えられた。

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