「あなたは神のもの」
イザヤ書28章14~18節
ペトロの手紙一2章1~10節
主日礼拝
井ノ川 勝 牧師
2025年10月26日
2025.10.26. 「あなたも神のもの」
イザヤ28:14~18,ペトロ一2:1~10
1.①私どもが生きる人生の道には、必ず人生の原点と言えるものがあります。自分の人生を支える原点です。試練に直面した時、大きな壁にぶち当たった時、立ち戻る基点です。そこからまた新しく歩み始める基点です。
私どもの信仰生活にも、信仰の原点と呼ばれているものがあります。信仰の迷い道に入り込んだ時、信仰の試練に直面した時、繰り返し立ち戻る基点です。そこからまた新しい命を注がれ、新しく信仰の歩みを始められる基点です。私どもの信仰の原点、それは何と申しましても、宗教改革の信仰です。改革者たちが命を懸けて、聖書に立ち戻り、発見した信仰の命の原点です。宗教改革の口火を切りましたのが、ローマ・カトリック教会の修道士であったマルティン・ルターでした。1517年10月31日でした。本日は宗教改革記念礼拝を捧げています。
ルターは日々、聖書の御言葉と向き合いながら修道士として生活をしていました。聖書の中で「義」という言葉と出会うと、恐ろしくて震え上がりました。私は神の義に見合う義しさに生きられない。義なる神から審かれる他はない。しかし、ルターは、神の義に見合う義しさは、自分の手で獲得すべきものではなく、与えられるものであることを聖書に発見しました。神の御子イエス・キリストが私どもに代わって十字架で、神の審きを受けて下さった。そのことにより、私どもは神の憐れみにより、無償で神の義が与えられた。神の義しさに生きる憐れみの道が拓かれた。ルターはその時の感動の喜びをこう表しました。
「今や私はまったく新しく生まれたように感じた。今、私にとって神の義は愛に充ちた美味し言葉となった。天国の門が私に開かれた。私は天国そのものに入った。全聖書も私に対して別の顔になった」。
面白い言葉です。ルターの感動の叫びが伝わって来ます。「神の義は愛に充ちた美味し言葉となった」。宗教改革はどこから始まったのか。聖書の言葉が美味し言葉となった。聖書の言葉を新鮮に新しく味わい直すことから始まったのです。ここに私どもの信仰の原点があります。私どもが忘れてはならないことです。聖書の言葉を頭で理解し直したというよりも、口で味わい、心と体全て感じ、味わったということです。「聖書の言葉は美味し」。
②この朝、私どもが聴いた御言葉の中で、真っ先に心に響いて来た言葉がありました。
「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです」。
この言葉を語ったのは、主イエスの弟子ペトロです。ペテロの信仰の原点がここにあります。「主が恵み深い方」という言葉は、掛詞となっています。元の言葉は、「クリストスはクレーストス」。「クリストス」は「キリスト」です。「クレーストス」は「美味し」という意味です。「キリストは美味し」。ペトロは感嘆しています。「キリストは美味し、恵みに溢れている」。あなたがたは、それを知識として知ったのではない。口で味わっているではないか。心と体で感じているではないか。信仰は私どもの生活を導くものです。信仰が私どもの生活に何の変化ももたらさないとしたら、その信仰はどこか間違っています。信仰は生活の言葉、生活の糧、命のパンとなって、私どもの生活を変えるのです。
私どもの日々の生活にあって、欠かせないものは、日毎の糧です。たとえ素朴な食事でありましても、美味しいものの味は口に残ります。忘れられません。おふくろの味などそうでしょう。それが私どもの生活を形造ります。キリストは美味し言葉となって、私どもの信仰生活を形造って下さるのです。
「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです」。
この御言葉と響き合う言葉こそ、本日、招きの言葉で聴いた詩編34編9節の御言葉です。聖餐が行われる礼拝で朗読される招きの言葉です。
「味わい、見よ、主の恵み深さを」。主の恵み深さを味わおう。
2.①ペトロは語りかけます。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい」。
「生まれたばかりの乳飲み子のように」。この言葉は大切な日を表す言葉となりました。主イエス・キリストが甦られたことをお祝いする復活祭の次の主の日を表す言葉となりました。最初の教会は、復活祭の朝、洗礼式を川で行いました。洗礼は、キリストにあって新しく生まれ変わることです。洗礼を受けた者たちは、将に生まれたばかりの乳飲み子です。復活祭の次の主の日、洗礼を受けた者たちは初めて、キリストのいのち・聖餐に与りました。そこで初めて、「理に適った、混じりけのない乳」を口にしたのです。以前の新共同訳では、「混じりけのない霊の乳」と訳されていました。「霊」という言葉を、今度の聖書では「理に適った」と訳しました。「言葉」という意味でもあります。「混じりけのない言葉の乳」です。キリストの命である聖餐です。同時に、キリストの言葉である聖書の言葉・説教です。
宗教改革によって、ローマ・カトリック教会から別れて、私どものプロテスタント教会が生まれました。宗教改革者たちは、教会が主の教会として立つためには、また、礼拝が礼拝として成り立つためには、二つのものが欠かせないとしました。説教と聖餐です。説教は目に見えない神の言葉、耳で聴く神の言葉です。聖餐は目に見える神の言葉、手で触れ、目で見、口で味わう言葉です。いずれも私どもを生かすいのちの言葉・いのちのパンです。これを食べなければ私どもの信仰は死んでしまいます。
ペトロは洗礼を受けたばかりのキリスト者だけでなく、全てのキリスト者に向かって語りかけるのです。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです」。
更に、ペトロは語りかけます。
「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです。主のもとに来なさい」。
「主のもとに来なさい」。これは聖餐に与る時の、招きの言葉となりました。主イエス・キリストは、私どもの口に、いのちの言葉・糧を授けるために、「わたしのもとに来なさい」と招いておられるのです。
②私どもは日々の生活を一人で生きているのではありません。孤独に生きているのではありません。主イエス・キリストが私どもと一つになって生きて下さるのです。私どもが日々味わう苦しみも悲しみも、主イエスが共に味わいながら生きて下さるのです。主イエス・キリストと私どもが一つであることを語るために、ペトロは家の譬えを用いています。
私どもが生きて行くためには、国家という家、社会という家、家庭という家が必要です。しかし、私どもが生きて行くためには、「霊の家」を欠かすことは出来ません。「霊の家」こそ教会という家です。神の家、キリストの家です。その家へ、「主のもとに来なさい」と、私ども一人一人が招かれているのです。ペトロが招かれた家は、石造りの家です。石を積み上げて家を造ります。主イエスは神の家に欠かせない生ける石です。しかし同時に、主に招かれた私ども一人一人も欠かせない生ける石なのです。
家を建てる上で欠かせないのは、土台を据えることです。土台となる石を据えることです。父なる神は私どもに、土台となる石、神の御子イエス・キリストという礎石を送って下さったのです。ところが、私どもはこんな石など役に立たない石だ、不要な石だと言って、十字架に向かって投げ捨てたのです。しかし、神は私どもから捨てられた石を拾い上げ、生きた石として隅の親石に据えて下さったのです。それは主イエス・キリストの甦りの出来事でした。神の家、霊の家の礎石を神が据えられた出来事でした。ペトロはこのように語っています。
「主は、人々からは捨てられましたが、神によって選ばれた、尊い、生ける石です」。
3.①更に、驚くべきことは、神は私ども一人一人を、キリストという隅の親石に連なる生ける石として用いて下さり、私どもも神の家、霊の家を構成する大切に生ける石とされているのです。キリストという隅の親石・生ける石に組み合わされることにより、私どもは捨てられた石、不要な石ではなく、生きた石とされるのです。それ故、ペトロは語ります。
「あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい」。
朝、妻と共に、金沢城公園に散歩に行きます。能登半島地震で、金沢城の石垣が崩れ、今、修復工事をしています。初期の石垣は、大きな石を積み重ねています。しかし、大きな石と石との間には、小さな石が幾つも埋め込まれています。大きな石を積み上げただけでは、がっしりとした石垣にはなりません。小さな石を隙間に幾つも埋め込んでこそ、がっしりとした石垣になります。
神の家、霊の家である教会も同じです。主に招かれた私ども一人一人も、いろいろな形をした石です。様々な形をした石が、主イエス・キリストという生ける石と組み合わされて、生ける石とされ、神の家、霊の家が建てられて行くのです。私などいてもいなくても、何の役に立たない不要な石だ。そのような石は一つもありません。全ての石が神の家を建てるために、欠かせない必要な石なのです。神が拾い上げ、欠かせない石として選び、組み込んで下さるのです。
②金沢教会で長く長老として奉仕された深谷松男長老が、8月30日、92歳で逝去されました。9月3日、京都の室町教会で葬儀が行われました。金沢教会では11月13日に、記念会を行う予定です。長く、金沢大学の法学部で働かれ、金沢教会で奉仕され、金沢の地を離れ、仙台で新たな使命に就くことになった時に、これまで教会の信徒セミナーで語られた講演をまとめられ、冊子にされました。『生ける石とされて』という書名でした。この御言葉から採られたものです。自らの信仰の原点がこの御言葉にあるからです。その序文で、自らの信仰の歩みを綴られています。
「(高校1年生の時、放課後の)聖書研究会に出席し、牧師に声をかけられました。心の悩みを語るのを、牧師はひたと私を見つめて聞いていました。私と同じ目の高さで、私の心を正面から受けとめる大人が、しかも集いを作って私の近くにいる。大発見でした。それからしばらくして、私はその牧師の牧会する教会(福島伊達教会)の礼拝に出席するようになりました。礼拝は日曜日の夜で、街灯ない真っ暗な田舎道を4・50分ほど歩いて教会に通いました。それはまた、礼拝の中で聞いたみことばを反芻する道でもありました。星空を見上げて覚え立ての賛美歌を唄い、ぼんやりと暗く夜空に浮かぶ山に向かって主の祈りを祈る道でした。みことばは少しずつ私の中に染み入っていきました。
私の父は、幼児期の眼病のため隻眼(せきがん)でした。閉鎖的農村社会の中で、父は障害者差別に苦しみながら黙々と生きていました。差別的偏見はその子にも及びました。しかし主イエスは、父の隻眼は『ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』(ヨハネ9・3)と教えられたのです。目から鱗が落ちる思いでした。そのようにして、私は教会にとらえられて行ったのです」。
仙台の大学で学びを終え、金沢大学の講師となって金沢に移る時、大学在学中に通っていた広瀬河畔教会の送別会の席で牧師がこう語られました。
「金沢に行くのはこの世の仕事のためと思われるでしょうが、もっと大事なことは、主なる神が使命を託してあなたを金沢に遣わされるのです」。
この言葉が金沢での生活の基本となりました。そして教会生活の中心となった御言葉こそ、この御言葉でした。
「あなたがた自身も生ける石とされて」。
しかし、深谷長老は語ります。
「しかし石である私たちは、他者には厳しく突き当たり、冷たくして愛を知らない。石は他者と手を結ぶことなく、ばらばらに散らばっているのみ。固く自己を閉ざしていて、ついには深く沈んでしまう。それは死である。石は罪と死のしるしである。私もその一人であった。もちろん、石といえども救いを願いつつ、自分でも分からぬもだえの中にいる。主はその石をみもとに集めたもう。石は主の救いにあずかり、主につながれて生ける石とされる。実は、自分が罪と死の石であることもこの主に出会って知る。それと同時にこの主の下に来て生ける石とされる。そしてがっちりと積み上げられて堅固な家すなわち教会に築きあげられる。生ける石とされるということは、この教会の一員とされて主につながることであります。教会という霊の家の形成に用いられ、その中で愛の人、希望の人に変えられます。主とその教会につながり、主とその教会を信じ、愛して生かされていくからです。・・これからの歩みも、これまでと同様に生ける石として、教会の一つの枝としての歩みでありたいと素朴に願っています」。
深谷長老の信仰告白、悔い改めです。それは私どもの信仰告白、悔い改めでもあります。
4.①ペトロは語ります。
「あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい」。
そして更に語ります。
「聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げるためです」。
神の家、霊の家に、生ける石として拾われ、選ばれ、組み込まれた生ける石である私どもは、聖なる祭司としての務めを担うのです。
ルターは教会が主の教会として立って行くために、三本の柱が必要であると語りました。宗教改革の三本柱です。神の言葉は、ただ聖書のみで語られる。われわれが救われるのは、ただ信仰のみ、キリストの恵みのみによる。われわれ全ての者が祭司である。万人祭司、全信徒祭司と呼ばれています。中世のローマ・カトリック教会、礼拝は、司祭のみで成り立っていました。信徒の務めはありませんでした。しかし、ルターは教会には牧師だけでなく、信徒も欠くことの出来ない存在として位置づけました。その大切な聖書の御言葉となったのが、この御言葉でした。
「聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げるためです」。
全ての信徒が祭司であるとは、どういう務めを行うのでしょうか。祭司は何よりも礼拝者です。あなたがたの体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるのです。賛美のいけにえを献げるのです。
また祭司は信徒一人一人の魂の牧会者でもあります。お互いが牧会し合うのです。
更に祭司とは執り成し祈る者です。礼拝に出席出来ない家族、友、信仰の仲間に代わって、彼らのために執り成しの祈りを捧げる者です。9月23日、かつて30年伝道した伊勢の山田教会独立百周年記念礼拝で、12年ぶりに説教をしました。山田教会の説教壇で繰り返し語ったことがあります。われわれは主の日、伊勢市民10万人を代表し、伊勢市民10万人に代わって、伊勢市民10万人の救いのために執り成しの礼拝を捧げているのである。今朝、金沢教会は、金沢市民46万人を代表し、金沢市民46万人に代わって、金沢市民46万人の救いのために執り成しの礼拝を捧げているのです。
神の家、霊の家に連なる私ども一人一人が生ける石、祭司として、礼拝者、牧会者、執り成し手として用いられているのです。
②今、私どもが礼拝を捧げている教会堂は、2002年に献堂されました。献堂から23年経ちました。多くの方々の祈りと信仰によって建てられました。パイプオルガンは2003年に奉献されました。喜びの時も、悲しみの時も、試練の時も、神への賛美に溢れる会堂です。この教会堂の礎石が玄関の入り口の左の壁にはめ込まれています。その礎石に刻まれた御言葉が、この手紙の2章6節で引用されたイザヤ書28章16節の御言葉です。新共同訳です。
「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない」。
この御言葉の上に教会が建てられています。神が据えられた要石こそ、生ける隅の親石である、甦られた主イエス・キリストです。この生ける親石の上に、私ども一人一人が生ける石となって組み込まれているのです。一人一人が聖なる祭司となって、主に賛美を捧げ、祈りを捧げ、お互いの魂を執り成し合いながら、神の家、霊の家を造り上げているのです。
今、甦られた主イエス・キリストは、私ども一人一人を、主の食卓へと招いておられます。
「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです。主のもとに来なさい」。
お祈りいたします。
「主よ、耳で聴く御言葉を通し、手で触れ、目で見る御言葉を通して、主は恵み深い方、主は美味しを味わわせて下さい。主の美味し味わいに生きる神の民として下さい。捨てられた石である私どもを選び、拾い上げ、キリストという要石に組み込んで下さった主よ、どうか私ども生ける石、聖なる祭司として用いて下さい。信仰と祈りと賛美を一つにし、神の家、霊の家を造り上げさせて下さい。この世界のために執り成す主の群れとして下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
