top of page

「あなたは良くなりたいか」

詩編 42編2~18節
ヨハネによる福音書 5章1~18節

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年9月6日

00:00 / 30:32

2026.9.6. 「あなたは良くなりたいか」

      詩編42:2~12,ヨハネ5:1~18


1.①9月最初の主の日を迎えました。秋からクリスマスへ向かうこの季節に、私どもが祈り願うたた一つのことがあります。一人でも多くの方が、主イエス・キリストによって救われ、洗礼に与ることです。救われる者が起こされることです。

 8月23日の主の日の礼拝で、北陸学院高校3年生が洗礼を受けられました。しかし、その日の早朝、大切な命が主によって取り去られました。姉妹の傍らで、涙を流して祈りを捧げました。その同じ日に、主は新たな命を私どもの教会に与えて下さいました。悲しみの涙と喜びの涙を、同時に流した主の日となりました。

 洗礼式の時に、洗礼志願者に主の御前で誓約をしていただきます。洗礼志願者に問いかけます。「あなたは救われたいのか」。洗礼志願者は答えます。「はい、私は救われたいです」。そして頭の上に水を注ぎ、洗礼を授けます。キリストにあって救われた者は、キリストと共に新しい命を生きる者とされます。

 私どもの誰もが、私は救われたいと願っています。そして今、主イエス・キリストは、私ども一人一人に向かって問いかけられるのです。

「あなたは救われたいのか」。

 

8月23日の早朝、主の御許にお送りした教会員は、稲積志保さんです。7月下旬訪ねた時、体の痛みに耐えられないと言われました。でも、それ以上に霊的に枯渇している。御言葉が聴きたい、言われました。そこで痛む体を抱えたままで、8月2日の主の日、朝の礼拝にも夕べの礼拝にも出席されましした。キリストの命の御言葉を聴き、キリストの命の聖餐に与りました。志保さんが語った言葉。体は痛む、それ以上に霊的の枯渇している。それは言い換えれば、キリストにあって、体も霊も健やかになりたいということです。それが救われるということです。

 今朝、私どもが聴いたヨハネ福音書5章の御言葉。24節でこう語られています。

「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている」。

 キリストによって、死から命へと移っている。このキリストの命に与り、私どもは生き、死ぬ。死んでもキリストの命へ移されている。それが救われることです。

 

2.①主イエスはベトザタの池、「憐れみの池」と呼ばれている池に来られました。そこには、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など、大勢の人が横たわっていたからです。その日はヤダヤ人の祭りの日でした。エルサレム神殿と境内では、大勢のユダヤ人の祭りを祝う声が鳴り響いています。しかし、主イエスは祭りへとは向かわれずに、静寂さに包まれたベトザタの池に来られました。

 ベトザタの池には5つの回廊があった。そこに大勢の病人が横たわっていました。何故、ベトザタの池に、大勢の病人が集まって来たのでしょうか。一つの言い伝えがあったからです。4節の御言葉の後に、☨のマークがあります。聖書は原本が見つかっていません。しかし、多くの写本が伝えられました。その写本の中に、ここに御言葉がある写本とない写本があります。恐らく、後に加えられた御言葉ではないかと判断し、ヨハネ福音書の最後に、ここに加えられた御言葉が記されています。208頁。

「彼らは、水が動くのを待っていた。ある時間になると、主の天使が池に降りて来て水を動かしたので、水が動いたとき、真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても、良くなったからである」。

 当時、広まっていた民間信仰です。しかし、病人にとっては、自分たちの救いに関わることです。藁をも掴む思いで、この池にやって来たのです。主の天使が池に降りて、水に触れる。水を動かす瞬間をじっと待っていたのです。

 大勢の病人が横たわる中、主イエスは一人の病人に目を留められました。38年間も病気で苦しんでいる人でした。主イエスはその人が横たわっているのを見、長い間病気であることを知っていました。主イエスは見て下さり、知って下さる。主イエスの動作が強調されています。30年間病気で苦しんでいる人を見られ、その苦しみを知って下さる。そしてひと言、語られました。

「あなたは良くなりたいか」。

「治りたいか」「健やかになりたいか」という意味です。病気の人に向かって、「あなたは良くなりたいか」と尋ねる。これは愚かな問いかけです。病人にとって良くなりたいことは、自明なことだからです。しかし、主イエスは敢えて問いかけるのです。「あなたは良くなりたいか」。ここに急所があるからです。

 

「あなたは良くなりたいか」。ところが、この病人は、「はい、良くなりたいです」とは答えていません。素直に答えられないところに、この病人の深刻な問題がありました。病人は不平不満を、主イエスにぶつけます。

「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人はいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです」。

 主よ、私は病気で体が不自由なのです。池の水面が動いた時、誰から手を貸さなければ、私は池に真っ先に飛び込むことなど出来ないのです。私に手を差し伸べる人など、誰一人いません。私が行く間に、他の病人が先に池に飛び込むのです。ひどいじゃありませんか。憐れみの池なんて、名ばかりじゃありませんか」。

 この病人は二つの不平不満をぶつけています。一つは同じ病人に対して、もう一つは健康な人に対してです。

 病気の人の苦しみや痛みは、病気の人でしか分かりません。従って、ベトザタの池には、大勢の病人が集まって、お互い苦しみや痛みを共有しながら、慰め合いっていました。ところが、池の水面が動くと、病人同士は激しいライバルに代わります。他の病人を押しのけてまで、自分が真っ先に池に飛び込もうとする。激しい生存競争が繰り広げられます。誰よりも、私が良くなりたいからです。

 しかし同時に、体の不自由な病人が真っ先に池に飛び込むためには、健康な人の手助けが欠かせません。この38年間、手を差し伸べる人が一人も現れなかった。それに対する失望があります。

 「あなたは良くなりたいか」。主イエスの問いかけに、「はい、良くなりたいです」と素直に答えられない。病人に諦めと失望が支配していました。

 

3.①病気の人の言葉は直訳するとこうなります。

「私は一人の人間さえ持っていません。水が動く時、私を池の中に入れてくれる方を」。

 私どもに救いをもたらすただ一人のお方。勿論、主イエスです。しかし同時に、救い主イエスの許へ運ぶ手助けをする一人の方を、私どもは必要としています。

 ドイツから派遣された女性宣教師に、キュクリヒがいました。日本の幼児教育のために献身された宣教師です。父は教会の牧師でしたが、ある時、日本で幼児教育の働きをするため献身する人はいないかと訴えました。ある夜の祈祷会で、ベトザタの池の病人の癒しの御言葉が朗読され、「私には人がいません」という病人の言葉が説き明かされました。キュクリヒは結婚していましたが、3日間の結婚生活で、夫は第一次世界大戦に召集され、戦死していました。その悲しみを秘めた心に、「私には人がいません」という言葉が響いて来ました。私にも愛する人がいなくなってしまった。私も悲しみの心の中で、「私には人がいません」と叫んでいる。しかし、主イエス・キリストは私の叫びを聞いて、私の所に来て下さる。私がその人になって上げようと、私を受け留め、癒して下さる。その時、キュクリヒの心に、日本の子どもたちが、「私には人がいません」と叫んでいる声が聞こえて来た。「私がその人になろう」と決心して、長い船旅をして日本に来られました。

 キュクリヒが来日された年に、関東大震災が起こりました。太平洋戦争の時代にも日本に留まりました。様々な試練に遭遇しました。敗戦後、戦災孤児を集めて埼玉県の加須市の愛泉寮で、孤児院を開きました。愛泉寮に集まる戦災孤児は皆空腹で痩せ細り、身も心も病み、ベトザタの池に集まった病人たちのようであった。「私には人がいません」「私には父も、母もいません」と訴える戦災孤児の叫びに、キュクリヒは「私がその人になります」と献身しました。

 敗戦後、日本の再建にとって、何よりも幼児教育が必要だと考え、保育者の養成のために学校を建設しました。その時も、「私がその人になります」と応えたのです。そして祖国に帰ることなく、日本で生涯を終えられました。全てを日本の教育、子どもたちのために献げました。「私がその人になります」との献身に生きました。

 

日本に来日されたことのあるマザー・テレサが『生命あるすべてのものに』という本の中で、語ります。

「今日、日本や他の裕福な国々では、とても醜い飢えがあるかもしれません。誰からも必要とされないという醜い怖れ、誰からも愛されていないという醜い貧しさ、誰からも必要とされていないこの貧しさこそ、ひと切れのパンよりも、飢えよりも、もっと醜い貧しさだと、わたしは思います」。

 そしてこう語ります。

「人々はあまりにも物質的なことで一杯で、精神的なことを考えられなくなっているからです。沈黙した心に、神は語りかけられます。ですから先ず、祈ることです。というのは、祈りのないところには、愛はなく、愛のないところには、互いの信頼や対話や助け合いはありません」。

 マザー・テレサの毎朝の祈りは、この祈りでした。「主よ、私の手、私の足、私の声を、あなたのためにお使い下さい」。「私がその人になります」。


4.①ベトザタの池の回廊で、38年間病気で苦しみ、横たわっていた人を、主イエスは見られ、その病の苦しみを知り、問いかけました。「あなたは良くなりたいのか」。そしてその病人に語りかけました。

「起きて、床を担いで歩きなさい」。

 その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出しました。

 しかし、これでこの物語が終わったのではありません。実は、この出来事を切っ掛けとして、新しい物語が始まりました。

 この日は安息日でした。病気を癒したり、床を担いで歩くことは禁じられていました。ユダヤ人たちは、病気を癒してもらった人に語ります。

「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない」。

その人は答えました。

「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」。

ユダヤ人たちは尋ねます。

「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」。

しかし、その人は病気を治してもらった人が誰であるか知りませんでした。主イエスに癒されたのに、驚くべきことに、主イエスを知らなかった。

 この後、主イエスが病癒された人と再び、出会ったのは神殿の境内でした。この人は病癒されて、ユダヤ人の祭りに参加したのかもしれない。その時、主イエスは語られました。

「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。

 主イエスがここで指摘する、病癒されたこの人の罪とは何でしょうか。自分の身が癒されたにもかかわらず、自分の身に働いている主イエスが見えないことです。主イエスは私にとって、どのようなお方なのかが見えないことです。主イエスを通して私に働かれている父なる神が見えないことです。あなたにたとえどのようなことが起ころうと、主イエスの生ける御業の中にある。父なる神の生ける御業の中にある。生ける神の御手の中で、生きなさい。しかし、この人は生ける神の御手の中にあることに気づいていない。そこに罪がある。それは私どもにも起こる罪です。

 

病癒された人はユダヤ人たちに知らせます。自分を癒したのは主イエスであると。それを知ったユダヤ人たちは、安息日の戒めを破った主イエスを迫害し始めた。主イエスを殺そうと付け狙うようになった。主イエスを十字架につける殺意は、ベトザタの池の病人の癒しの出来事から始まった。この時、主イエスが語られた御言葉が重要です。

「私の父は今なお働いておられる。だから、私も働くのだ」。

 父なる神は安息日だからと言って、休まれない。安息日でも生き生きと働かれる。だから、私も安息日でも働くのである。目の前に、苦しんでいる病院が横たわっていれば、「起きよ、床を担いで歩きなさい」と、癒しの御業を行う。父なる神、その御子イエスの救いの御業は中断することはない。だから私どもが、安息日でも救われるのです。安息日でも洗礼を受けて、救われるのです。

 ここで注目したのが、主イエスが病人に語った癒しの言葉です。

「起きなさい。床を担いで歩きなさい」。

「起きなさい」という言葉は、象徴的な言葉です。「甦る」「復活する」という言葉と同じ言葉です。

 この出来事が起こってから数年後、安息日に驚くべき出来事が起こりました。この時、芽生えたユダヤ人たちの主イエスへの殺意は頂点に達した。安息日の前日、主イエスは十字架につけられて、殺された。その後、墓に葬られた。そして週の初めの日、日曜日の朝、新しい安息日の朝、十字架で死なれた主イエスは、父なる神によって起き上がらされた。甦らされた。「私の父は今なお働いておられる。だから、私も働く」と語られた主イエスの御言葉が、最も激しく生き生きと働かれた。

 主イエスが語られたこの御言葉が現実のものとなった。

「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお使わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている」。

 

父なる神が今なお生き生きと働かれた、主イエスの甦りの出来事を通して、私どもは生きる時も死ぬ時も、死から命へと移されているのです。生ける主イエス・キリストの命の中にあるのです。

 病癒された人は、主イエスの十字架の出来事、甦りの出来事を通して、あの時、語られた主イエスの御言葉の意味が本当に分かった。38年間病に苦しんで横たわっていた私にも、父なる神の生ける御業が働いた。主イエスの生ける救いの御業が働いた。私は死の床から起き上がらされた。甦らされた。新しい命へと移され、生き始めるようになった。主イエスこそ、私の主、私の神。信仰告白をし、洗礼へと導かれ、教会に連なる者とされたのではないか。

 私の父は今なお生き生きと、あなたに働かれている。主イエス・キリストは生き生きと、あなたに働かれ、救いの御業を行われている。「起き上がれ。床を担いで歩きなさい」。あなたが救われて、洗礼を受けることを、主イエスは願っておられるのです。

 

 お祈りいたします。

「病に苦しむ私どもです。その苦しみ、痛みを、主イエスは見て下さり、知っていて下さるのです。癒しの御業を行い、私どもを救い、死から命へと移して下さるのです。今なお休むことなく働かれる父なる神の生ける御業、御子イエス・キリストの生ける御業の中で、私どもを生かして下さい。『私がその人になります』と、主よ、私どもを生ける主の御業に用いて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

石川県金沢市柿木畠5番2号

TEL 076-221-5396 FAX 076-263-3951

© 日本基督教団 金沢教会

bottom of page