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「あなたも神の協力者」

イザヤ書 49章8~13節
コリントの信徒への手紙二 6章1~13節

井ノ川 勝 牧師

2026年3月1日

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2026.3.1. 「あなたも神の協力者」

      イザヤ49:8~13、コリント二6:1~13


1.①日々の生活において、人のまなざしが気になることがあります。人々が私のことをどのように見ているのだろうか。人々が私のことを、どのように評価しているのだろうか。人の評価が気になることがあります。何人かの方が集まって、ひそひそ話をしていますと、私のことを話題にしているのではないか。私の悪口を言っているのではないか。そう思ってしまうことがあります。人々の目、人々の評価を余りにも気にし過ぎますと、心が病んでしまいます。そのことで苦しんでいる方も多くいます。それは誰にでも起こることです。

 私どもは日々、人々との交わりの中で生活していますから、人々のまなざしを避けることは出来ませんし、人々からの評価を避けることも出来ません。人々から評価されれば、嬉しくなります。自分もまんざらではないと、高慢になることがあります。逆に、人々から評価されないと、何故、自分が評価されないのかと腹を立て、落ち込むことがあります。人々の評価によって、私どもは一喜一憂しながら生きています。

 しかし、このことは私ども伝道者にも起こる誘惑でもあるのです。伝道者は人々のまなざし、人々の評価から解き放たれて、ひたすら神に仕えているのではないかと思われています。しかし、日々、人々のまなざし、人々の評価という誘惑に中にあるのです。そのことを表している言葉を、伝道者パウロが語っています。

「栄誉を受けるときも、侮辱を受けるときも、不評を買うときも、好評を博すときにも」。

 伝道者として栄誉を受ける時も、侮辱を受ける時も、不評を買う時も、好評を博する時にも、私はどうなのかです。パウロは語るのです。人々のまなざしからも、人々からの評価からも、私は自由にされている。何故、パウロはそう言い切ることが出来るのでしょうか。パウロはどこに立っているのでしょうか。どこに身を置いているのでしょうか。

 

伝道者であっても、人々のまなざし、人々の評価は気になるものです。伝道者であっても、絶えず人々のまなざし、人々の評価に晒されています。しかし、どの時、どこへ向かうからです。どこに立つかです。どこに身を置くかです。これは伝道者だけではなく、私ども一人一人の問題です。パウロは語ります。

「私は、あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです」。

言い換えれば、私は神に仕える者として、あらゆる場合に、神のまなざしの下に立っている。そこしか私の立つ場所はない。神があなたはここに立ちなさいと、私どもを呼んで、手を引いて、立たせて下さる。それが神のまなざしの下です。そこで、私は神に仕える者なのだと、自分を知るのです。

 「神に仕える者」。言い換えれば、「神の僕」です。パウロは手紙の冒頭で、自らを紹介する時に、しばしばこう語りました。「キリスト・イエスの僕パウロ」。「僕」という言葉は、「奴隷」という意味でもあります。私はキリスト・イエスの奴隷なのだ。僕は主人のまなざしの下にいつも身を置きます。主人の命令を喜んで果たします。主人に喜んで仕えます。主人の喜びを、自らの喜びとします。私は神に仕える者、キリストに仕える者。神のまなざし、キリストのまなざしの下で生きる者。キリストの喜びを私の喜びとする者。そこではもはや人々のまなざし、人々の評価から自由にされているのです。

 

2.①「私たちは神に仕える者」。伝道者パウロはこの言葉を、他の言葉で言い換えています。「私たちは神と共に働く者」。新共同訳聖書4では「神の協力者」と訳していました。キリストの僕である私どもは、伝道者も信徒も、神に仕える者、神の協力者として、神と共に働く者とされている。驚くべきことです。

 宗教改革者ルターは、私どもが救われたのは、私どもの行いによらず、ただキリストの恵みによって救われたのだ、と強調しました。神の御子イエス・キリストが私ども罪人の身代わりとなって十字架で、神の審きを受けて下さった。主イエス・キリストの身代わりの死によって、私どもはただ神の恵みにより、無償で義とされ、救われたのだ。私どもの行い、助けを何一つ借りずに、神がただひとりで救いの御業を成し遂げて下さった。これを「神の独占活動」と呼んでいます。神の独占活動が、主イエス・キリストの十字架の出来事においてなされたから、私ども罪人は救われたのだ。私どもは疑うことも、心配することもない。完璧な救いがなされた。

 しかし、神の独占活動によって救われた私どもが、神の協力者として、神と共に働く者とされた、ということはどういうことなのでしょうか。パウロは語ります。

「私たちはまた、神と共に働く者として勧めます。神の恵みをいたずらに受けてはなりません」。

「神の恵みをいたずらに受けるな」とは、どういう意味でしょうか。神の恵みをたくさん受けるなということではありません。主イエス・キリストが十字架で、私どもに注がれた血潮、恵みは、私どもの器に溢れんばかりに注がれているのです。「神の恵みをいたずらに受けるな」というのとは、神の恵みを無駄にして、空っぽにするなということです。神が主イエス・キリストの十字架の出来事でなされた神の独占活動、主イエス・キリストの十字架の恵みを溢れんばかりに注がれた私どもは、キリストの十字架の恵みに感謝して応えるのです。神に喜んで仕え、神の協力者として、喜んで神と共に働く者とされたのです。何と光栄なことでしょうか。宗教改革者カルヴァンの言葉で言えば、「聖霊の道具」として用いられるということです。

 主イエスは伝道される時に、一人でしようとはされませんでした。12人の弟子たちを選ばれました。マグダラのマリアを始め、女性の助け手が与えられました。主イエスは一人で伝道することも出来ました。しかし、弟子たちと共に、助け手と共に伝道されました。それを喜びとされました。そこに教会の姿があるからです。

 

伝道者パウロは、「神の協力者」という言葉を手紙の中で、三度用いています。また、「キリスト・イエスにある私の協力者」という言葉も、5回用いています。パウロにとって、自らを表す大切な言葉であったのです。キリスト・イエスにあって伝道者パウロの協力者になることが、神の協力者とされることでもあったのです。伝道は伝道者一人がするものではありません。伝道者にとって幸いなことは、伝道者の伝道を支えて下さる良き信徒が与えられることです。

 パウロが、「キリスト・イエスにある私の協力者」として挙げているのは、若き伝道者テモテです。そして、プリスキラとアキラの信徒夫妻です。パウロがコリントで伝道をした時、パウロの伝道を助け、良き協力者となったのが、プリスキラとアキラでした。自分たちの家を提供し、パウロはそこに住み込んで伝道しました。その家がやがてコリントの教会となりました。エフェソ伝道でも、パウロの伝道の協力者となりました。プリスキラとアキラと言うように、妻の方が先に名前が記されています。妻の方が教会で様々な奉仕を担われたからでしょう。婦人会の会長をしていたのかもしれません。金沢教会にも、プリスキラとアキラのように、夫婦で伝道者を支え、神の協力者として、喜んで神に仕えている夫婦が幾人もいます。教会の伝道は、伝道者を支える信徒たちの神の協力者を得て、前進するのです。

 

3.①私ども一人一人は、神の協力者として、神と共に働く者とされたものです。教会には様々な働きがあり、大小には関係ありません。一つ一つが欠くことの出来ない大切な働きです。しかし、神の協力者として、神と共に働く時に、様々な苦難、困窮、行き詰まりに直面します。何故、私一人が教会で、こんなに苦しまなければならないのか。苦難の中にいる私は一体何者なのか。自分を見失うことがあります。

 神の協力者であるパウロは、どんな苦難にもへこたれない、強靱な伝道者であるように思えます。ところが、パウロも伝道する中で、苦難、困窮、行き詰まりに直面して、呻いています。この手紙は、伝道者パウロの生の息遣いが聞こえて来ます。

「私たちは人を欺いているようでいて、真実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています」。

 人の目から見れば、伝道者は、人を欺いているように見える。人に知られていないように見える。死にかけているように見える。懲らしめを受けているように見える。悲しんでいるように見える。貧しいように見える。何も持たないように見える。しかし、神のまなざしから見れば、真実であり、よく知られ、生きており、殺されず、常に喜び、多くの人を富ませ、すべてのものを所有している。キリストにあって豊かにされている。だから苦難、困窮、行き詰まっても、倒れない。

 「神の協力者」は、私が神の伝道の協力者であるだけではない。何よりも、神が、キリストが、いと小さく、貧しい私どもの伝道の協力者となって支えて下さるのです。

 

伝道者パウロの呻きの中で、特に注目したい言葉があります。

「死にかけているようでいて、こうして生きており」。

口語訳聖書は元の言葉に忠実で、こう訳していました。

「死にかかっているようであるが、見よ、生きており」。

元の言葉には、「見よ」という言葉があります。新約聖書の中で、最も小さな言葉です。しかし、重要な言葉です。問題は、誰が誰に向かって語りかけているのでしょうか。様々な苦難に直面し、死にかかっている自分に向かって、語りかけ、励ましているのでしょうか。自分が自分に向かって語りかけ、励ましても、その言葉は空しい言葉です。そうではありません。主イエス・キリストがパウロに向かって語りかけ、励ましているのです。

「死にかかっているようであるが、見よ、生きているではないか」。

「見よ」という呼びかけの言葉は、神の働きを現す言葉です。

「死にかかっているようであるが、見よ、生きているではないか」。

このキリストの声を聴いたパウロは、キリスト言葉に合わせて、自分の心に刻んでいるのです。

「死にかかっているようであるが、おっとどっこい、見よ、生きており」。

 パウロが苦難、困窮、行き詰まりに直面し、呻いている。

「私たちは人を欺いているようでいて、真実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようでいて、見よ、生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有している」。

ここで語られていることは、十字架の主イエスが受けられた苦難、困窮、行き詰まりでした。十字架で、私どものために、このような苦難、困窮、行き詰まりを受けられた主イエスが、苦難の中にある私どもに語りかけるのです。

「死にかかっているようであるが、見よ、生きているではないか。わたしがあなたを御手をもって支えているからだ」。

 パウロはここで、七つの呻きを挙げています。主イエスの山上の説教、七つ、八つの幸い、祝福と対応しています。最後の三つはこのように訳せます。

「悲しんでいるようで、常に喜んでいる」。

「物乞いのようで、多くの人を富ませる」。

「無一物のようで、すべてのものを所有している」。

キリストにあって豊かな恵みを注がれたあなたは、死にかかっているようであるが、見よ、生きている。キリストに生かされている。キリストの豊かさの中で生かされ、用いられるのです。その時、呻きが感謝の言葉に替えられるのです。

「悲しんでいるようで、常に喜んでいる」。

「物乞いのようで、多くの人を富ませる」。

「無一物のようで、すべてのものを所有している」。

 

4.①神の協力者とされ、神と共に働く者とされた私どもにとって、何よりも大切なことは、神と、キリストと、呼吸を合わせることです。呼吸が合わなければ、共に働くことは出来ません。

 呼吸を合わせることで、想い起こすことがあります。神学校に入学して驚いたことがあります。運動会があることです。まさか、神学生になってまで、運動会をするとは思いませんでした。学年対抗で、玉入れ、リレー、障害物競走がありました。綱引きもありました。私どもの学年はとても仲が良くて、綱引きだけはいつも一番でした。綱引きに必要なのは、呼吸を合わせることです。どんなに力があっても、呼吸が合わなければ、相手に勝つことは出来ません。

 綱引きだけではありません。聖歌隊の合唱でも、交響楽団の演奏でも、そして礼拝も、呼吸を合わせることが何よりも大切なことです。呼吸が合わなければ、不協和音が生じます。協力することは、何よりも呼吸を合わせることです。

 神の協力者として神と共に働く。しかし、私どもは様々な苦難に直面し、困窮し、行き詰まり、呼吸困難に陥ります。はあ、はあと喘ぎます。しかし、共に働かれる甦られた主イエス・キリストがいのちの息を注いで下さる。「聖霊を受けよ」。そのいのちの息を吸い込んで、主イエス・キリストと呼吸を合わせて、主の御業に励むのです。私どもが聖霊の道具である。言い換えれば、私ども一人一人が聖霊の楽器なのです。様々な形をした楽器です。様々な音色を放つ楽器です。しかし、聖霊の息が注がれた時に、神をほめたたえる音色を、それぞれの楽器の音色で奏でるのです。

 

この手紙の1章24節で、パウロは語りました。

「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰にしっかり立っているからです」。

 全ては、あなたがたの喜びにために協力する者である。私どもを生かして下さる神を喜ぶ、喜びの賛美のために、私どもは神の協力者として喜んで共に働く。私ども一人一人の楽器が奏でる音色は、喜びの知らせ、福音は、この御言葉です。

「『私は恵みの時に、あなたに伝え、救いの日に、あなたを助けた』。今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です」。

 あなたにとってキリストがもたらして下さった救いは、今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。今こそ、キリストの恵みを受け入れ、洗礼を受ける時です。

 

 お祈りいたします。

「ただ、キリストの十字架の恵みによってのみ救われた私どもです。溢れんばかりの恵みを注がれた私どもです。その神の恵みを空っぽにしないために、私どもも神の協力者として、神と共に働く者として召されたのです。主イエス・キリストよ、いのちの息を注いで下さい。キリストがもたらされた喜びの知らせを奏でる聖霊の楽器として用いて下さい。一つ一つの聖霊の楽器が、神をほめたたえる音色として用いて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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